第1話
第1話
灰谷ユウトのテイム成功率が一桁を割った日、ギルドの掲示板にその数字が貼り出された。
歴代ワースト——四パーセント。
査定用の実技試験場は円形の闘技場を模した構造で、上階の回廊から同期や先輩テイマーたちが見下ろしている。午後の陽光が天窓から差し込み、砂地の中央に長い影を落としていた。ユウトの前には体長一メートルほどの角兎が一匹、後ろ足で砂を蹴りながら落ち着きなく耳を動かしていた。Dランクにも満たない、テイム対象としては最も穏和な部類の魔物だ。
右手を翳す。魔力を練り、回路を繋ぐ。教本通りの手順を一つずつ踏んでいく。指先にかすかな光が灯り、角兎の瞳と視線が交わる。
一瞬、繋がった気がした。魔力の糸が角兎の意識に触れ、その毛皮の下を流れる温かな脈動を指先に感じた。あと少し——回路が結合すれば契約が成立する。ユウトは息を詰め、集中を絞り込んだ。
——途切れた。
魔力の糸が結びつく直前、角兎がぷいと顔を背け、砂場の隅へ跳ねていった。接続の拒絶。テイム失敗。指先に残った魔力が行き場を失い、じわりと熱を持って消えていく。ユウトの腕がゆっくりと下がる。
回廊から笑い声が降ってきた。一人、二人ではない。堪えきれないという類の、遠慮のない嘲笑だった。声は石壁に反響して増幅され、まるで闘技場全体が嗤っているかのようだった。
「角兎にも嫌われるって逆にすごくない?」
「毎回あの顔。慣れろよもう」
「見てらんないよな。いつまで枠使ってんだか」
ユウトは唇を引き結んだまま試験場を出た。足元のルイが心配するように体を震わせたが、振り向かなかった。廊下の壁に据え付けられた掲示板の前を通るとき、視界の端に自分の名前を見つけた。足を止める気にはなれなかった。数字は知っている。四パーセント。二十五回の公式試験で成功は一回。その一回で契約したのが、今も足元でぷるぷると震えているレベル1のスライム——ルイだった。
ギルドマスターの執務室に呼ばれたのは、試験から一時間後のことだった。
樫の机の向こう側で、白髪交じりの壮年の男が書類に目を落としている。部屋には革と紙とインクの匂いが混じり合い、窓から差し込む西日が埃を金色に浮かび上がらせていた。壁に掛けられた歴代テイマーの肖像画が、無言でユウトを見下ろしている。そのどれもが、かつてSランクの契約魔物を従えた英雄たちだった。
「灰谷。座れ」
ギルドマスター・鷹城の声には怒りも憐みもなかった。事務的で、それがかえって重い。ユウトは木製の椅子に腰を下ろした。背もたれが軋む小さな音が、静まり返った部屋に響いた。
「次の定期査定は三十日後だ。お前の現状は知っての通り——いや、知りすぎているだろうな」
「……はい」
鷹城の目が一瞬だけユウトの顔を捉え、すぐに書類に戻った。その視線の中に、ほんの微かな——憐れみとは違う、何か測りかねるような色が混じっていたことに、ユウトは気づかなかった。
「規定により、査定で最低基準を満たせなければ資格剥奪になる。これは温情でも脅しでもなく、制度の話だ」
ユウトは頷いた。分かっている。Fランクのまま三期連続で基準未達なら、テイマーの資格そのものが取り消される。今期が最後の猶予だった。資格を失えば、ギルドの図書館にも訓練場にも入れなくなる。魔物に関われる道が、完全に閉ざされる。
「そこでだ」
鷹城が一枚の書類を滑らせた。ユウトは受け取り、目を通す。
「『緑苔の迷宮』——単独調査任務?」
「初心者向けのダンジョンだ。公式記録では十階層まで確認されている。魔物の生態調査報告書を提出すれば、査定の加点対象になる。単独でも問題ないレベル帯だろう」
言外の意味は明らかだった。ここなら死にはしない。お前でも何かしら成果は出せるだろう。そういう計らいだ。温情処分。周囲がそう呼ぶであろうことは、鷹城自身も承知しているはずだった。
「……ありがとうございます」
声が掠れた。感謝と屈辱が喉の奥で絡み合い、どちらとも取れない響きになった。
「礼はいらん。結果を持って来い」
