第3話
第3話
コンクリートが浮いた——と、俺の舌の上で金属の味がひときわ濃くなった。奥歯の裏、ちょうど親知らずを抜いた跡の窪みに、錆びた釘を舐めたような痺れが集まる。一ミリの浮き上がりは、〇・四秒後に三ミリに育ち、次の瞬間、陣の中央から半径二メートルの床が、薄い蜘蛛の巣模様に罅割れた。 「——始め!」 二度目のブザーが、罅の音を誤魔化した。受験生三十人の詠唱が、ばらけた速度で重なり始める。磐城の桜色、瀬田の橙色、東堂の水色、光の粒が天井へ伸び、封印式の白と混ざり合う。色が重なるたび、空気の密度がわずかに上がり、耳の奥で鼓膜がぱつんと張る音がした。 俺は陣の外、審査員席の脇に立っていた。灯里は北壁寄り、配置表を無視した最下位の位置。壁のコンクリートに背を預け、手のひらを広げ、ゆっくり詠唱を始めている。ミントの喉飴の匂いが、十二メートル離れたここまで、なぜか届く気がした。気のせいじゃない。彼女の防御式が、今、第一層を展開した。〇・八八秒。今日、最速。 手帳のシャープペンが、俺の人差し指の腹で滑った。冷や汗のせいだ。親指で軸を握り直し、芯先を紙に押し付ける。紙の繊維がわずかに沈み、0.5ミリの芯が、0.3ミリ分だけ、灰色の筋を残した。 ——九時〇分十二秒、陣中央、隆起。亀裂、放射状、八方向。 罅の谷間から、黒い霧が噴き上がった。霧は色を深めながら凝集し、ごぼ、と内側で気泡が潰れる音を立てて——五つ、六つ、七つ。第七階梯に満たない、中規模妖魔。俺の手帳の仮名で「第五階梯」と呼んでいる大きさだ。数は、 「……十二」 隣で、審査員の若い術師が、詠唱符を取り落として足元に転がした。紙の端が、砂を擦る乾いた音。その音に、若い術師自身の喉が鳴る音が続いた。唾を飲んだ、というより、飲み込めずに喉を鳴らした。
「総員、封印を維持しろ!」志賀の声が、会場中央でひっくり返った。「受験生は、教本通りに——対処せよ!」 対処せよ。評価の対象は、瞬きひとつのあいだに、実戦対応へ切り替わった。教壇脇の電光板に「実戦移行・逃走経路指定」の表示が点く。配置図と同じ紙に、同じ安物のインクで、逃走経路が赤い矢印で描かれていた。 北西、非常扉A——磐城ら上位三名が向かう経路。 南東、非常扉B——中位グループ。 そして、中央から北壁を迂回して非常扉Cへ——下位八名、灯里を含む。 一目で、その経路の嘘が見えた。 中央で噴き出した妖魔十二体のうち、四体が北壁へ向かって弧を描いている。残る八体は、非常扉Cの手前で、まるで申し合わせたように停止していた。待ち伏せの、獲物が勝手に歩いてくるのを待つ、あの、腹を空かせた獣の停まり方だ。壁沿いに展開する術式光は、北壁の一箇所だけ、わずかに薄い。妖魔が素通りできる幅の「穴」が、そこに空いている。 「蓮くん、これ——」 灯里が、壁伝いに二歩、非常扉Cの方向へ寄りかけたのが、視界の端に入った。 「駄目だ!」 怒鳴った声は、喉の奥で掠れた。代わりに、俺は手帳を握り潰さんばかりに強く持って、陣の外周を駆けた。シャープペンが転がって、コンクリートの溝に挟まる。どうでもいい。 「灯里、逆だ! 北じゃない、南西の通風口!」 「南西——?」 「経路Cは、塞がれてる。行けば、下位全員が食われる」 灯里の足が、一瞬、迷った。下位八名のうち三人が、すでに経路Cに向かって走り出している。Fランク寮の下級生——俺の手帳に「左膝に古傷、走行時に〇・三秒遅れる」と記録してある男が、先頭で非常扉Cの取っ手を握った。指の関節が、取っ手の冷えた金属に、白く浮き上がった。 扉は、開かなかった。外側から、何かが押さえている。 男の背中に、黒い霧がぬるりと伸びた。第五階梯の触腕。悲鳴。焦げた髪の、甘く酸っぱい匂い。鼻の奥に、夏の線香花火の燃えカスが貼りついた気がした。舌の先が、ひとりでに、上顎の裏を舐めた。乾いていた。 「——南西!」 俺の声は、今度は届いた。下位の残る五人が、方向を変える。灯里も走り出す。白衣の裾が、コンクリートの砂を巻き上げた。砂粒の一つが、俺の右目の下瞼に跳ね、涙の膜の上で、ちくり、と焦げた。 