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灰狼、敵国より牙を研ぐ

第2話 第2話

第2話

第2話

書類の冒頭に記された日付を、カイは三度読み返した。

砦炎上の二週間前。あの夜、火薬庫に仕込まれた油壺が爆ぜ、仲間が焼かれ、十二年の忠誠が灰に帰した——その二週間も前に、この文書は書かれていた。

左手の指が震えていた。怒りではない。いや、怒りもある。だが今この瞬間にカイの指を震わせているのは、もっと根深い何かだった。裏切られた事実への衝撃ではなく、裏切りが「計画」であったという認識が、骨の髄まで染み込んでくる冷たさだった。

密書の全文を読み通す余力は、まだ身体になかった。だが断片的に拾える単語だけで十分だった。「灰狼旅団」「排除」「処分」——国王の筆跡がその一語一語を綴っている。十二年の戦功を、たった数行で抹殺する文面。

カイは書類挟みを閉じ、寝台の上に伏せた。天井の染みを睨む。水滴が落ちる。一滴、二滴。その間隔を数えることさえ、今は無意味に思えた。

傭兵は泣かない。灰狼の掟だ。だが掟を叩き込んだ団長はもういない。東棟の瓦礫の下で、ハインツは笑っているのか、それとも——。

考えるな、とカイは自分に命じた。考えれば折れる。今折れれば、二度と立てない。

右腕の火傷痕が疼いた。包帯越しに熱を持ち、脈拍に合わせてずきずきと痛む。この痛みだけが、今のカイをこちら側に繋ぎ止めていた。

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閂が外される音がしたのは、翌朝のことだった。

窓の高い位置から差し込む光が白から淡い金色に変わり、朝であることがようやくわかった。看護兵が粥と水を運んできて、その背後に昨日と同じ香水の残り香が漂った。

リーゼ・カルシュタインは、今日は将校服ではなかった。濃紺の長衣に暗い紫の肩章。文官の装いだが、腰には細身の短剣を佩いている。諜報局長という肩書にふさわしい、表と裏を同時に纏う出で立ちだった。

「読んだかしら」

椅子を引く音。リーゼが昨日と同じ位置に腰を下ろし、脚を組んだ。

「……途中までだ」

「途中で十分よ。要旨はわかったでしょう」

カイは答えなかった。粥には手をつけていない。空腹は感じていたが、敵の食事を口にすることへの本能的な抵抗がまだ残っていた。

「国王直筆の処分勅令。灰狼旅団を前線拠点ごと焼却し、敵襲による全滅として処理せよ、という内容」

リーゼが書類の要旨を淡々と口にした。まるでカイの代わりに全文を読み上げてやるかのように。

「日付は砦炎上の二週間前。つまりあなたの祖国は、少なくとも二週間の猶予を持って灰狼旅団の抹殺を計画していた。補給物資に油壺を仕込み、火薬庫を内側から爆破する手筈を整え、そしてあの夜、実行した」

「……なぜお前がそれを持っている」

「諜報局だからよ。ヴェルザリア王宮には我が国の耳目が入り込んでいる。この写しが局に届いたのは、砦が焼かれる五日前だった」

五日前。リーゼはカイが焼かれることを知っていた。知った上で、何もしなかった。そして焼け跡からカイを拾い上げ、治療し、ここに寝かせた。その意味を、カイは正確に理解した。

「お前は俺が焼かれるのを待っていたんだな」

「正確に言えば、焼かれた後のあなたに用がある」

リーゼの切れ長の目が、笑みの形を作った。だが目の奥は笑っていない。この女の微笑は、抜き身の刃に似ている。

「本題に入るわ、ヴェルナー」

リーゼが長衣の内側から、革紐で綴じた薄い冊子を取り出した。表紙には何も書かれていない。紐を解き、最初の頁を開いてカイの前に差し出す。

地図だった。大陸西部の国境線を中心に、三つの要塞が赤い円で囲まれている。ホルンガルド、ヴァイゼン、グラオシュタイン。いずれもヴェルザリアが国境防衛の要としている拠点だ。カイ自身、そのうち二つには駐留した経験がある。

