第3話
第3話
翠色の鱗を指先で摘まむと、予想に反して温かかった。
松明の火に翳す。光を透かした鱗の内側に、渦状の紋様がもう一層、より細かな螺旋として刻まれていた。表面の紋様は肉眼で見えるが、この内側の構造は光を通さなければ分からない。二重の渦。ユウトは図鑑を開き、通常の苔蜥蜴の鱗構造と見比べた。
通常個体の鱗は単層だ。菱形の紋様は表面にのみ存在し、裏側は平滑で、魔力の伝導性も低い。だがこの鱗は違う。内側の螺旋構造は、まるで魔力を循環させるための回路のように見えた。
「環境適応……か」
三階層は上層より湿度が高く、魔力濃度も僅かに濃い。壁面の苔が厚いのは水分だけでなく、苔そのものが魔力を吸収して繁殖しているからだ。図鑑の記述にある。ならば、その環境に長期間さらされた苔蜥蜴が、魔力を体内で循環させる構造を獲得したとしても不自然ではない。
ユウトは鉛筆を走らせた。仮説を書き留める。「渦状紋個体=高魔力濃度環境への適応型亜種。鱗内部に魔力循環構造を持つ。通常個体より周囲の魔力に敏感であり、魔力濃度の変化に応じて行動パターンが変わる可能性がある」
可能性。推測の域を出ない。だが、ユウトの三年間の観察記録は常にこの積み重ねだった。仮説を立て、観察で検証し、修正する。誰に評価されなくとも、この手順だけは崩さなかった。
鱗を小袋に収め、鞄に入れる。ルイが体を伸ばして鞄の口を覗き込んだ。図鑑のあたりからまだ微かな温もりが漏れているのを、スライムの体が感じ取っているのかもしれなかった。
四階層への階段を下りると、環境が一段と変わった。
天井が高くなり、壁面の苔が発光種に切り替わっている。青白い燐光が通路全体を照らし、松明がなくとも視界が確保できた。空気は三階層より乾いているが、魔力の濃度は明らかに上がっている。肌がぴりぴりと粟立つような感覚。ルイの体表に波紋が絶えず走っていた。
ユウトは足を止め、図鑑を開いた。四階層の項。生息魔物は石甲虫、牙蝙蝠、岩殻蟹——いずれもDランク上位からCランク下位。三階層までとは一段階、格が上がる。
通常ならここでテイマーは従魔の戦闘力に頼る。しかしユウトにはルイしかいない。レベル1のスライムでは石甲虫の外殻すら傷つけられない。
だが、ユウトの目は魔物ではなく壁面の苔に向いていた。
発光苔の分布にムラがある。通路の左壁は一面に繁殖しているのに、右壁は途切れ途切れだ。苔は魔力を吸って光る。つまり右壁側は魔力の流れが弱い——魔物の縄張りから外れている可能性が高い。
「右壁沿いに進む」
呟きながら歩を進めると、果たして石甲虫の群れは左壁側の窪みに固まっていた。縄張りの中心は魔力の湧出点。そこから離れた右壁沿いは、彼らにとって価値のない空間だ。ユウトは壁に背を預けるようにして群れの脇を通過した。石甲虫たちは鋏を鳴らしたが、追っては来なかった。
同じ手法で五階層も抜けた。渦状紋の亜種から得た着想だった。魔物は魔力濃度に敏感に反応する。ならば魔力の薄い経路を選べば、遭遇そのものを減らせる。力で突破するのではなく、環境を読んで戦闘を回避する。それがユウトのやり方だった。
五階層の奥で大部屋に出たとき、先客の気配があった。
松明の光が三つ。革鎧に身を固めた男女三人が、部屋の中央で休息を取っていた。傍らにはそれぞれの従魔——火鬣の狼、風刃の鷹、土鎧の亀が控えている。いずれもCランク以上の魔物だ。装備の質と従魔の練度から見て、中堅テイマーのパーティだろう。
ユウトが部屋に入った瞬間、三人の視線が集まった。
「……は?」
最初に声を上げたのは、火鬣の狼を従えた長身の男だった。鳶色の髪を後ろで束ね、顎に無精髭を生やしている。名はラグナと名乗った。
「単独か。従魔は——」
視線が下がり、ルイを見つけ、止まった。
「……スライム?」
「ああ」
「スライム一匹で五階層まで来たのか」
「来たというか、今ここにいる」
ラグナの隣に座っていた女性テイマー——短髪で目つきの鋭い、風刃の鷹の主が、信じられないという顔で立ち上がった。
「嘘でしょ。罠もあるのに」
「罠は避けた。魔物も」
「全部?」
「全部」
三人目の男、土鎧の亀を従えた温厚そうな体格の大きなテイマーが、水筒を差し出しながら口を開いた。
「座ったらどうだ。さすがに疲れてるだろう、その——やり方だと」
ユウトは礼を言って水を受け取った。喉が渇いていたことに、座って初めて気づいた。
