第1話
第1話
五年間で何人の人間を消したか、正確な数は覚えていない。
覚えているのは、最初の仕事で手が震えたことと、三件目からはもう震えなくなったこと。それだけだ。
新宿の雑居ビル、四階。事務所と呼ぶには殺風景すぎる部屋で、俺——黒崎蓮は壁際のパイプ椅子に座らされていた。蛍光灯の一本が切れかけていて、不規則に明滅を繰り返している。壁紙は黄ばみ、天井の隅には黒い染みが広がっていた。煙草のヤニか、雨漏りか、あるいはもっと別の何かか。この部屋では何が起きても不思議じゃない。目の前には折りたたみのテーブル。その向こうに、鉄華会の幹部・神代が革張りのソファに深く腰を沈めている。
「先週の横浜の件だ」
神代は煙草の煙を天井に吐きながら言った。五十を超えているはずだが、背筋は真っ直ぐで、眼光に衰えはない。この男の前に座ると、空気の温度が二度下がる気がする。
「荷は確かに届けました。受け取り側が——」
「言い訳を聞きたいんじゃない」
神代の声に怒気はなかった。それが余計に怖い。感情を見せる相手はまだ人間扱いされている。この男が無感情になるのは、相手を「処理対象」として見ているときだ。
「港で荷が割れた。警察が動いてる。誰かが責任を取る必要がある。——分かるな」
分かる。嫌というほど分かる。五年間この組織にいて、この構図を何度見てきたか。失敗の原因が上にあっても、責任は下に流れる。水が低いところに溜まるように、クソは常に最底辺に落ちてくる。
俺は自分の手のひらを見た。膝の上に置いた両手は、微かに汗ばんでいた。最初の仕事以来、震えることはなくなったはずだった。だが今、指の関節がわずかに強張っているのが分かる。体は頭より先に理解していたのかもしれない——この部屋から無事に出られないことを。
「俺が引き受けた荷じゃないでしょう。段取りを組んだのは真壁で——」
「真壁は使える。お前は替えがきく」
神代はそれだけ言って、煙草を灰皿に押しつけた。じゅう、と微かな音を立てて火が消える。その動作が、俺の五年間に下された評価だった。
証拠隠滅。口封じ。運び屋。夜中の三時に呼び出されて、どこの誰とも知らない死体を車のトランクに詰めたこともある。真冬の埠頭で、凍てついた海面を見ながら重しを括りつけたこともある。素手では持ち上がらない重さだった。人間の体は、死ぬと生きているときより重くなる。そんなことを経験で知っている自分が、時々ひどく遠い存在に思えた。誰もやりたがらない仕事を断らなかった。断れなかった。それが組織の中で生き残る唯一の方法だと思っていたからだ。
「処分は今夜中に済ませろ」
神代は俺ではなく、部屋の隅に立つ二人の男に向かってそう言った。二人とも見知った顔だった。先月、一緒に飯を食った相手だ。そのうちの一人と目が合った。そいつは無表情のまま視線を外した。——当然だ。こういう場面で情を見せる奴は、次に消される側に回る。
——ああ、そういうことか。
パイプ椅子を蹴り倒して立ち上がったのは、考えるより先に体が動いた結果だった。金属が床に叩きつけられる甲高い音が部屋に響く。テーブルを掴んで二人に向かって投げつけ、窓に体当たりする。四階。飛び降りれば脚が折れる。折れてもいい。ここにいたら確実に死ぬ。
ガラスが割れる音。破片が頬と腕を切り裂くのを感じたが、構っている余裕はない。落下。着地の衝撃が両足から背骨を突き抜けて脳天まで走った。右足首が嫌な音を立てたが、アドレナリンが痛みを押し殺してくれた。
走った。
歌舞伎町の雑踏に紛れ、路地を曲がり、また曲がった。居酒屋の呼び込みの声、酔客の笑い声、どこかの店から漏れるカラオケの音——それらすべてが水中で聞いているように遠く、鈍い。聞こえるのは自分の心臓の音と、荒い呼吸だけだった。背後から足音。二つ。追手は速い。
裏路地に入った瞬間、背中に熱い衝撃が走った。
——撃たれた。
音は聞こえなかった。サプレッサーか。衝撃は背中から腹に突き抜け、前のめりに倒れた。コンクリートの地面が頬にぶつかる。ざらついた路面の感触と、生温かい液体が広がっていく感覚。手を伸ばすと、指先が温かいものに触れた。自分の血だ。腹部から流れ出した血が、路地裏の排水溝に向かってゆっくりと広がっていく。排水溝の上に被さった鉄の蓋に血が達し、格子の隙間から暗い穴の中へ吸い込まれていった。
