第1話
第1話
「いらっしゃいませ」
自分でも驚くほど自然にその言葉が出るようになったのは、コンビニバイトを始めて三ヶ月が経った頃だった。
レジに立つ俺——桐生蓮、十七歳。制服の上からエプロンを被り、バーコードを読み取り、温めますかと訊き、箸の本数を確認する。繰り返しの所作はもう体に馴染んでいて、考えなくても手が動く。夕方五時から九時までの四時間。時給千百二十円。それが俺の放課後だ。
蛍光灯の白い光の下、ホットスナックの油の匂いとコーヒーマシンの湯気が混ざった空気を吸い込むと、ここが自分の居場所だという安心感が胸の底に沈む。本家の屋敷の冷たい畳の匂いより、ずっと肌に合う。
ポケットの中で、かさり、と小さな音がした。
紙魚だ。
俺の唯一の式神。体長五センチほどの、銀色の鱗粉を纏った紙片の妖。戦えない。結界も張れない。できることといえば紙を食むことだけ。陰陽師としては致命的に役に立たない存在だが、ポケットの中で古いレシートを齧る感触は、なんというか——あったかい。
「蓮、上がっていいぞ」
店長の声に頭を下げて、エプロンを畳む。ポケットに手を突っ込むと、紙魚がちいさな体で指先に擦り寄ってきた。
「今日はレシート三枚か。食いすぎだろ」
返事はない。当たり前だ。式神が喋るなんて上位のものだけの話で、紙魚にそんな芸当はできない。でも、指に押し付けてくる頭の感触が、満足げに見える。俺の思い込みかもしれないが。
自動ドアを出ると、四月の夜風がシャツの隙間に滑り込んできた。日中は汗ばむくらいだったのに、この時間になると空気が冷たい。春の夜は温度を忘れやすい。街路樹の桜はとっくに散って、アスファルトの隅に花びらの残骸が茶色く乾いている。新学期の浮ついた空気も落ち着いて、日常が始まったという手触りだけが残る季節だ。
「おー、蓮。お疲れ」
コンビニの前の柵に背中を預けて、缶コーヒーを片手に待っていたのは、友人の柏木翔太だった。同じクラスで、バイトのシフトが被らない日はこうして迎えに来る。来なくていいと何度言っても「帰り道同じだし」の一言で片付けられる。
「翔太、また待ってたのか」
「十分くらい。ちょうどいい暇つぶし」
翔太は柵から背中を離し、大きく伸びをした。身長は俺より五センチ高い百七十八。バスケ部を辞めてからも体格だけは維持していて、制服のシャツが肩幅でぱつぱつになっている。
並んで歩き出す。商店街の外れから住宅地に入ると街灯の間隔が広くなり、足元が少し暗くなる。翔太が缶コーヒーを飲み干して、空き缶を器用に指で回した。
「つーかさ、蓮。来週の結月の誕生日、なんか用意すんの?」
心臓が一拍だけ跳ねた。
宮坂結月。隣のクラスの、黒髪をいつもひとつに結んでいる女子。図書委員で、昼休みに図書室ですれ違うたびに会釈してくれる。それだけ。それだけなのに、俺はその会釈を毎日数えるように覚えている。
月曜日は書架の間で、小さく頭を下げるだけ。火曜日はカウンター越しに「こんにちは」と声がつく。水曜日は——水曜日は結月が図書当番の日で、返却処理をしているから、会釈はない。その「ない」ことすら正確に記憶している自分が、少し怖い。
「……別に。クラス違うし、用意するほどの仲じゃない」
「嘘つけ。昼休みに図書室通ってんの知ってっからな」
「本借りてるだけだ」
「借りた本、一冊も読んでないだろ」
否定できなかった。紙魚が代わりに全部食ってしまうからだ——とは言えるはずもない。先週借りた文庫本は三日で背表紙だけになった。紙魚のやつ、カバーの紙質が気に入ったらしく、普段より食うペースが早かった。おかげで俺は「本をよく読む男子」という微妙な評判だけが残り、中身の感想を聞かれるたびに曖昧に笑って誤魔化している。
翔太が「まあ頑張れよ」と笑って、話題を変えてくれた。こういうところが翔太のいいところだ。踏み込みすぎない。空気を読むというより、人の領域を自然に察する。
「そういや今日の現文、鈴木が当てられて固まってたな」
「ああ、三分くらい沈黙してた」
「あれ地獄だよな。俺だったら窓から飛び降りる」
