第3話
第3話
光が、弾けた。
掌の上の紙魚が最後の脈動を終えた瞬間、俺の視界が一変した。
見えるものが変わったのではない。見えるものの中に、今まで気づかなかった層が浮かび上がった。路地の壁に貼られた「粗大ごみ収集日」の紙。電柱に巻かれた「水漏れ修理」の広告。アパートの郵便受けから半分はみ出したチラシ。自販機の側面に並ぶ商品名。それらの文字が——光っている。ひとつひとつの文字が、蛍のように淡く自己主張を始めていた。
紙魚が掌から飛び立った。
飛ぶ、という表現は正確ではない。五センチの銀色の体が宙に浮き、鱗粉を撒き散らしながら滑るように移動した。三ヶ月間、ポケットの中でレシートを齧ることしかしなかったあの紙魚が、暗い路地を舞っている。
最初に食われたのは、電柱の広告だった。
紙魚が広告の表面を舐めるように通過した瞬間、印刷された文字がインクごと紙面から剥がれた。「水」「漏」「れ」「修」「理」——一文字ずつ、活字が紙を離れて宙に浮く。白い光の粒子に変換されながら、紙魚の体に吸い込まれていく。
次は壁のポスター。「粗大ごみ」の文字が消え、日付が消え、注意書きが消えた。文字を失った紙が、ただの白い長方形になって壁に張りついている。
紙魚が加速した。路地を往復するように飛び回り、目に入るすべての文字を食い尽くしていく。アパートのチラシ。非常階段の「立入禁止」。自販機の「あたたかい」「つめたい」。果ては俺のポケットの中のスマホにまで——画面に表示されていた地図アプリの文字列が、ガラスを透過して吸い出された。スマホの画面が真っ白になる。
呪蟲が足首で動きを止めていた。痛みが遠退いている。焼けるような感覚が消えたのではなく、別の感覚がそれを塗り潰していた。掌が熱い。紙魚が食い集めた文字が、光の奔流になって俺の右手に還ってくる。
何百という文字の粒子が、指先から手首にかけて渦を巻いた。皮膚の表面を文字が走る。読める。「水漏れ」「収集日」「立入禁止」「ブラックコーヒー」——意味の脈絡がない言葉の断片が、それでも確かな重さを持って俺の手に集まっている。
フードの男が後退した。
「——言霊系統の術式だと? ありえない、こいつは等級外の——」
男の声が途切れた。右手を振って呪蟲に命令を飛ばす。足首にいた蟲が剥がれ、俺の手に向かって跳んだ。十匹以上が同時に。黒い飛沫のように宙を舞い、光る右手に殺到する。
体が勝手に動いた。
右手を振り抜いていた。野球のスイングのような大振りで、不格好で、何の技術もない、ただ腕を横に薙ぎ払う動作。
だがその軌道に沿って、文字が爆ぜた。
光の粒子が手から放たれる瞬間、文字は文字でなくなった。「水」も「禁止」も「コーヒー」も、意味を失ってただの力に変わる。白い閃光が路地を横一文字に切り裂いた。
音はなかった。音がないのに、空気が裂ける感覚だけがあった。
閃光が通過した場所で、呪蟲が弾け飛んだ。黒い殻が粉々に砕け、中から灰色の煙のようなものが漏れて消える。路地に群がっていた数十匹の呪蟲が、一撃で——一匹残らず消滅した。
フードの男に、閃光の端が掠めた。
男の右腕の袖が焼け落ち、その下から呪蟲を操るための紋様が刻まれた皮膚が露出した。紋様の線が数本、焦げて途切れている。男が膝を突いた。フードがずれ、若い——俺とそう変わらない年齢の顔が見えた。恐怖で強張っている。
「……は?」
声を出したのは俺だった。
右手を見た。光は消えている。掌には何の痕跡もない。紙魚が力尽きたように俺の足元に落ちて、ぴくりとも動かない。路地は暗い。さっきまで文字が光っていた壁のポスターや広告は、すべて真っ白な紙に変わっている。文字だけが、きれいに抜き取られていた。
フードの男がよろめきながら立ち上がり、走った。壁を蹴って非常階段に飛び移り、屋上の向こうに消える。追う余裕はなかった。追う気力もなかった。膝が震えている。
「椎名——」
振り返ると、壁際にうずくまったままの椎名が、虚ろな目でこちらを見ていた。呪蟲が消えたことで肌の赤みは引き始めていたが、制服は汚れ、顔色は紙のように白い。
「……桐生、先輩?」
名前を呼ばれて安堵した。意識はある。立てるか訊くと、小さく頷いた。肩を貸して立ち上がらせる。椎名の体は体温が低く、触れた肩が氷のように冷たかった。
