Novelis
← 目次

灰狼、敵国より牙を研ぐ

第1話 第1話

第1話

第1話

炎が、仲間を喰っていた。

崩れ落ちる石壁の向こうで、聞き慣れた怒号が途絶えていく。煙と血の臭いが鼻腔を焼き、視界の端で誰かが倒れた。名前を呼ぼうとして、声が出ない。喉の奥まで灰が詰まっている。

——副団長、左翼が抜かれました。

その報告は、もう何刻も前のものだったはずだ。カイ・ヴェルナーは瓦礫の山に片膝をつきながら、燃え盛る砦の光景を網膜に焼きつけていた。味方の砦だ。ヴェルザリア王国が築き、灰狼旅団が血で守ってきた前線拠点。それが今、内側から炎に呑まれている。

敵襲ではなかった。

砦の火薬庫に火を放ったのは、王国の正規軍だった。補給物資として届いた木箱の底に油壺が仕込まれていたことに気づいたのは、爆発の三秒前だった。カイは咄嗟に部下二人を突き飛ばし、自分は炎の中に取り残された。右腕を覆う熱。皮膚が焼け爛れる感覚が、痛みを通り越して冷たかった。

——なぜだ。

十二年だ。十二年間、この国のために剣を振るった。大陸西端の小国ヴェルザリアが周辺諸国に呑まれずに済んだのは、灰狼旅団が盾になり続けたからだ。カイはその副団長として、最前線に立ち続けた。数えきれない傷を負い、数えきれない仲間を弔い、それでも旅団の旗を掲げ続けた。

団長のハインツが笑う顔が、煙の向こうに見えた気がした。

「カイ、お前は馬鹿正直すぎる。だから俺が団長で、お前が副団長なんだ」

その声はもう聞こえない。ハインツは砦の東棟にいた。東棟は最初に崩落した。

意識が薄れていく。膝が折れ、背中が瓦礫に沈む。最後に見たのは、夜空を焦がす炎の柱だった。まるで灰狼旅団の葬送の灯火のように、それはどこまでも高く昇っていった。

---

水の滴る音がした。

規則的で、冷たい音だ。石造りの天井から染み出した雫が、どこかの器に落ちている。カイは重い瞼をこじ開け、自分が寝台の上にいることを認識した。粗末な木枠に藁の敷布。清潔だが簡素な、軍の野戦病院の匂いがする。消毒用の薬草と、乾いた血と、微かな石鹸の香り。

身体が動かない。正確には、動かすたびに全身が軋んで悲鳴を上げる。特に右腕は肩から指先まで焼けるような痛みが走り、包帯の下の皮膚が引きつれているのがわかった。

「——ヴァッサ・イン・ルクト」

聞き慣れない言葉が耳に入った。寝台の脇で、若い看護兵が誰かと話している。その言語に、カイの意識が一気に覚醒した。

アストレイア語だった。

大陸中部の大国にして、ヴェルザリアとは二十年来の仇敵。幾度も国境で刃を交えた相手の言葉だ。傭兵として戦場を渡り歩く中で、カイは断片的にだがアストレイア語を聞き取れるようになっていた。「容態」「報告」「局長」——そんな単語が拾える。

ここは敵国だ。

カイは反射的に身を起こそうとして、激痛に呻いた。右腕が使えない。左手で寝台の縁を掴んだが、指に力が入らなかった。三日か、四日か。どれだけ眠っていたのかもわからない。

看護兵がカイの覚醒に気づき、慌てて振り返った。二十歳そこそこの青年で、敵兵を見る目ではなく、患者を見る目をしていた。それがかえってカイを困惑させた。

「水を」

カイが掠れた声でヴェルザリア語を発すると、看護兵は一瞬戸惑い、それから片言のヴェルザリア語で応じた。

「すこし、待つ。水、持ってくる」

差し出された木杯の水を、カイは左手で受け取った。喉を通る冷たさが、生きている実感を強制的に叩き込んでくる。生きている。だが——なぜ生きている。なぜ敵国の病院で手当てを受けている。

傭兵にとって、敵に捕らえられることは死と同義だ。情報を搾り取られるか、見せしめに処刑されるか。手厚い治療など、あり得ない。

カイは包帯に覆われた右腕に目を落とした。火傷痕は包帯の下にあるはずだが、感覚でわかる。焼け爛れた皮膚が引きつれ、肘から手首にかけてひとつの地図のような痕を刻んでいる。あの夜の記憶だ。炎と裏切りの記憶。

無意識に右手を握り締めようとして、指が軋んだ。

周囲を観察する。石壁の病室に寝台が四つ。他の三つは空だった。窓は高い位置にひとつだけ。外の光は白く、朝か昼かの判別がつかない。扉は木製で、外から閂がかかっている音がした。病室であり、独房でもある。

頭を巡らせる。砦が焼かれた。旅団は——全滅したのか。ハインツは。ユーリは。マレーネは。トビアスは、あの子供はどうなった。考えるたびに胸の奥が焼けるように痛んだが、涙は出なかった。傭兵は泣かない。泣く暇があれば次の手を考える。それが灰狼旅団の掟だった。