「磐城! 結界を南西の通風口に寄せろ!」俺は陣の向こうに怒鳴った。 「なに言ってる、Fランクが指図するな!」磐城の桜色が、自分の目の前の妖魔一体を砕く。彼は、自分の評価の点数の内側にいた。 俺は、評価の外にいる。だから、見える。 陣の外周を、手帳片手に、逆時計回りに走った。妖魔の視線——というより意識のわずかな傾き——を読み取りながら、自分の位置を調整する。三年間、毎朝、中庭で磐城たちの術式を見続けた俺の眼は、妖魔の運動にも同じ精度で働いた。 ——第五階梯、ひとつ、二秒後に南西の壁へ到達。触腕の展開、〇・七秒。灯里の防御式、通常〇・八八秒。 ——間に合う。
はずだった。 頭の中の手帳が、勝手にページを繰った。 『芹沢灯里、緊張時、喉飴を奥歯に押し付ける癖。詠唱の第一音が、〇・〇四秒遅れる』 間に合わない。 考えるより前に、俺は陣の内側へ踏み込んでいた。審査員の誰かが「受験生以外、立ち入り禁止——」と叫びかけて、語尾が消えた。咎める余裕が、もう誰にもない。 コンクリートの罅を跨ぐ。靴底の下で、硬い角が踵を削った。痛みは、奇妙に遠い。制服の内側、背骨のあたりが、ひどく冷えていた。汗の粒が一つ、首筋からシャツの襟を伝って、胸の中心まで落ちた。心臓の音が、耳の中で、拍手の音に似た重い二連打を繰り返している。吸うべき息を、半分しか吸えていない。それでも、足は止まらなかった。 南西の通風口前、灯里が壁に背を預けた。ブレザーの袖口に、古い絆創膏の白が覗く。数日前、図書室で本棚の角にぶつけたと言って、笑っていた、あの絆創膏だ。彼女の詠唱が始まる前に、妖魔の触腕が、宙を裂いて届きはじめた。 ——触腕到達、〇・九秒。 ——防御式、本来〇・八八秒。遅延〇・〇四秒。 ——差し引き、〇・〇六秒、彼女が遅れる。 一・六秒の距離を、俺は四歩で詰めた。鞄を、床に放った。中で缶コーヒーが鳴り、ぬるい感触が足元で跳ねた。手帳は、右手に握ったまま。左手は、空。 「俺が出る! 灯里は詠唱を続けろ!」 「蓮くん、術式なしで、何するつもり——!」 「見てきた。三年、見てきただけは、ある」 磐城の桜色が、対岸で妖魔を砕く音がした。瀬田の詠唱も、東堂の水の膜も、全部、遠い。俺の視界から、評価の色が、一枚ずつ剥がれていった。 代わりに、触腕の表面が、異様な解像度で、眼に食い込んできた。鱗状の紋、八枚に一枚、薄い継ぎ目。その隙間だけが、手帳の赤字のように、じわりと浮き上がって見える。毎朝、中庭で磐城の歩幅の〇・一ミリの揺らぎを追っていた、あの視界の使い方。書き留めるべき線と、捨てるべき線が、勝手に仕分けされる。 ——磐城を毎朝見ていた時と、同じ眼だ。 息を、四秒吸った。六秒かけて吐く、灯里が教えた整呼法。吐き終わる前に、俺は踏み込んだ。
触腕が、灯里の鎖骨めがけて、真っ直ぐ下りてきた。 その先端と、灯里の白衣のあいだに、俺は身体を、割り込ませた。右手の手帳を、触腕の太い節に押し当てる。鱗の継ぎ目の薄い一点に、三年分の赤字の角が、ぴたり、と触れた。左の素手が、上から挟むように、もう一つの継ぎ目を、押さえる。 掌に、低温火傷のような熱。指の第二関節の皮膚が、一気に痺れた。爪の下で、血が、逆流するような脈を打つ。金属と皮が一緒に焦げたような、細い煙の匂いが、鼻先を掠めた。自分の皮膚が焼けているのか、触腕の鱗が焼けているのか、判別がつかない。 触腕が、一瞬、止まった。一瞬だけ、だ。 「灯里、今——!」 言葉を言い切る前に、頭上のドーム結界、封印式の縫合第二層——昨夜から何度も書きつけてきた、あの座標——に、音もなく、縦の割れ目が走った。 外側からの侵入じゃない。内側から、誰かの手で、裂かれていた。 灯里の右手が、俺の背中のシャツを、汗で貼りついた布ごと、握った。絆創膏の縁が、背骨の脇に触れる。指先の震えが、布一枚を挟んで、俺の皮膚に、そのまま伝わってきた。 割れ目の向こうで、金属の触れ合う、低い音が、一度。 俺の手帳は、触腕の節に、まだ、食い込んだままだった。