Novelis
← 目次

喰影の駒

第2話 第2話

第2話

第2話

目を開けたとき、最初に感じたのは冷たさだった。

頬の下にある苔のような何かが、先ほどまでの体温を失っていた。あるいは俺の体温が下がりすぎて、もう温度差を感じられなくなったのか。口の中に鉄の味がこびりついている。舌が乾いて上顎に貼りついていた。

——生きてるのか。

確認するように指を動かした。右手の指が五本とも反応する。左手も。脚は——右足首が焼けるように痛んだ。窓から飛び降りたときにやった方だ。だが動く。折れてはいない。

腹の傷は。

恐る恐る左手を這わせると、シャツが血で固まってべったりと肌に張りついていた。そのくせ、出血は止まっているようだった。弾丸が体を貫通したはずの傷口に触れる。肉が塞がっている——とまでは言わないが、少なくとも今この瞬間に大量の血が流れ出している感触はなかった。

おかしい。あの出血量で、手当てもなく、血が止まるはずがない。

体を起こした。視界が暗転しかけて、両手を地面についた。吐き気が込み上げ、胃液だけを吐いた。食べたものなど何もない。最後にまともに口にしたのはいつだ。——思い出せない。それくらいどうでもいい記憶だった。

周囲を見た。

暗い。だが、完全な暗闇ではなかった。壁面を覆う文様——落下中に見えたあの脈動する線刻が、淡い青白い光を放っている。光量はごく微かだったが、闇に慣れた目には十分だった。

空間は思ったより狭い。幅は三メートルほど。高さは手を伸ばしても届かないが、せいぜい四メートルか五メートルといったところだ。天井には落ちてきた穴があるはずだが、見上げても闇が続いているだけで、光は見えない。地上とは完全に断絶されていた。

壁面の文様が脈打った。

先ほどと同じだ。心臓の拍動のように規則的な明滅。だが——よく見ると、光の流れに方向があった。左右の壁に刻まれた文様が、同じ方向に向かって順番に明滅している。手前から奥へ。奥へ。

誘っている。

そう感じたのは直感ではなく、もっと原始的な——体の内側から湧き上がる衝動だった。腹の傷口が疼く。痛みとも痒みともつかない、何かに引っ張られるような感覚。壁の奥で何かが俺を呼んでいる。意識が途切れる直前に聞こえたあの声——「喰え」——が、耳の奥でまだ残響していた。

立ち上がることはできなかった。右足首が体重を支えることを拒否し、膝をついた瞬間に腹の傷が引きつれて息が詰まった。這うしかない。

両手を前に突き、膝と肘で体を引きずった。地面は岩とも土ともつかない素材で、表面はざらついているが角はない。自然にできたものではないと感じた。誰かが——あるいは何かが——作った空間だ。

五メートルほど進むと、道が下りになった。緩やかな傾斜。奥に行くほど地の底に近づいていく。壁面の文様の光がわずかに強くなり、青白かった色味に紫が混じり始めた。脈動の間隔も速くなっている。俺が近づいていることに反応しているのだとしたら、この空間には知性がある——少なくとも、何かを感知する機能がある。

体の内側で、何かが蠢いた。

腹の傷口の奥。臓腑の隙間を這うように、冷たい何かが動いている。落下する直前に傷口から侵入してきたあの黒い影の残滓か。異物感は確かにあるのに、体はそれを拒絶していなかった。むしろ——共存している。心臓が一拍打つたびに、影は血液に乗って全身に広がろうとしていた。そしてそれが広がるほど、壁面の文様の脈動に自分の鼓動が同期していくのを感じた。

まだ入口にすぎない。

なぜそう分かったのか、自分でも説明できない。ただ確信があった。この空間にはもっと深い層がある。そしてそこに、あの声の主がいる。

十メートル。二十メートル。距離の感覚はすぐに曖昧になった。傾斜は一定のまま続き、道は時折曲がりながらも一本道だった。分岐はない。行くか、戻るかの二択。戻ったところで地上に上がる方法はない。追手が待っているかもしれない穴を登る力も、もうない。

進むしかなかった。

空気が変わった。

湿度が上がったのか、肌に纏わりつくような重さを感じる。壁面の文様は紫を通り越して、ほとんど赤黒い色に変わっていた。脈動の間隔が俺の心拍と完全に一致している。壁を触ると——温かかった。体温と同じ温度。自分の体の内側にいるような錯覚に陥った。

道が途切れた。

行き止まり——ではなかった。壁だ。通路の突き当たりに、一枚の壁がそびえていた。他の壁面と同じ素材だが、刻まれた文様の密度が桁違いだった。線刻が幾重にも重なり合い、円環と直線と曲線が複雑に絡み合う巨大な紋様を形成している。中心には人の手のひらほどの窪みがあった。

