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言霊喰いの最弱陰陽師

第2話 第2話

第2話

第2話

バイト帰りの夜道は、いつも同じ匂いがする。

排気ガスと、どこかの家の夕飯の残り香と、アスファルトが昼間に溜め込んだ熱を吐き出す、あの生ぬるい空気。四月も半ばを過ぎると夜の冷え込みが和らいで、シャツ一枚でも肌寒くない。今日は翔太の迎えがない日で、コンビニから自宅までの十五分を一人で歩く。イヤホンは片耳だけ。右耳は開けておく癖がある。理由は自分でもよくわからないが、片耳を塞がないほうが落ち着く。

ポケットの中で紙魚がもそもそと動いた。今日の収穫はレシート二枚と、レジ横に置いてあった求人チラシの切れ端。求人チラシは紙質が厚かったらしく、食み終わるのに時間がかかっていた。

「まだ食ってんのか。胃もたれすんぞ」

指先に小さな顎が触れる。噛んでいるのではなく、紙の繊維を削り取るような食べ方だ。三ヶ月も一緒にいると、食感の違いがわかるようになる。コンビニのレシートは感熱紙で、紙魚の食いつきがいい。コピー用紙は淡白らしく、あまり喜ばない。和紙は昨日の査定通知で確認済みのご馳走だ。

——昨日の査定通知。

思い出しかけて、頭を振った。考えても仕方ない。「等級外・据置」。毎年同じ文面。毎年同じ結論。紙魚が全部食ってくれた。もう存在しない。

商店街を抜けて住宅地に入る角を曲がったところで、いつもと違う道を選んだ。理由は単純で、スマホの地図アプリが工事による迂回を表示していたからだ。一本裏の路地を通れば五分も変わらない。

街灯が一つ減った。

住宅地の裏通りは表より暗い。塀と塀の間に挟まれた細い道で、足元のアスファルトにひびが入っている。自販機の明かりが遠くにひとつ。その手前に、古いアパートの非常階段が錆びた影を落としている。

イヤホンから流れる音楽が、ふっと途切れた。

電池切れか、と思ってスマホを見た。バッテリーは六十三パーセント。音楽アプリも正常に動いている。なのに音が出ない。画面を数回タップして、イヤホンのプラグを抜き差しした。

その瞬間、右耳が——開けておいた右耳が、音を拾った。

ぐちゃ、という音。

濡れた何かが潰れるような。生理的に受け付けない、粘度のある音。

足が止まった。

路地の奥。自販機の明かりが届かない暗がりに、何かがいた。最初は野良猫が獲物を漁っているのだと思った。だが目が暗さに慣れてくると、輪郭が見えた。

人だ。

誰かがうずくまっている。壁に背中を押し付けて、両手で頭を抱えている。制服——白いブラウスに、見覚えのあるチェック柄のスカート。うちの高校の女子の夏服だ。まだ四月なのに夏服を着ているのは、衣替え前に暑がりの生徒が勝手に切り替える、よくある光景で——

違う。

ブラウスの白が、ところどころ黒く汚れている。いや、黒じゃない。街灯の角度で黒く見えているだけで、あれは——赤だ。

うずくまっている人影の周囲を、何かが蠢いていた。

小さい。指先ほどの大きさの、黒い塊。一匹や二匹ではない。十、二十——数えられない。壁を、地面を、人影の制服の上を、びっしりと這い回っている。

蟲だ。

だが普通の虫じゃない。そう判断したのは直感ではなく、陰陽師の末端として最低限叩き込まれた知識だった。あの蟲の周囲の空気が、微かに歪んでいる。陽炎のような揺らぎ。生きた虫が持つ生体電場とは質が違う、呪力の残滓。

——呪蟲。

術者が霊力を注いで作り出す蟲型の式。本家の座学で教本の挿絵だけは見たことがある。実物は初めてだった。

背中を冷たいものが流れ落ちた。

逃げろ、と本能が叫んだ。お前には関係ない。等級外の、式神一体すらまともに使えない、桐生の落ちこぼれに何ができる。巻き込まれるな。目を逸らせ。ここは来た道を引き返して、表通りに出て、何も見なかったことにしろ。

