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喰影の駒

第3話 第3話

第3話

第3話

体の内側で、何かが動いている。

それは心臓の拍動とは明らかに異なるリズムだった。腹の奥——銃弾が貫通した傷の深部から、冷たい触手のようなものが一本ずつ伸びていく感覚。肋骨の隙間を縫い、横隔膜の裏を這い、脊椎に巻きついていく。痛みというより、自分の体の設計図を勝手に書き換えられているような——根本的な違和感だった。

出口の手前で膝をついたまま、俺は呼吸を殺していた。

路地裏の二人組はまだ気づいていない。距離は十メートルほど。出口は古いビルの基礎部分に空いた亀裂で、外からは排水管の陰に隠れている。覗き込まなければ見えない角度だ。

「——ったく、血の跡はあるのに死体がねえ」

声が聞こえた。若い男。苛立ちを隠さない口調だった。

「穴だろ。地面が陥没してやがったし、下に落ちたんじゃねえの」

もう一人が応じる。こちらは少し年嵩で、落ち着いた声だった。

「落ちたなら死んでる。どっちにしろ報告は『処理完了』だ」

「確認しねえでいいのかよ。神代さんに——」

「お前、あの穴に降りたいのか」

沈黙。若い方が何かを言いかけて、やめた。

俺は壁に背中を預けたまま、自分の腹を見下ろした。暗がりの中でも見えた。影が——体内に巣食った影が、傷口の周囲で蠢いているのが、布越しにも分かった。黒い筋が皮膚の下を走り、銃創の縁を編むように繋いでいる。肉が盛り上がり、裂けた組織が接合されていく。治癒ではない。もっと即物的な——壊れた配管を応急処置でふさぐような、乱暴な修復だった。

激痛が走った。

予兆はなかった。腹の奥から背骨を伝って脳天まで、白熱した鉄棒を突き通されたような衝撃。歯を食いしばったが、奥歯が軋む音が自分の頭蓋の中で反響した。視界が白く飛び、次の瞬間——。

知らない景色が見えた。

夜の埠頭。コンテナが並ぶ岸壁。潮の匂い。自分の——いや、自分ではない誰かの手が、段ボール箱をトラックの荷台に積み込んでいる。手の甲に入った龍の刺青。見覚えがない。これは俺の記憶じゃない。

映像は一秒と持たずに途切れた。

残ったのは、埠頭の冷たい風の感触と、他人の筋肉の疲労感という矛盾した身体記憶だけだった。

影が——喰影が、俺の体を修復する過程で、何かを流し込んでいる。傷を塞ぐ代償なのか、それとも副産物なのか。判断する材料がない。ただ、この異能が俺の肉体を「使える状態」に戻そうとしていることだけは確かだった。なぜそうするのかは分からない。分からないが、今はそれに縋るしかなかった。

痛みが引いていく。波が砂浜から退くように、中枢から末端に向かって鈍痛に変わり、やがて重い違和感だけが残った。腹の傷口は完全には塞がっていないが、出血は止まっている。立てる。動ける。——少なくとも走って逃げる程度のことはできる体に、強引に修復されていた。

右足首も同様だった。四階から飛び降りたときの損傷を、影が内側から補強している。靭帯を黒い繊維が代替し、腫れた関節を内側から押さえつけている。人間の治癒ではありえない速度と方法。体が自分のものであって自分のものでない感覚が、じわりと広がっていく。

立ち上がった。壁に手をつきながら、出口の亀裂から外を窺う。

二人組は路地の中ほどにいた。一人が血痕の残るアスファルトをスマートフォンのライトで照らし、もう一人が周囲を見張っている。陥没した穴は応急的にカラーコーンで囲われていた。深夜の路地裏。人通りはない。

腹の奥で影が蠢いた。出口を塞がれている。二人の構成員を避けて通る経路はない。この亀裂から出れば、嫌でも視界に入る。

——逃げるか。待つか。

五年間、鉄華会の末端として生きてきた経験が選択肢を弾き出す。二人が引き上げるのを待つのが最善。だが体力の消耗は限界に近い。今は影に修復されて動けているが、これがいつまで持つか分からない。待っている間に限界が来れば——。

もう一度、痛みが来た。

今度は頭だった。こめかみの奥を掻き毟られるような鋭い痛み。同時に、腹の奥の影が膨張するのを感じた。二人の構成員がいる方角に向かって——引っ張られている。

飢え。

地下で感じたあの衝動が、鮮明に輪郭を持ち始めていた。二人の中に、何かがある。影はそれを感知している。嗅覚に似た何かで、獲物の存在を捉えている。

「——っ」

声を殺した。体が勝手に一歩を踏み出しかけたのを、膝に力を入れて止めた。何をしようとしている。あの二人は鉄華会の構成員だ。銃を持っている。この状態で正面からやり合えば殺される。

だが影は止まらなかった。体内の網が収縮し、全身の筋肉を操るように俺を出口に向かわせようとしている。抗うと、傷口が再び開き始めた。修復を巻き戻すように。黒い筋が解け、塞がりかけた傷の縁から血が滲む。