「この三つの国境要塞を、内側から崩しなさい」

リーゼの声には、提案の柔らかさはなかった。注文を告げる商人の口調に似ていた。

「影の遊撃隊として。少数精鋭で、守備隊に悟られる前に要塞機能を無力化する。攻城戦ではなく、内部瓦解。あなたの得意分野でしょう」

カイは地図を見つめたまま、沈黙した。三つの要塞。それはヴェルザリア西部防衛線の背骨だ。これが折れれば、アストレイアの軍勢は国境を越えて西に流れ込む。

「……祖国を売れ、と」

「祖国?」リーゼが僅かに首を傾げた。「あなたを焼き殺そうとした国を、まだ祖国と呼ぶの」

その一言は、正確にカイの急所を突いた。だがカイは顔に出さなかった。傭兵の習い性だ。表情を読ませれば、交渉では負ける。

リーゼは続けた。

「報酬は三つ。一つ、あなたの身柄の安全と自由を保障する。二つ、作戦に必要な物資、情報、資金を提供する。三つ——」

ここで初めて、リーゼが間を置いた。計算された沈黙だと、カイにはわかった。

「灰狼旅団の生存者の情報を渡す」

カイの左手が、寝台の縁を掴んだ。指が白くなるほど力が入った。

生存者がいる。その可能性を突きつけることで、カイの選択肢を狭めにきている。わかっている。わかった上で、心臓が跳ねたことを否定できなかった。

「まだ生きている仲間がいるということか」

「いるかもしれない、と言っているだけよ。確約ではないわ。ただ、我々の情報網はヴェルザリア王国内にも及んでいる。灰狼旅団の全滅が『発表どおりの全滅』であるかどうか——それを調べる手段は、あなたよりも我々のほうが持っている」

巧みだった。確定情報は出さず、可能性だけをちらつかせる。情報を持つ者が持たぬ者を支配する——諜報の基本だ。

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カイは寝台の上で上体を起こした。右腕の激痛が走ったが、歯を食いしばって耐えた。横たわったまま話を聞く気にはなれなかった。

壁に背を預け、リーゼと同じ目の高さになる。初めてまともに向き合う形になり、リーゼが僅かに目を細めたのがわかった。品定めの目が、ほんの少しだけ変わった。

「断る」

カイの声は低く、掠れていた。だが迷いはなかった。

「灰狼旅団は傭兵だ。金で雇われ、契約で戦い、契約が終われば去る。それが俺たちの誇りだった。雇い主がどれだけ腐っていようと、傭兵は自分の意志で剣を振るう。誰かの犬にはならん」

リーゼは表情を変えなかった。

「敵の手駒として祖国を売るなら、あの砦で焼け死んだほうがましだ。傭兵は雇い主を選ぶ。お前の飼い犬にはならん」

言い切って、カイは口を閉じた。右腕の痛みが脈打つように強まったが、それを表に出すまいとした。

沈黙が落ちた。水滴の音だけが、二人の間に響いている。

リーゼは微動だにしなかった。膝の上で組んだ指先ひとつ動かさず、カイの目を真っ直ぐに見返していた。その視線に動揺はなかった。拒絶を予想していた者の余裕が、そこにはあった。

「立派な矜持ね」

リーゼが言った。声に皮肉はなかった。ただ事実を認めるような、乾いた響き。

「でも矜持では仲間は救えないわ」

そう言って、リーゼは静かに立ち上がった。椅子の背に手をかけ、もう片方の手を長衣の懐に入れる。

取り出したのは、一枚の紙片だった。書類挟みでも冊子でもない。薄い一枚の紙。折り畳まれたそれを、リーゼは寝台の縁にそっと置いた。

「これは取引の書類ではないわ。読んでも読まなくても構わない。ただ、あなたが矜持と呼ぶものの正体を——もう少しだけ正確に知りたいと思ったなら、開きなさい」

リーゼは踵を返し、扉に向かった。将校靴の音が石床を叩き、軍人の歩幅で病室を横切る。扉に手をかけたところで、肩越しに振り返った。

「私は待てるわ、ヴェルナー。あなたが折れるまで、いくらでも」

足音が廊下に消え、閂がかかった。

病室に再び静寂が戻る。水滴の音。規則的で、冷たい音。

カイは寝台の縁に置かれた紙片を見下ろした。開く気はなかった。開けば、この女の掌の上で踊ることになる。それは理解している。

だが目が離せなかった。

紙片の表に、インクで一行だけ書かれていた。折り畳まれた中身ではなく、表面に。リーゼがわざと見えるように置いたのだ。

——灰狼旅団 処分執行 完了報告書

カイの左手が、寝台の縁を軋ませた。

完了報告書。旅団の処分が「完了」したという報告。それは旅団が全滅したという意味か——それとも、全滅を「完了した」ことにしたという意味か。

紙片が、寝台の縁で微かに揺れていた。カイ自身の手が震えているのだと気づくまで、数秒かかった。

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