第2話
第2話
朝靄がまだ街路に漂う時刻に、ユウトは宿を出た。
鞄の中で図鑑の重みを背中に感じながら、石畳の坂道を東へ下る。緑苔の迷宮は街の東端、旧城壁の外に口を開けている。かつては軍事拠点として利用されていた地下構造が、数百年の歳月を経て魔力を帯び、迷宮化したものだと文献にはある。今では初心者テイマーの訓練場として管理され、入口にはギルドの受付小屋が設けられていた。
受付で身分証を提示すると、窓口の女性職員がわずかに眉を動かした。Fランクの刻印を見たのだろう。何も言わなかったが、差し出された入場記録票の備考欄に「単独・従魔一体」と書き込む筆跡に、一瞬の躊躇いが透けた。視線が一度だけユウトの足元——ルイの方へ落ちて、すぐに戻った。スライム一体で迷宮に潜るテイマーなど、この受付では珍しいのだろう。あるいは、珍しいどころか前例がないのかもしれない。
「お気をつけて」
定型文。ユウトは軽く頭を下げ、石段を降りた。
足元のルイが体を伸ばして周囲を探るように揺れる。スライムの索敵能力は低い。だが三年間ユウトと共にいる中で、空気中の魔力濃度の変化には敏感になっていた。迷宮の入口が近づくにつれ、ルイの体表にかすかな波紋が走るのが見えた。
入口は幅三メートルほどの石造りのアーチだった。苔が柱を這い上がり、天井から垂れ下がった蔦が入る者の顔を撫でる。その奥は暗い。松明を灯すと、湿った石壁が橙色に浮かび上がり、足元に敷き詰められた石畳の継ぎ目から細い水の流れが光を返した。空気が変わる。地上の乾いた朝の匂いが、苔と地下水と古い石の匂いに塗り替えられていく。肺の奥まで冷たい湿気が染み込み、吐く息がわずかに白く曇った。
「——行くぞ、ルイ」
一階層は予想通りだった。壁蜘蛛が天井の隅に巣を張り、苔蜥蜴が岩陰から舌を出してこちらを窺っている。どちらも図鑑に詳細な記述がある。ユウトは足を止め、鞄から図鑑を取り出した。
苔蜥蜴の項を開く。体長三十センチ前後、夜行性だが迷宮内では光源に反応して活動する。攻撃性は低く、尾を振って威嚇する個体は縄張りを主張しているだけで、三メートル以上の距離を保てば無視される。ユウトは目の前の個体を観察し、尾の動きと体色の変化を余白に書き加えた。
「この個体、背中の鱗の並びが左右非対称だな……湿度が高い区画の個体に多い特徴か」
独り言のように呟きながら、鉛筆を走らせる。ルイが足元で体を揺らした。急かしているのではない。三年間の習慣で、ユウトが観察を始めると大人しく待つことを覚えているのだ。
二階層への階段を下りる手前で、床石の色が一箇所だけ微妙に違うことに気づいた。周囲より新しい。踏むと沈む——圧力式の罠だ。初心者向けの迷宮とはいえ、ギルドが設置した訓練用のものがいくつか仕掛けられている。図鑑の巻末付録に記載のある型だった。石の摩耗具合と苔の付着パターンで判別できると、ユウトは三年前に書き込んでいる。
避けて通る。二階層も同様に進んだ。
ここまでは戦闘をしていない。一度も。
他のテイマーなら従魔に命じて片端から倒していくような魔物たちを、ユウトはすべて観察と回避で通過していた。壁蜘蛛の巣の張り方から通路の気流を読み、苔蜥蜴の縄張りの境界線を足で踏まないように歩く。角兎の群れが通路を塞いでいた場所では、図鑑の記述通りに松明の火を低く構えて光量を落とし、兎たちの警戒を解いてから静かに迂回した。
戦えないからではない。戦わないことを選んでいた。
ルイの戦闘力では、壁蜘蛛一匹を倒すのにも消耗する。限られた体力と魔力を温存するなら、不要な戦闘はすべて避けるべきだった。そのための知識を、三年間かけて積み上げてきた。
三階層に入ると、空気の質が変わった。
湿度が上がっている。壁面の苔が一、二階層より明らかに厚く、天井からぽたりぽたりと滴が落ちる音が反響していた。足元の石畳は薄い水膜に覆われ、松明の光がそこに映り込んで、まるで二つの炎が揺れているように見えた。遠くで何かが動く気配。水を掻く音。低い、喉の奥から絞り出すような唸り。