交換条件か。

出ろ。あの二人に近づけ。さもなければ修復をやめる——そう言われているようだった。言葉はない。意志の疎通と呼べるほど上等なものでもない。寄生虫が宿主を水辺に導くのと同じ、原始的な支配だ。

選択肢はなかった。

亀裂から体を押し出す。路地裏の冷たい空気が汗ばんだ肌を刺した。腐った残飯と排水の匂い。つい数時間前に死にかけた場所の匂いだ。

若い方が先に気づいた。スマートフォンのライトが俺の顔を照らし、一瞬固まる。

「——は?」

信じられないものを見る目。当然だ。背中を撃たれて路地裏で倒れた死体が、数時間後にビルの壁の亀裂から血まみれで這い出してきたのだ。幽霊でも見たような顔をしている。

「おい、生きて——」

年嵩の方が拳銃を抜いた。反応が速い。こちらを人間と見なすか化け物と見なすかの判断を飛ばして、「排除すべき異常」として即座に処理に入っている。引き金にかかる指。銃口が胸の中心に向く。

腹の奥で、影が跳ねた。

今度は止められなかった。止めようとも思わなかった。

体が動いた。自分の意志なのか、影の衝動なのか、その境界がすでに曖昧になっていた。銃声が鳴る前に横に跳び、壁を蹴って二人の間合いに入る。右足首が悲鳴を上げたが、影がそれを無理やり抑え込んだ。痛覚を遮断するように、足首から膝までを黒い筋が覆う。

年嵩の男が発砲した。路地裏に乾いた音が二度響く。一発は壁に当たり、コンクリートの破片が散った。もう一発は——。

右肩を掠めた。シャツの布地が裂け、皮膚が焼けるような痛みが走る。だが足は止まらなかった。

男の銃を持つ手首を掴んだ。指が食い込む。人間の握力ではない——影が、俺の筋繊維の間に入り込んで出力を引き上げていた。骨が軋む音。男が呻き、銃が落ちた。

その瞬間——手首から何かが流れ込んできた。

電気が逆流するような感覚。男の手首を掴んだ指先から、黒い筋が皮膚の境界を越えて男の血管に潜り込む。影が——俺の体内の影が、男の中にある「何か」を吸い上げ始めた。

男の目が見開かれた。恐怖ではなかった。驚愕でもなかった。もっと根源的な——存在の一部を剥奪される苦痛が、顔面の筋肉を歪めていた。

「やめ——おい、何を——」

喰っている。

俺は喰っている。この男の中にある——力を。名前のつかない何かを。影がそれを嗅ぎつけ、俺の手を介して根こそぎ吸い上げている。

男の腕の皮膚が灰色に変わっていく。乾燥し、罅割れ、まるで十年分の時間を数秒で消費したかのように老化していく。同時に俺の体に流れ込んでくる「それ」の感触。温かく、濃密で、生きている力そのもの——。

男を突き放した。

自分の意志でそうした。影はまだ足りないと喚いていたが、腕を引き剥がした。男は膝から崩れ落ち、動かなくなった。気絶しているのか、もっと深刻な状態なのかは分からなかった。

若い方の構成員が叫び声を上げ、踵を返して路地の出口に向かって走り出した。

追わなかった。追えなかった。体中を駆け巡る異物の奔流に、膝が震えて立っていられなかった。壁にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返す。

右手を見た。指先に——男から喰ったものの残滓が、黒い靄のように纏わりついていた。

喰影。

名前が浮かんだ。どこから来た知識なのか分からない。だが確信があった。これが、あの地下空間で俺の体に入り込んだものの名前だ。影を喰う力。他者の力を奪い、自分のものにする異能。

逃げた構成員は仲間を呼ぶだろう。ここにいれば数分で包囲される。

体が動く。喰影に修復され、さらに男から奪った「何か」で一時的に強化された体は、先ほどまでとは別物のように軽かった。

路地裏の排水管を掴み、向かいのビルの非常階段に飛び移る。三階の踊り場から屋上に上がり、隣のビルとの隙間を跳び越えた。新宿の夜景が眼下に広がる。ネオンの光が街を塗りたくる中、俺は歌舞伎町から離れる方向に走った。

屋上を三つ渡ったところで、足が止まった。

奪った構成員の——記憶が、流れ込んできた。

断片的な映像。鉄華会の事務所。書類にサインする手。携帯電話の画面に表示された指示文。そして——「上から支給された力」という言葉。

あの男は、異能者だった。

だが自分の力として生まれ持ったものではなかった。組織から——与えられたもの。道具として。駒として。俺と同じ「替えのきく駒」に、組織が武器を持たせていた。

足元の砂利を踏みしめながら、俺は夜空を見上げた。星は見えない。光害に塗りつぶされた東京の空は、薄汚いオレンジ色のまま明けることを拒んでいた。

腹の奥で、喰影が脈打っている。もう一人。もう一人喰えと。

飢えは収まっていなかった。むしろ——最初の捕食を終えたことで、より鮮明になっていた。

逃げた構成員の顔を思い出す。若い顔だった。恐怖に歪んだ、俺より年下かもしれない顔。あいつも「支給された力」を持っているのだろうか。

そして——あいつが戻った先には、何人の異能者がいる。

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