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灰狼、敵国より牙を研ぐ

第3話 第3話

第3話

第3話

紙片を、カイは開いた。

矜持だの誇りだの、そんなものは傭兵の贅沢品だ。戦場で十二年を生き延びた男が、目の前の情報を見ぬ振りできるはずがなかった。知らねば判断できない。判断できねば戦えない。灰狼旅団が叩き込んできた鉄則が、カイの左手を動かした。

処分執行完了報告書。ヴェルザリア王国軍参謀本部の書式で、受領印が三つ押されている。日付は砦炎上の翌日。早すぎる。砦が焼け落ちた翌朝には、もう「完了」の判が捺されていた。それはつまり、結果を確認する前から報告書の雛形が用意されていたということだ。

カイの目が文面を追った。

「前線拠点ラーゲンにおける敵襲により、灰狼旅団は壊滅。副団長カイ・ヴェルナー以下、団員の生存は確認されず」

敵襲。その二文字を、カイは噛み締めた。敵襲ではなかった。補給物資に油壺を仕込み、火薬庫を内側から吹き飛ばしたのは、ヴェルザリア王国正規軍だ。だが報告書は「敵襲」と記している。アストレイアの攻撃によって旅団が全滅した——それが王国の公式見解だった。

つまり裏切りの痕跡は、最初から消されていた。

カイは紙片を膝の上に置き、天井を仰いだ。水滴が一つ落ちた。その小さな音が、沈黙の病室に妙に大きく響いた。

あの夜の記憶が、順序を変えて蘇ってくる。今度は怒りの靄が晴れた目で。

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最初の違和感は、砦炎上の一月前に遡る。

灰狼旅団に届いた作戦命令書。内容は前線拠点ラーゲンの防衛強化だったが、通常ならば参謀本部から直接届く命令が、この時だけは宮廷書記官の封蝋で送られてきた。ハインツ団長はそれを訝しんだ。「書記官が軍の命令を運ぶのは筋が違う」と。だが命令そのものに不自然さはなく、旅団は従った。

次は三週間前。補給の遅延だ。食糧と矢弾の定期補給が四日遅れた。前線では珍しくない。街道の状態、荷駄隊の編成、天候。遅延の理由はいくらでもある。カイ自身、さして気に留めなかった。だが今にして思えば、あの四日間で砦の備蓄は危険水域まで減っていた。

そして二週間前——処分勅令の日付だ。この日を境に、何が変わったか。

カイは記憶を掘り起こした。二週間前。あの日、砦に一人の連絡将校が到着した。参謀本部付きの中尉で、名は——何といったか。若い男で、灰狼旅団の配置を細かく確認して回っていた。巡検だと言っていた。前線拠点の現状視察だと。

だが奴が確認していたのは、防衛体制ではなかった。

カイの脳裏に、連絡将校の行動が順序立てて浮かぶ。東棟の構造を念入りに調べていた。火薬庫の位置を訊いた。補給物資の搬入経路を確認した。そして三日間の視察を終えて去る際、カイに向かってこう言った。

「副団長殿の旅団は、まことに精強ですな。王国の盾たるに相応しい」

あれは称賛ではなかった。品定めだった。リーゼ・カルシュタインがカイにしたのと同じ種類の目で、あの連絡将校は砦を——いや、砦の弱点を見定めていたのだ。

火薬庫の位置。搬入経路。東棟の構造。爆破に必要な情報をすべて持ち帰り、補給物資に油壺を仕込む手筈を整え、二週間後に実行した。

「——全部、繋がっている」

カイの声は掠れ、誰にも聞こえぬほど小さかった。

補給の遅延も計画の一部だった。備蓄を減らし、次の補給物資を待ち望ませる。飢えた兵は届いた物資を検めるより先に開封する。油壺が仕込まれていることに気づく余裕はない。そして命令書が宮廷書記官経由で届いたのは、参謀本部の通常系統に記録を残さないためだ。処分が「敵襲」として処理される布石が、一月前から打たれていた。

カイの左手が、膝の上の紙片を握り潰した。

十二年だ。十二年間、あの国のために血を流した。カイだけではない。ハインツが、ユーリが、マレーネが、トビアスが、名も知らぬ旅団の若い兵たちが、王国の盾として国境に立ち続けた。その盾を、王は自らの手で叩き割った。しかも叩き割ったことすら公にせず、「敵に壊された」と嘘を塗り固めた。

怒りが、腹の底で形を変えた。焼けるような衝動ではない。もっと深く、もっと冷たい何かが、骨の髄に結晶していく感覚だった。

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閂が外される音がした。今度は足音で誰かわかった。軍靴ではあるが将校のそれより軽い。歩幅が短い。だが迷いのない踏み込みは、文官ではなく実戦を知る者の足運びだ。

リーゼ・カルシュタインが入室した。今日は長衣ではなく軍の略装で、腰の短剣の代わりに書類鞄を提げていた。

「顔色が変わったわね」

椅子に腰を下ろしながら、リーゼが言った。観察者の口調だ。

「報告書を読んだのでしょう。どう思った?」

「ひとつ訊く」

カイは壁に背を預けたまま、リーゼの目を見据えた。昨日と同じ姿勢だが、目の色が違うことを、リーゼは即座に読み取ったはずだ。

「お前は砦が焼かれる五日前にこの勅令の写しを手に入れた。五日あれば、俺たちに警告を送ることもできた。だが送らなかった。旅団が焼かれるのを見物して、焼け跡から俺を拾い上げた。そうだな」

