第2話
第2話
朝の光が薄いカーテン越しに差し込んで、俺は目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。天井が白い。コンクリートじゃない。壁紙の継ぎ目に見覚えのある染みがあって、ようやく——ああ、家か、と思った。施設の仮眠室で寝落ちすることが増えて、自分の部屋のほうがよそよそしく感じる。枕元のスマホを見ると、六時十二分。学校のある日だ。
布団を剥いで起き上がると、左の肋骨がずきりと鳴った。昨日の模擬戦で鷹野に蹴り込まれた場所だ。鏡の前でシャツを捲ると、脇腹に青紫の痣が広がっていた。左腕にも擦過傷が数本。長袖のシャツで隠れる範囲だが、体育があると厄介だ。
階段を降りると、台所から味噌汁の匂いがした。
「蓮、おはよう。今日は早いね」
母さんがフライパンの上で卵を焼いている。いつもの光景。いつもの声。この台所には異能も術式も存在しない。ここでは俺はただの高校二年生で、部活で忙しくて帰りが遅い、ちょっと無口な息子だ。
「……おはよ」
「朝ごはん、もうすぐできるから座ってて。あ、卵焼きとウインナーでいい?」
「うん」
食卓について箸を手に取る。母さんが皿を並べながら、何気なく言った。
「最近また帰り遅いでしょ。部活、大会前なの?」
「まあ、そんな感じ」
嘘をつくことに、もう罪悪感はない。正確に言えば、罪悪感を感じる余裕がない。異能の世界を知らない母さんにとって、姉は八年前の事故で行方不明になった娘だ。警察の捜索は打ち切られ、家庭裁判所の失踪宣告が近づいている。母さんはそれを受け入れようとしている。受け入れなければ生きていけないから。
その「事故」が異能災害であること、姉に異能の才覚があったこと、そして俺が姉の手がかりを追って施設に通っていること——全部、言えない。言ったところで何も変わらない。母さんを異能の世界に巻き込むだけだ。
「いただきます」
卵焼きを口に入れた。甘い味つけ。姉さんが好きだった味だ。母さんは八年間、ずっとこの味つけを変えていない。
食べ終えて家を出る。四月の朝の空気は冷たくて、肋骨の痛みが少しだけ和らいだ。駅までの道を歩きながら、昨夜の屋上を思い出す。封筒はリュックの底に入れてある。退去勧告。期限は——あと六日。
電車に乗り、乗り換え、また乗る。車内の人間は全員スマホを見ている。この中に異能者がいる確率は〇・〇三パーセント以下。統計上、この車両には俺しかいない。もっとも、Eランク未覚醒の俺を異能者と呼んでいいのかは怪しいが。
校門をくぐると、日常が始まる。上履きに履き替え、階段を上り、教室のドアを開ける。
「おはよ、蓮」
声の方向を見る前に、鞄が肩にぶつかった。椅子に座ろうとした俺の真横に、篠宮美月が立っていた。幼馴染。小学校からの腐れ縁で、姉さんがいた頃からの付き合いだ。肩にかかるくらいの髪を耳の後ろにかけて、俺の顔を覗き込んでいる。
「……おはよ」
「顔色悪くない? また寝てないでしょ」
「寝た。六時間は寝た」
「嘘。目の下くま出てるし」
美月は遠慮なく俺の顔を指さした。こういうところが昔から変わらない。姉さんと三人で遊んでいた頃から、美月は俺の嘘を見抜くのが得意だった。
一限目の数学が終わり、二限目の英語が始まる頃には、肋骨の痛みが鈍く疼いていた。椅子に座っているだけで響く。教科書を持ち上げる動作で左腕の擦過傷が引きつれて、無意識に顔をしかめた。
「——ちょっと」
昼休み、美月が俺の袖を掴んだ。教室を出て、人気のない階段の踊り場まで引っ張られる。窓から差し込む光が美月の表情を照らしていた。笑っていない。
「見せて」
「何を」
「左腕。さっきからずっと庇ってるの、気づいてないと思った?」
「ぶつけただけだ」
「嘘つかないで」
美月の声が硬くなった。俺は黙った。美月が俺の左手首を取って、袖を捲り上げる。擦過傷が三本、手首から肘にかけて走っていた。皮膚が裂けて、薄いかさぶたが張っている。
美月の指が止まった。
「……これ、ぶつけた傷じゃないよね」
「部活で」
「蓮は帰宅部でしょ」
そうだった。設定を間違えた。俺の学校での表向きは帰宅部で、施設に通うための時間を「塾」と「バイト」で埋めている。部活をやっていることにしていたのは母さんに対してだ。美月には別の嘘をついていた。混線した。
「バイト先で。荷物運んでて」
「じゃあこっちは?」
美月が俺のシャツの裾を引いた。抵抗する前に、脇腹の痣が露出する。青紫色が黄色く変色し始めた打撲痕。鷹野の蹴りの跡だ。美月の目が大きく見開かれた。