封印だ。

その言葉が勝手に浮かんだ。文字として認識したわけじゃない。壁面の文様が「閉じ込めている」意匠であることを、体が読み取った。ここに何かが封じられている。そしてその何かは、俺が来ることを——待っていた。

腹の傷口が疼いた。痛みではなく、飢えに似た感覚。

体内の影が蠢く。壁に近づけ、と。触れろ、と。

手を伸ばした。指先が震えていた。恐怖なのか、衰弱なのか、あるいは体の内側の何かが前のめりになっているせいなのか。区別がつかなかった。

指が壁に触れた。

世界が反転した。

少なくとも、そう感じた。壁面の文様が一斉に光を放ち、赤黒い閃光が通路全体を染め上げた。同時に壁の中心——手のひらの窪みから、黒い何かが噴き出した。

影だ。落下中に見たものと同じ、しかし質量も密度も比較にならない。液体のように流動し、気体のように拡散し、しかしその一筋一筋が明確な意志を持って動いている。

影は俺の指先に巻きついた。手首に這い上がり、腕を伝い、肩へ。冷たくはなかった。温かくもなかった。温度という概念そのものが存在しない接触。ただ、圧倒的な異物感——自分ではないものが自分に浸透していく、決定的な感覚だけがあった。

傷口だ。

影は体表を伝うのをやめ、腹部の銃創に向かって収束した。すでに体内にいた影の残滓が呼び水になるように、壁から噴き出した本体を傷口に導いている。皮膚の裂け目から、黒い影が体内に流れ込んでいく。

声が出なかった。痛みは——痛みという言葉で片づけられるものではなかった。血管の一本一本に針金を通されるような。骨の髄を吸い出されるような。脳の裏側を素手で掻き回されるような。あらゆる比喩が追いつかない暴力的な侵食が、全身を同時に襲った。

視界が白く弾ける。次に赤く染まる。次に——見たことのない景色が映った。

知らない部屋。白い壁。蛍光灯。手術台のようなものの上に、子供が横たわっている。白衣を着た大人が数人、子供を取り囲んでいる。子供の腕に太い管が刺さっていて、管の中を黒い液体が流れている——。

映像は一瞬で途切れた。

誰の記憶だ。

自問する余裕もなかった。影の侵入が加速している。腹から胸へ、胸から喉へ、喉から頭蓋の内側へ。脳に達した瞬間、意識が引き裂かれるような衝撃が走り、全身が痙攣した。歯を食いしばる力すら残っていない。口が勝手に開き、黒い霧のようなものが吐息に混じって漏れた。

そして——止まった。

嵐の後の凪のように、唐突に全てが静止した。

壁面の文様は光を失い、通路は完全な暗闇に戻った。だが見えた。闇の中で、自分の手が見えた。暗視でも赤外線でもない。影そのものが視界を共有しているかのように、闇が闇のまま透けて見えた。

腹の傷口に手を当てた。

血が止まっている——どころではなかった。傷が塞がりかけている。銃弾が貫通した穴の縁を、黒い筋のようなものが覆い、肉を繋ぎ直している最中だった。治療ではない。これは——修繕だ。壊れた道具を直すように、最低限の機能を回復させている。

体を起こせた。

先ほどまで膝も肘もろくに動かなかったのが嘘のように、体幹に力が戻っていた。右足首の痛みも鈍い疼きに変わっている。完治とは程遠いが、立てる。歩ける。

壁を見た。さっきまで封印の文様が刻まれていた壁面は、亀裂が走り、中心部が完全に崩れ落ちていた。その奥に——上へ続く通路が見えた。空気の流れがある。地上の匂いが微かに混じっている。排気ガスと、アスファルトの匂い。

帰れる。

だがその前に、体の内側で「それ」が脈打った。心臓とは別の拍動。腹の奥に根を下ろした異物が、俺の血液を使って全身に網を張り巡らせている。拒絶反応はない。むしろ体の方が順応しようとしている。異物を異物と認識することを、すでにやめかけている。

通路を歩き始めた。足取りは不安定だが、這うよりはましだった。壁に手をつきながら、傾斜を上っていく。

地上が近づくにつれて、腹の奥の拍動が強くなった。脈打つたびに、視界の端に黒い靄がちらつく。そして——声が聞こえた。あの声だ。意味のある言葉ではない。感情ですらない。ただ、一つの衝動だけが体の芯から湧き上がってくる。

飢えだ。

何に対する飢えなのか、まだ分からなかった。だが出口に近づくほど、その衝動は鮮明になった。地上に——人がいる。人の中に、何かがある。それを——。

出口の光が見えた瞬間、俺は足を止めた。

路地裏。コンクリートの壁と錆びたフェンス。見覚えがある——落ちた場所からそう遠くない。出口の向こうに人影が二つ見えた。

鉄華会の構成員だった。俺の死体を確認しに来ている。

腹の奥で、影が跳ねた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