「二階だぞ。骨折して余計に注目される」
「じゃあ仮病」
くだらない会話を交わしながら歩く。翔太の声は低いが通りがよくて、静かな住宅街では少し響く。どこかの家からテレビの音が漏れていて、夕食のニュースの時間だと頭の隅で思う。こういう夜の温度が好きだ。特別なことが何も起きない、ただ歩いて帰るだけの時間。
二つ目の信号を渡ったところで翔太と別れ、俺は一人になった住宅街を歩く。ポケットの中の紙魚を指先で撫でながら、考える。
陰陽師・桐生家。
俺の実家は、四百年続く陰陽師の名門——らしい。らしい、というのは、俺自身がその恩恵をほとんど受けていないからだ。本家は京都にあり、分家は全国に散らばっている。俺は東京の端っこに住む分家の末端。年に一度の査定で毎年同じ烙印を押される。
等級外。
陰陽師としての等級が存在しない。つまり、数える価値もないということだ。本家の親族が集まる正月の会合では、俺の名前は話題にすら上がらない。「血の恥」という言葉が、壁の向こうから聞こえてきたことがある。十二歳の冬だった。襖一枚を隔てた座敷で、顔も知らない親族がそう言った。声は低く、確信に満ちていた。隣にいた母は黙って俺の肩を掴み、そのまま玄関まで引っ張った。帰りの新幹線で母は一言も喋らなかった。窓の外を流れる冬枯れの景色だけが、やたら鮮明に記憶に残っている。あの日から、俺は本家に行くのをやめた。
式神を一体しか使役できない。しかもその式神が紙魚。戦闘力は皆無。結界術も呪術もまともに発動しない。桐生の血を引きながら、ただの人間と変わらない。
——それでいい、と思った。
俺には翔太がいて、バイトがあって、結月の会釈を数える昼休みがある。陰陽師になんかならなくていい。普通の高校生として、普通に生きて、普通に大学に行って、普通に就職する。それが俺の答えだ。紙魚がいてくれれば、それでいい。
ポケットの中で、紙魚が小さく身じろぎした。まるで俺の思考を読んだみたいに。
「お前は俺が弱くても関係ないもんな」
指先を甘噛みするような感触。痛くはない。紙魚なりの返事だと、俺は勝手に思っている。
家に着くと、玄関のポストに一通の封書が刺さっていた。
和紙の封筒。右上に桐の家紋。差出人は「桐生本家 当主代行」。
見た瞬間に中身がわかった。年に一度の査定通知。毎年この時期に届く、俺の存在を否定する定期便。
封を切る気にもならなかった。だが放置すれば母が先に見る。母はああ見えて気にする人だ。朝食の席で何も言わずに封筒を差し出してくるあの目が、俺には査定の中身より堪える。だから毎年、自分で処理する。処理というのは、読まないまま消すことだ。
玄関で靴を脱ぎ、封筒をそのまま開いて——読まずに、ポケットの中の紙魚の前に差し出した。
「ほら、飯」
紙魚が封筒の端に取りついた。和紙の繊維を、しゃり、しゃりと音を立てて食み始める。文字が印刷された面から順に。「等級外」「据置」「向上の見込みなし」——そんな文字列が、紙魚の小さな顎に吸い込まれて消えていく。
年に一度の屈辱を、相棒が食い潰してくれる。我が家の恒例行事だ。
「うまいか?」
紙魚が食むスピードが少し上がった気がする。和紙はコンビニのレシートより好みらしい。
数分で封筒は跡形もなくなった。紙魚が満足げに——これも俺の思い込みだが——丸くなる。
俺はポケットに手を戻し、部屋着に着替えようと廊下を歩いた。
だから気づかなかった。
紙魚の体が、一瞬だけ——ほんの一秒にも満たない間——淡い燐光を放っていたことに。
その光は、陰陽師が術を行使する際に発する霊力の輝きと同じものだった。
「等級外」の文字を食んだ直後。まるでその言葉の中に、何かが封じられていたかのように。
紙魚は何も言わない。言えない。ただ蓮のポケットの奥で丸くなり、食んだばかりの文字を腹の中で転がしている。
四百年の名門が、年に一度、わざわざ最弱の分家に送りつける査定通知。
——それが本当に、ただの通知だったのかどうか。
蓮の知らない夜が、静かに始まろうとしていた。