「蓮——」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。誰にやられたの」
美月の声が震えていた。怒りなのか、心配なのか。たぶん両方だ。俺は美月から半歩離れて、シャツの裾を下ろした。
「誰にもやられてない。自分でやった——転んで」
「嘘。その傷は人にやられた傷だよ。凜ちゃんがいなくなってから、蓮ずっとおかしい。どこに行ってるの。何してるの。なんで教えてくれないの」
姉の名前が出て、胸の奥が軋んだ。美月は姉のことを覚えている。三人で神社の境内を走り回った夏を覚えている。姉が美月の髪を編んでやっていた放課後を覚えている。
——言えない。
異能の世界のことは、何一つ。美月を巻き込めば、母さんと同じだ。知らないほうがいい世界がある。知ってしまったら戻れない場所がある。
「ごめん」
それだけ言って、俺は階段を降りた。背中に美月の視線が刺さっていた。追いかけてこなかった。追いかけてこないことが、むしろ痛かった。美月なりの怒りの表現だと、わかっていたから。
放課後、施設に戻った。
地下二階の模擬戦場は今日も稼働していた。術式の残滓が空気に混じっている。火薬とオゾンの中間のような匂い。作業着に着替えてモップを手に取ると、通路の向こうから声がした。
「——だから言ってんだよ。あいつまだいんのかって」
鷹野の声だ。聞こえるように話している。
模擬戦場の控室に、同期が四人集まっていた。鷹野を中心に、Cランクの二人とBランクの一人。俺がドアの前に立つと、会話が途切れた。四つの視線が向く。
「灰谷」鷹野が腕を組んだまま言った。「ちょうどいい。直接言うわ」
「昨日聞いた」
「昨日のは俺の個人的な意見だ。今日は違う」
鷹野が控室の壁に貼られた掲示板を示した。今月の任務実績表。各所属者の名前と貢献度が数値で並んでいる。一番下に俺の名前があった。貢献度の欄は空白。数値の記載すらない。
「お前の名前がここにあるだけで、チーム全体の士気が落ちるんだよ。模擬戦のローテにお前が組み込まれるたびに、相手側が舌打ちしてんのわかるか。得るものがねえんだ。お前を殴っても、蹴っても、術式の精度を確認する訓練にすらならねえ」
反論できなかった。事実だから。
「退去勧告が出てんだろ。だったらさっさと手続きしろ。期限まで残ってたって、お前にできることなんか——」
「清掃と資材運搬」
俺は静かに言った。鷹野が眉をひそめる。
「……何?」
「俺にできること。清掃と資材運搬。あとは模擬戦の的。それは自分でわかってる」
「わかってんなら——」
「でも、まだ六日ある」
鷹野の目が細くなった。苛立ちが戻ってくるのが見えた。Cランクの二人が居心地悪そうに目を逸らす。
「六日間は、ここにいる権利がある。施設長が決めた期限だ。お前が決めることじゃない」
言い終えた瞬間、自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。怒りじゃない。覚悟だ。六日間で何ができるかわからない。でも自分から折れたら、本当に終わる。
鷹野は数秒間俺を見つめてから、舌打ちして控室を出ていった。残った三人も無言で後に続く。がらんとした控室に、俺とモップだけが残された。
掲示板の実績表を見上げる。空白の貢献欄。その横に、かつて姉の名前があったはずのリストがある。八年前に抹消された名前。俺がここにいる理由は、その名前の行方を追うためだ。
——あと六日。
モップを握り直して、模擬戦場に向かった。今日も床を拭く。明日も拭く。六日後に追い出されるまで、やれることをやる。それしか、俺には残されていない。
施設の廊下を歩いていたとき、非常階段の扉が少しだけ開いているのが目に入った。普段は施錠されている扉だ。風で開いたのか——いや、この階に外気に通じる窓はない。
扉の隙間から、かすかに声が漏れていた。低い、くぐもった声。聞き覚えのない声だった。
足を止めた瞬間、声が途切れた。扉が音もなく閉まる。
——気のせいだ。
昨夜の屋上でもそうだった。影のようなもの。形を持たない気配。疲れているのだろう。七日の期限と美月の問い詰めと鷹野の言葉で、神経が磨り減っている。
だが足元を見下ろしたとき、非常階段の扉の前の床に、薄い霜のような白い模様が点々と残っていた。四月の、空調が効いた室内に。
俺はその場を離れた。振り返らなかった。
——振り返ってはいけない気がした。