だが次の手など、今のカイにはなかった。

身体は動かず、武器もなく、敵地の奥深くにいる。右腕は焼け、仲間の生死もわからない。十二年かけて積み上げたすべてが、一夜で灰になった。残ったのは、この焼け爛れた右腕と、消えない怒りだけだ。

カイは天井の染みを睨みつけた。水滴が落ちるたびに、時間が過ぎていく。一滴、また一滴。その間隔を数えることだけが、今の自分にできる唯一の行為だった。

数えながら、考えた。なぜ助けた。敵国の野戦病院で、わざわざ一人の傭兵を手当てする理由は何だ。情報か。だが灰狼旅団の情報など、旅団が全滅した今、どれほどの価値がある。

答えは出ない。だが、答えは向こうからやってくることになった。

---

扉の閂が外される音がしたのは、水を三杯飲み干した後だった。

看護兵が姿勢を正し、敬礼した。入ってきたのは看護兵ではなかった。軍靴の足音が石床を叩き、薬草の匂いの中に微かな香水の香りが混じった。カイは寝台に横たわったまま、入口に目を向けた。

長身の女だった。アストレイア軍の将校服を着ているが、階級章の意匠が通常の軍とは異なる。暗い紫の襟章。諜報畑の人間だと、カイの経験が即座に判断した。

年の頃は三十の半ばか。切れ長の目が、寝台の上のカイを値踏みするように見下ろしている。獲物を見る目ではない。道具の品定めをする目だ。カイはその視線の質を正確に読み取り、腹の底に冷たいものが溜まるのを感じた。

「目が覚めたようね、灰狼の副団長」

流暢なヴェルザリア語だった。訛りはほとんどない。この女は長年ヴェルザリアを相手にしてきた人間だ。

「……誰だ」

「リーゼ・カルシュタイン。アストレイア諜報局の局長を務めている」

諜報局長。一国の諜報機関の頂点が、わざわざ一介の傭兵の病室を訪れている。カイの中で、疑問がさらに深まった。同時に、微かな理解も芽生えた。これほどの人間が動くからには、自分を生かした理由は単なる情報収集ではない。

リーゼは寝台の傍らに椅子を引き、腰を下ろした。組んだ脚の上に手を重ね、まるで茶会でも始めるかのような余裕を見せた。

「カイ・ヴェルナー。灰狼旅団副団長。従軍十二年、参加戦役三十七、うち指揮を執った作戦十四。勝率は八割を超える」

カイの経歴を、まるで帳簿を読むように淡々と並べていく。

「特に四年前のガレア峡谷の戦いでは、三倍の敵を地形利用で退けた。あの戦術案はあなたのものだと、我が国の参謀部も認めている」

「……敵国に褒められても嬉しくはないな」

「褒めているのではないわ。査定しているの」

リーゼの唇が薄く弧を描いた。その笑みには温度がなかった。

「本題に入りましょう、ヴェルナー。あなたに取引を持ちかけに来た」

カイは答えなかった。ただ、焼け爛れた右腕を無意識に握り締めていた。包帯の下で、火傷痕が脈打つように熱い。

あの夜の炎が、まだ消えていない。

---

看護兵が病室を出て、扉が再び閉じられた。リーゼとカイ、二人だけの空間に、水滴の音だけが響いている。

「取引の中身を聞く前に、ひとつ答えろ」

カイは天井から視線を外し、初めてリーゼの目を正面から見据えた。

「なぜ俺を生かした」

リーゼは微笑を消さなかった。だが、その目の奥に計算が走るのを、カイは見逃さなかった。

「死んだ駒より、生きた駒のほうが使い道があるからよ」

駒。その一語が、カイの胸の底に沈んだ。ヴェルザリアの王にとっても、この女にとっても、自分は駒でしかないのか。

リーゼが懐に手を入れた。取り出したのは、一通の封書ではなかった。革張りの薄い書類挟みだ。

「取引の詳細は追って説明するわ。その前に、これを読んでおきなさい」

書類挟みが寝台の上に置かれた。カイは左手でそれを開こうとして——

「局長」

扉の向こうから、看護兵の声が割り込んだ。

「ハイゼン中佐より緊急の伝令です。西方国境の件で」

リーゼが僅かに眉を動かし、立ち上がった。椅子を引いて扉に向かいながら、肩越しに言った。

「読んでおきなさい、ヴェルナー。その書類を読めば、あなたが何のために生かされたのか——いえ、何のために切り捨てられたのか、わかるはずよ」

足音が遠ざかり、閂がかかる音がした。

病室に一人残されたカイは、寝台の上の書類挟みを見下ろした。革の表紙に、ヴェルザリア王家の紋章が型押しされている。

左手で表紙を開く。

最初に目に入ったのは、見慣れた筆跡だった。ヴェルザリア国王アルベルト四世の直筆。公文書ではなく、密書の形式。そして冒頭の一行に、カイの指が止まった。

まだ全文は読めていない。だが、冒頭の日付だけで充分だった。

砦が焼かれる——二週間前の日付。

右腕の火傷痕が、脈打つように疼いた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