足音が近づいてくる。ゆっくりと。急ぐ必要がないと分かっているから。
視界がぼやけ始める。路地裏の薄暗い天井——ビルとビルの間から見える空は、ネオンの光で安っぽいオレンジ色に染まっていた。
五年だ。五年間、この組織のために人間をやめるようなことを続けた。その結果が路地裏の血溜まりか。
笑えた。声にはならなかったが、確かに笑った。
神代の言葉が頭の中でリフレインする。「お前みたいな駒は、替えがきく」。恨みとか怒りとか、そういう熱い感情じゃなかった。ただ、事実として受け止めている自分がいた。ああ、そうだったのか。最初からそうだったのか。使い捨ての駒として拾われ、使い捨ての駒として棄てられる。それだけの五年間だった。
足音が止まった。すぐ近くに。
「確認しろ。息があったら頭を撃て」
声が聞こえた。もう体は動かない。指先の感覚すら遠くなっていく。
——終わりか。
そう思った瞬間だった。
足元のアスファルトが、砕けた。
最初は地震かと思った。だが違う。コンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れ、陥没していく。路地裏の地面そのものが口を開けるように崩壊し、俺の体は血溜まりごと闇の中に落ちた。
追手の叫び声が遠ざかる。上を見上げると、路地裏の光が急速に小さくなっていく。オレンジ色の空が、名刺サイズの四角になり、切手サイズになり、やがて針の穴のような光の点になった。
落ちている。ずっと落ちている。
風圧も感じない。重力に引かれているのに、体が浮いているような奇妙な感覚。腹の傷口から血が滴り落ちているはずだが、痛みは遠い。まるで自分の体が自分のものでなくなったように。
暗闇の中に、何かが見えた。
壁面だ。岩のような、しかし自然の岩石とは質感が違うものが周囲を取り囲んでいる。表面に細い線が走っていた。文様——いや、文字に似た何か。見たことのない形の意匠が壁一面に刻まれ、俺が落下するのに合わせるように、淡い光を明滅させている。
脈打っている。
心臓のように。呼吸のように。規則的な明滅が闇を照らし、俺はこの空間が「生きている」のだと直感した。
着地は、あるいは着水に近かった。体が何か柔らかいものに受け止められ、衝撃はほとんどなかった。仰向けのまま、天井のない暗闘を見上げる。背中の下にあるものは、苔のような、しかし苔にしては温かすぎる何かだった。体温があるかのように、俺の背中を包み込んでいる。
ここはどこだ。
地下。それだけは確かだった。新宿の路地裏の地下に、こんな空間があるはずがない。だが現にある。壁面の文様が脈動を続け、空気には微かに鉄錆の匂いが混じっている。自分の血の匂いか、この場所そのものの匂いか、区別がつかない。耳を澄ますと、低い振動音が聞こえた。機械音ではない。もっと有機的な——呼吸に似た、規則的なうねりだった。
体を起こそうとして、咳き込んだ。血が口から溢れた。鉄の味が舌の上に広がり、気管に入った血で呼吸が泡立つ。腹の傷は致命的だ。ここがどこだろうと、このまま放置すれば死ぬ。
——だが。
壁面の光が、変わった。
それまで規則的だった明滅が、急速に不規則になる。心臓の鼓動が乱れるように。呼吸が荒くなるように。文様の光が一点に収束していく。俺の真正面——壁の最も奥まった部分に。
何かがいる。
理屈ではなく、本能がそう告げた。この空間の奥に、この文様の脈動の中心に、何かが——封じられている。
血溜まりの中で這い進む力は、もう残っていなかった。それでも視線だけは逸らせなかった。壁の奥で収束した光が、ゆっくりと輪郭を作り始める。人の形ではない。影の形ですらない。ただそこに、圧倒的な存在感を持つ「何か」が、目覚めようとしていた。
俺の意識が薄れていく。視界の端が暗くなる。
最後に見えたのは、壁面の光が弾けるように膨張し、黒い何かが——影のような、液体のような、しかしどちらでもない何かが、俺に向かって伸びてくる光景だった。
それが傷口に触れた瞬間、全身を電撃のような痛みが貫いた。背骨が弓なりに反り、声にならない叫びが喉から絞り出された。痛みの中に、異物感があった。何かが——傷口から体の内側に入り込んでくる。血管を這い、臓腑を撫で、骨の髄まで浸透していく。拒絶しようにも、もう体を動かす力は残っていなかった。
意識が途切れる直前、知らない誰かの声が聞こえた気がした。
——喰え。