ユウトは図鑑を開いた。三階層に生息する魔物のリストを確認する。沼蛙、水棲苔蜥蜴、泥蟹——いずれもDランク以下。戦闘を避けて進める相手だ。
だが、ユウトの足が止まったのは魔物のせいではなかった。
通路の分岐点に、他のテイマーの痕跡があった。松明の煤が壁に残り、足跡が泥の上に乾いている。複数人のパーティが力押しで通過した形跡だ。魔物の体液が壁に飛び散り、戦闘の痕が生々しく残っている。倒された沼蛙の残骸が通路の端に転がっていた。
ユウトはしゃがみ込み、残骸を観察した。職業病のようなものだ。すでに魔力が抜けて素材としての価値もない死骸だが、傷の付き方から戦闘の様子が推測できる。火属性の従魔による攻撃。一撃で仕留めている。無駄がないが、観察もしていない。倒して、進んで、また倒す。それが一般的なテイマーの迷宮攻略だった。
「俺とは、まるで逆だな」
呟いた声が湿った壁に吸い込まれ、反響すら返ってこなかった。優劣の話ではない。ただ、同じ迷宮を歩いていても見ているものがまるで違うのだと、改めて思う。
立ち上がり、先へ進む。三階層の奥——地図上では行き止まりとされている区画に近づいたとき、ルイの体表に細かい波紋が走った。
魔力の揺らぎを感知している。
ユウトは松明を低く構え、足音を殺して角を覗き込んだ。薄暗い広間の隅に、一匹の苔蜥蜴がいた。体長は通常個体と同程度。しかし——
図鑑を開く手が震えた。
苔蜥蜴の体表を覆う鱗の紋様が、図鑑の記述と一致しない。通常の苔蜥蜴は背面に菱形の鱗紋が規則正しく並ぶ。だがこの個体の紋様は渦を巻いていた。渦状紋。図鑑にも、ユウトの三年間の観察記録にも、一度も現れたことのないパターンだ。
体色もわずかに異なる。通常の苔蜥蜴が灰緑色なのに対し、この個体はより深い翠色をしている。鱗の一枚一枚が周囲の苔と同化するように色を変え、静止していれば壁の一部と見分けがつかないほどだった。
ユウトは息を止めた。図鑑の余白に鉛筆を走らせる。手が震えていたが、線は正確だった。三年間、毎日繰り返してきた動作だ。紋様の形状、鱗の配列、体色の階調、尾の長さの比率——観察できるすべてを記録していく。心臓が耳の奥で鳴っていた。興奮ではなく、もっと深い場所から湧き上がる衝動だった。三年間、誰にも認められなかった観察の蓄積が、今この瞬間に意味を持とうとしている。
苔蜥蜴はユウトに気づいていない。あるいは気づいた上で、脅威と判断していないのか。その瞳は通常個体より大きく、虹彩の色が金に近い琥珀色をしていた。
「……お前は、何だ」
図鑑に載っている魔物と同じ種でありながら、明らかに違う。環境に適応した変異個体か、それとも——
ルイが体を震わせた。警告ではない。この震え方は、未知の魔力に触れたときの反応だ。以前、ギルドの図書館でSランク魔物の魔石標本の近くを通ったとき、同じ震え方をしていた。
ユウトは記録の手を止めず、しかし意識の奥で、ひとつの仮説が形を結び始めていた。初心者向けの十階層しかない小さな迷宮。公式記録に載っている魔物だけが棲む、安全な訓練場。——本当にそうなのか。
苔蜥蜴が身じろぎした。壁面に沿って這うように動き、やがて通路の奥の暗がりへ消えていく。その方向は、地図上では壁——行き止まりのはずだった。
ユウトは図鑑を閉じ、鞄にしまった。渦状紋の苔蜥蜴のスケッチが、鉛筆の粉を薄く散らしながらページに定着していく。その数ページ先に、あの空白のページがある。今朝、家を出る前に確認したとき、七枚は変わらずそこにあった。真新しい白さのまま、何も記されていない。
だが今、鞄越しにかすかな温もりを感じる。昨夜と同じだ。
ユウトは暗がりに消えた苔蜥蜴の痕跡を目で追った。湿った石壁に、渦状の紋様を持つ鱗が一枚だけ落ちている。翠色の光沢が松明の火を受けて、暗闇の中で静かに輝いていた。