「何があったか覚えてるか」
「……帰り道で、虫が……たくさん……それから、よく……」
記憶が曖昧になっている。呪蟲の影響か、それとも精神的なショックで情報が断片化しているのか。どちらにせよ、ここに長居する理由はない。
「歩けるか。家まで送る」
椎名の自宅は学校から徒歩十五分の住宅地にあると、図書委員の引き継ぎ名簿で見た記憶があった。路地を出て表通りに戻ると、街灯の光が眩しかった。さっきまで暗闇の中にいたせいで、普通の夜が明るく感じる。行き交う車のヘッドライト。帰宅途中の会社員。コンビニの看板。何も変わらない日常の風景が、薄い膜を一枚隔てたように遠い。
椎名は歩きながら、時折思い出したように口を開いた。
「……虫、いましたよね」
「ああ。でももういない」
「先輩が……何かしてくれた?」
「……たぶん」
自分でも何をしたのかわからない。正直に言えばそうだったが、混乱している後輩にそう告げるのは無責任に思えた。だから曖昧に頷いた。
椎名の家は築浅のマンションで、オートロックの前まで送ると、椎名が振り返った。目の焦点が少し戻っている。
「先輩。ありがとう、ございました」
「気にすんな。明日体調悪かったら学校休め」
椎名がエントランスに消えるのを見届けてから、俺は来た道を引き返した。
路地に戻ったのは、確認したかったからだ。
さっきの場所。自販機の横、非常階段の下。呪蟲が消えた地面に、それはあった。
焦げた文字の残骸。
アスファルトの表面に、黒い焦げ跡が散らばっている。よく見ると、それは文字の形をしていた。「水」の偏の一部。「禁」の下半分。「コーヒー」のカタカナの欠片。壁から剥がれ、俺の手を通り、術式として放たれた文字たちの——燃え殻だ。
指先で触れると、炭のように崩れた。
「……俺が、やったのか」
声が震えた。膝を突いて、焦げ跡を見つめた。あの閃光。あの力。等級外の俺から出たものだとは、まだ信じられない。信じたくない、とも思う。
ポケットの中で、微かな動きがあった。紙魚だ。足元から拾い上げてポケットに戻したとき、気を失っているように動かなかった紙魚が、ようやく目を覚ましたらしい。小さな体が俺の指に登り、手首を伝い、顎の下を通って——頬に、擦り寄ってきた。
鱗粉の冷たい感触が、汗ばんだ肌に貼りつく。
紙魚なりの、慰めなのかもしれない。あるいは、あの力を出して疲れたのは紙魚のほうで、俺の体温で暖を取っているだけかもしれない。どちらでもよかった。頬に張りついた銀色の小さな体を、指先でそっと撫でた。
「……お前、すげぇな」
紙魚は答えない。答えないが、頬を押す力が少しだけ強くなった気がする。
立ち上がろうとして、視線が落ちた。アスファルトの焦げ跡。「水漏れ修理」の広告から抜き取られた文字の、なれの果て。
あの力が出たのは、紙魚が文字を食ったからだ。
昨日の査定通知。今日のレシートとチラシ。そして路地中の看板やポスターの文字。紙魚が食んだ文字が、俺の手を通して術式に変わった。それが「言霊喰い」なのか何なのか、俺には名前をつける知識がない。ただひとつ確かなのは——あの力は、俺が望んで出したものではないということだ。
恐怖が引き金だった。紙魚が呼応し、勝手に発動した。
次に何かが起きたとき、また同じことが起きるのか。起きたとして、制御できるのか。もしあの場に椎名ではなく翔太がいたら。結月がいたら。巻き込んでいたかもしれない。
路地を出て表通りに戻る。白い文字だけが消えた壁のポスターが、街灯の下で不気味に光っていた。印刷された文字がすべて抜け落ちた紙は、遠目には普通のポスターに見える。だが近づけば、紙面にはインクの跡すら残っていない。明日の朝、誰かが気づくだろうか。気づいたとして、何が起きたか理解できる人間がこの街に何人いるのか。
家までの道を歩く。スマホの画面は文字が戻っていなかった。地図アプリを開き直すと、新しく読み込まれたデータは表示されるが、あの瞬間に表示されていた文字列だけが、ぽっかりと消えている。
ポケットの紙魚が、今日食った最後のレシートの繊維を、腹の中で静かに転がしている気配がした。