「名前は」
「灰谷ユウト。Fランク」
ラグナの眉が上がった。
「Fで五階層は聞いたことがない。パーティ推奨は四階層からだぞ」
「知ってる」
「知ってて単独でスライム一匹か。度胸があるのか無謀なのか」
「どっちでもない。戦闘を避けてるだけだ」
短髪の女性——ミラと名乗った——が腕を組んだ。
「避けるって、どうやって。ここの石甲虫、結構しつこいのよ」
「壁の苔を見る。発光苔の分布で魔力の流れが分かる。魔物の縄張りは魔力の湧出点を中心に形成されるから、苔の薄い側を通れば遭遇率が下がる」
三人が顔を見合わせた。ラグナが口の端を歪めた。嘲笑ではない。困惑に近い表情だった。
「……そんなもん見たこともねえよ」
「見てないだけで、ずっとそこにある」
沈黙が落ちた。ルイがユウトの足元でぷるんと揺れた。
大柄なテイマー——ドルクが咳払いをした。
「まあ、無事ならいいさ。俺たちはこの先の六階層のボスを倒して戻るところだ。あんたも気をつけろよ」
「六階層のボスを?」
「ああ。岩顎蜥蜴。三人がかりでどうにか、ってところだったが」
「苦戦した?」
「まあな。尻尾の薙ぎ払いが厄介で、正面から行くしかなかった。部屋が狭くて回り込めないんだ」
ユウトは頷いた。岩顎蜥蜴は図鑑に記載がある。Cランク上位、顎の咬合力と尾の打撃を主武装とする近接型。通常は六階層の番として一体だけが配置されている。
「……その部屋、壁に何か変わったところはなかったか」
「壁?いや、特には。なんでだ?」
「いや——気にしないでくれ」
三人のパーティは休息を終えると、地上への帰路についた。ミラが去り際に振り返り、「死ぬなよ、スライム使い」と言った。その声には嘲りの響きはなかった。
一人になった大部屋で、ユウトは六階層への階段を見下ろした。
中堅パーティが三人がかりで倒したボスの部屋。ルイと二人で戦う理由も手段もない。だが、ユウトの関心はボスではなかった。
三階層で見つけた渦状紋の亜種。あれが環境適応の結果だとすれば、この迷宮の深層ほど魔力濃度は高く、より特異な変異が起きているはずだ。そしてあの苔蜥蜴が消えた方向——地図上の行き止まり。公式記録に存在しない空間。図鑑の空白のページ。すべてが一つの仮説を指し示している。
この迷宮には、まだ誰も見ていないものがある。
六階層に降りた。ボスの岩顎蜥蜴はすでに倒された後で、広間には戦闘の残滓だけが漂っていた。床に散らばった岩の破片を避けながら奥へ進む。松明を掲げると、壁面に深い爪痕がいくつも刻まれていた。ラグナたちの従魔がつけたものだろう。
だが、ユウトの目はその傷跡の隙間に浮かぶ別のものを捉えていた。
壁面の石材の継ぎ目に沿って、髪の毛ほどの細さで走る紋様。自然の罅ではない。苔の根でもない。規則的な間隔で枝分かれする、明らかに人工的な——いや、魔力的な痕跡だった。
ルイが激しく震えた。
ユウトは壁に手を近づけた。触れてはいない。それでも掌に、あの鱗と同じ温もりが伝わってくる。魔力の脈動。壁の奥を何かが流れている。
図鑑を取り出す。開いた瞬間、鞄の中で眠っていた空白のページが淡く光を帯びたのが見えた。昨夜や今朝の、目を凝らさなければ分からないほどの微光ではない。はっきりと、紙面が燐光を放っている。
ユウトは壁の紋様と図鑑の光を交互に見た。心臓が喉元まで跳ね上がっていた。呼吸を整える。震える指先で鉛筆を握り、壁面の紋様を図鑑の余白に写し取り始めた。
ラグナたちは気づかなかった。当然だ。ボスを倒すことが目的なら、壁の罅など見る理由がない。倒して、進んで、戻る。それが迷宮攻略の常道だった。
だが、ユウトは観るために来た。
写し終えた紋様を見下ろす。枝分かれの角度、間隔、太さの変化——どこかで見た構造だ。記憶を辿る。図鑑のページを繰る。
あった。
渦状紋の苔蜥蜴の鱗の内部構造。あの二重螺旋と、この壁面の紋様は、分岐のパターンが一致していた。生き物の体内と迷宮の壁。スケールはまるで違うのに、同じ法則で魔力が流れている。
ユウトの背筋を、冷たいものが駆け上がった。畏怖に近い感覚だった。この迷宮は、ただの地下構造が魔力を帯びたものではないのかもしれない。壁そのものが、生きている——とまでは言わないが、魔力を循環させる構造体として機能している。
鞄の中で、図鑑の空白ページがまだ光っている。その光は壁の魔力紋様と同じ明滅のリズムを刻んでいた。まるで、呼応するように。