ギルドを出ると、空はもう暮れかけていた。石畳の道を歩きながら、ユウトは足元のルイに目を落とす。半透明の体が夕焼けを透かして橙色に揺れている。街路沿いの魔道灯がひとつ、またひとつと灯り始め、行き交う人々の影が長く伸びていた。すれ違うテイマーたちは誰もが傍らに契約魔物を従えている。鷹翼の鳥、鉄鱗の蜥蜴、炎毛の狼——それぞれが主人と息の合った歩調で夕暮れの街を進んでいく。
「お前だけだな、俺についてきてくれるの」
ルイがぷるんと跳ねた。感情表現なのかただの反射なのか、三年経っても判別がつかない。それでもユウトは口の端をわずかに持ち上げた。
アパートの一室は狭い。六畳の床にテイマー用の道具がいくつか転がり、壁際の棚には参考書と魔物図鑑が隙間なく詰まっている。その中で一冊だけ、背表紙が擦り切れてほとんど読めなくなっている古い図鑑があった。
ユウトはベッドの縁に腰を下ろし、その図鑑を手に取った。
ギルドの正規品ではない。三年前、資格取得の直後に古物商で見つけた著者不明の一冊だ。革表紙は色褪せ、綴じ糸はところどころ解れている。だが中身は正規の図鑑より遥かに詳しかった。魔物の骨格構造、食性の季節変動、縄張り行動の時間帯依存——公式図鑑が二行で済ませる情報を、この本は見開き一面を使って記述している。
ユウトにとって、これが唯一の武器だった。戦えないから観た。勝てないから覚えた。テイムの才能がないなら、せめて魔物を知ることだけは誰にも負けたくなかった。この三年間、出会った魔物のすべてを観察し、余白という余白に自分の所見を書き足してきた。インクの染みと鉛筆の走り書きで、図鑑は原型をとどめないほど膨らんでいる。
ページを繰る。苔蜥蜴、壁蜘蛛、角兎——今日の試験で自分を拒絶した魔物の項を開き、改めて生態記述を読み返す。角兎の頁には自分の書き込みがびっしりと並んでいた。「接触時に鼻先を動かす個体は警戒度が低い」「耳の角度が四十五度以下なら好奇心優位」——どれも実地で何十時間も観察して導いた所見だ。今日の個体も、耳の動きから判断すれば拒絶の兆候は薄かったはずだった。知識は正しかった。それでも魔力の回路が細ければテイムは成立しない。知っていることと、できることは違う。
「……でも、これしかないんだよな」
呟きながらページを繰り続けた手が、止まった。
図鑑の後半部——普段はほとんど開かない領域に、見覚えのないページがあった。いや、ページ自体は前からあったはずだ。だが、確かに記憶にある限り、この図鑑の未使用ページは巻末の二、三枚だけだったはずなのだ。
今、そこには七枚の空白ページが並んでいた。
紙の質感が違う。周囲のページが経年で黄ばんでいるのに対し、この七枚だけが真新しい白さを保っている。指先で触れると、ほのかに温かい。まるで昨日綴じられたばかりのように。
ユウトは眉を寄せた。ルイが机の上にぷるりと這い上がり、図鑑を覗き込むように体を伸ばす。スライムの体が空白ページの近くに触れた瞬間、紙面がごく淡い燐光を放った——ように見えた。
瞬きの間に光は消えた。
気のせいか。疲れているのかもしれない。今日は散々だった。試験に落ち、数字を晒され、温情で仕事をもらった。そういう日に、おかしなものが見えても不思議ではない。
だが、ユウトは図鑑を閉じる手を止めた。三年間、この図鑑のすべてのページを舐めるように読んできた自分が、七枚もの空白を見落とすだろうか。
指先がまだ、あの温もりを覚えている。
「……緑苔の迷宮、か」
明日から三十日間の猶予。初心者向けの、十階層しかない小さな迷宮。そこで報告書を書いて、最低基準を満たして、また来期も最底辺で生き延びる。それが現実的な道筋のはずだった。
なのに、空白のページが気にかかって仕方がない。
ユウトは図鑑を鞄に入れ、明日の装備を確認し始めた。ルイが鞄の上に乗り、中の図鑑に寄り添うように丸くなる。
夜が更けていく。窓の外では三日月が薄雲の向こうに霞んでいた。棚に並んだ背表紙たちが暗がりの中で沈黙し、鞄の中の図鑑だけが——本当にかすかに、目を凝らさなければ分からないほどの光を、空白のページから漏らしていた。