リーゼは否定しなかった。

「ええ。そのとおりよ」

「なぜだ」

「警告すれば、灰狼旅団はヴェルザリア王国に反旗を翻すか、国外に逃亡するか。どちらにせよ旅団は無傷で残る。無傷の傭兵には選択肢がある。選択肢を持つ者は、他者の駒にはならない」

リーゼは淡々と続けた。

「だが焼かれた後のあなたは違う。祖国に裏切られ、仲間を失い、身体を損ない、孤立している。選択肢は極端に狭い。私が差し出す手以外に掴めるものがない状態——それが必要だった」

吐き気がした。だが同時に、腹の底で何かが据わった。この女は最初から嘘をついていない。駒だと言い、品定めだと言い、焼かれるのを待ったと言った。むしろ正直すぎるほどに手の内を見せている。それは自信の表れだ。カイに他の選択肢がないことを、リーゼは完全に理解している。

カイは右腕を持ち上げた。包帯に覆われた腕。肘から手首にかけて走る火傷痕の感触が、布越しに伝わる。

あの夜、炎の中で仲間が死んだ。その炎を放ったのは、十二年仕えた王だった。

「お前に問われた時、俺は傭兵は雇い主を選ぶと言った」

「ええ、覚えているわ」

「あれは間違っていなかった。ただ、一つだけ見誤っていた」

カイは焼け爛れた右手の指を、ゆっくりと握り締めた。激痛が走った。だがその痛みを、今度は歯を食いしばるのではなく、正面から受け止めた。痛みの形を確かめるように、一本ずつ指を折っていく。

「俺の雇い主は、もういない」

リーゼの表情が、僅かに動いた。薄い笑みでも、計算の目でもない。初めて見る表情だった。それが何であるかを読み取る前に、カイは口を開いた。

「条件を聞こう」

低い声だった。掠れてはいたが、迷いはなかった。

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リーゼは即座に書類鞄を開かなかった。椅子の背に体重を預け、初めてカイを対等な交渉相手として見るような目を向けた。

「条件を出す前に、一つだけ確認させて」

「なんだ」

「あなたは復讐のために動くの? それとも——」

「復讐は理由にならん」

カイは即答した。その速さに、リーゼが僅かに目を見開いた。

「復讐で動く兵は長持ちしない。怒りは燃料にはなるが、戦略にはならん。団長の受け売りだがな」

ハインツの言葉だった。カイが副団長に就いた年、酒場で聞かされた訓戒。今になって、その言葉が骨身に染みる。

「俺が知りたいのは、なぜだ。なぜ王は灰狼を切り捨てた。十二年の戦功を捨ててまで、何を得ようとした。それを知らなければ、次の手は打てない」

リーゼの目に、新しい光が灯った。計算とは異なる何か。この傭兵は使えると判断した者の、静かな手応えに似た光。

「良い問いね。だがその答えは、要塞の一つでも落としてから教えるわ」

「前払いなしか」

「信用は実績で買うものよ、ヴェルナー。それはあなたも知っているはず」

リーゼが書類鞄を開き、地図を広げた。昨日見せた三つの要塞の地図。その上に新たな書類が重ねられている。部隊編成表、補給路の図面、守備隊の人員構成。

カイの目が、自然とそれらを読み始めていた。十二年の戦場で培った視線の走らせ方。地形を見、兵数を数え、弱点を探る。傭兵の血が、怒りよりも先に動いていた。

リーゼは書類を一枚ずつ寝台に並べながら、静かに言った。

「では改めて。灰狼の副団長、カイ・ヴェルナー。我がアストレイア諜報局と同盟を結ぶか」

同盟。雇用ではなく、同盟。その言葉の選び方に、カイはリーゼの狡猾さを見た。犬ではなく対等の同盟者として扱う——少なくとも形の上では。実態がどうであれ、傭兵の矜持を踏みにじらない建前を用意する周到さ。

カイは焼け爛れた右手を開き、地図の上に置いた。火傷痕が走る掌で、最初の要塞——ホルンガルドの位置を押さえた。

「一つ条件がある。灰狼旅団の生存者の情報を先に寄越せ。一人でも生きているなら、そいつらを俺の部隊に入れる。お前の兵ではなく、俺の兵としてだ」

リーゼが薄く笑った。今度は刃のような笑みではなかった。

「交渉が上手ね。いいわ、受けましょう」

閂の向こうで、看護兵が動く気配がした。窓から差し込む光が傾き始めている。午後の日差しが病室の壁を這い、二人の間に長い影を落としていた。

禁断の同盟が、静かに成った。

だがカイの胸の底では、火傷痕が疼き続けていた。怒りとも覚悟ともつかない熱が、腕の奥で脈を打っている。裏切りの全貌はまだ見えない。王が旅団を切り捨てた真の理由。それを知るまで——この疼きは消えない。

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