足が動かなかった。

うずくまった人影が、小さく声を漏らした。

「——たすけ」

喉が潰れたような、掠れた声。聞き覚えが、あった。

椎名。

椎名美羽。一年下の後輩。図書委員の引き継ぎで二度だけ話したことがある。おとなしい子だった。本の分類番号を間違えて、真っ赤になって謝っていた。あのときの声と、今の声が一致した。同じ人間のものだと、耳が認識してしまった。

「椎名——」

名前を呼んだ瞬間、路地の奥からもう一つの影が動いた。

自販機の横。非常階段の下に立っていた人物が、ゆっくりと歩み出る。フードを深く被った男。細身で、背は俺と同じくらい。右手の指先から、黒い蟲が糸を引くように垂れ下がっていた。

術者だ。あの呪蟲を操っているのは、こいつだ。

男がフードの奥から、こちらを見た。目は見えない。だが視線の圧だけが、暗闇を貫いて俺の胸を突いた。

「——邪魔だな」

低い声。抑揚のない、作業のような口調だった。

男の右手が持ち上がると、椎名に群がっていた呪蟲の一部が、流れるように方向を変えた。

こっちに来る。

五匹、十匹、二十匹——黒い波のように地面を滑り、俺に向かって直進してくる。速い。走って逃げ切れる速度じゃない。

ポケットに手を突っ込んだ。紙魚を掴む——つもりだった。だが指が触れた瞬間、紙魚の体が異様に熱いことに気づいた。いつもの、体温より少し低い冷たさがない。紙魚は俺の指に食いついたまま——食いついている? 噛んでいるのとも違う。しがみついている。小さな体が、小刻みに震えていた。

「紙魚?」

返事はない。当たり前だ。だが今までに感じたことのない強さで、紙魚が俺の指を掴んでいる。六本の微細な脚が、爪を立てるように食い込む。痛みはないが、圧がある。

呪蟲が俺の足元一メートルに迫った。

右にも左にも壁がある。路地の幅は人二人がすれ違えるかどうか。背後は来た道だが、振り返って走り出す前に追いつかれる。

詰んだ。

頭の中で、等級外という三文字が点滅した。桐生の血を引きながら何もできない。戦えない。守れない。逃げることすらできない。名門の末端の、ただの高校生。

呪蟲の先頭がスニーカーの爪先に触れた。

皮膚が焼けるような鋭い痛み。思わず声が出た。

その瞬間——ポケットの中で、紙魚が震えの質を変えた。

細かい痙攣ではなく、全身を膨張させるような、脈打つ振動。指を掴んでいた脚が離れ、紙魚がポケットの中で暴れ始めた。銀色の鱗粉がポケットの布地を通して仄かに光る。昨夜、査定通知を食ったあとの——俺が気づかなかった、あの淡い燐光と同じ色。

紙魚が何かに反応している。俺の恐怖か。呪蟲の呪力か。それとも——

「がっ——」

足首を呪蟲が這い上がる感覚に、思考が途切れた。焼けるような痛みが皮膚を伝い、膝まで走る。もう一匹が反対の足首に取りつく。椎名の悲鳴が背後から聞こえた。フードの男は微動だにしない。

紙魚の光が、強くなった。

ポケットの布地を透かして、白い光が漏れている。紙魚の体が——膨張している? いや違う。紙魚は同じ大きさだ。光っているのは紙魚の体ではなく、紙魚の腹の中に溜まった——何かだ。今日食んだレシート。求人チラシ。昨日の査定通知。それらの文字が、紙魚の腹の中で溶け残るように蠢いている。

俺はポケットから紙魚を引きずり出した。掌の上で、五センチの小さな体が白く脈打っている。銀の鱗粉が剥がれ落ちるように舞い、暗い路地に雪のような光点を散らした。

呪蟲が一瞬、動きを止めた。

フードの男が、初めて身じろぎした。

「——なんだ、そいつは」

声に、わずかな警戒が混じった。それまでの作業じみた無感情が崩れ、男の視線が紙魚に固定される。

俺の掌の上で、紙魚が震え続けている。光が強まる。脈動が速くなる。何かが起きようとしている。俺にはそれが何なのかわからない。わからないまま——ただ掌を、呪蟲に向けて突き出していた。

それは陰陽師としての判断ではなかった。術の知識に基づいた行動でもなかった。

ただ——目の前の蟲が、怖かった。後ろで震えている椎名が、放っておけなかった。そして掌の上の紙魚が、初めて見せた光を、俺は信じたかった。

紙魚の体が、一際強く——脈打った。

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