第3話
第3話
七日目の朝は、何の感慨もなく来た。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。五時四十八分。施設の仮眠室の天井はいつも通り灰色で、配管のパイプが影を落としている。昨夜はここに泊まった。家に帰る気力がなかったのと、最後の夜くらいはこの天井を見ておこうという、未練とも呼べない曖昧な感情があった。蛍光灯の常夜モードが薄青い光を落としていて、パイプの影がわずかに揺れているのは、空調が動いているせいだ。二年半のあいだ、この揺れを何百回と見上げてきた。
ベッドから起き上がって、枕元に積んだ段ボール箱を見る。二箱。施設での二年半の所持品は、たったそれだけに収まった。作業着は返却する。私物のペットボトルホルダーと、姉がくれた万年筆と、異能に関する参考書が数冊。それだけの人生だった。
洗面台で顔を洗い、廊下に出た。早朝の施設は静かだ。訓練開始は七時だから、今の時間帯に人はほとんどいない。地下二階の模擬戦場も消灯されている。あの床を、もう拭くことはない。蛍光灯に照らされた廊下のリノリウムが、靴底の下でかすかに軋んだ。清掃当番だった頃の癖で、壁際のスカッフマークに目が行く。もう直す義理もない傷だった。
一階のロビーに段ボールを運び終えたとき、時計は六時半を回っていた。退去手続きの書類は昨日のうちに記入してある。あとは受付に提出して、IDカードを返して、門を出るだけだ。
受付の窓口はまだ開いていない。七時からだ。パイプ椅子に座って、段ボールの横で三十分を潰す。ロビーの壁に施設の行動規範が額縁に入って掛かっている。『異能は社会の盾たるべし』。入所初日に読んで、馬鹿正直に信じた言葉だ。盾になるどころか、モップすら握らせてもらえなくなる。額縁のガラスに自分の顔がぼんやり映っていた。痩せたな、と思った。入所時の写真とはもう別人だろう。
六時五十二分。ロビーの自動ドアが開いて、早出の所属者が数人入ってきた。俺と段ボールを見て、一瞬だけ足が止まる。すぐに目を逸らして通り過ぎていった。噂は回っているのだろう。Eランクがついに出ていく、と。
七時。受付の窓口が開いた。立ち上がって書類を手に取った——その瞬間だった。
足元から突き上げるような振動が走った。
地震じゃない。これは術式の衝撃波だ。施設で二年半過ごせば、通常の揺れと術式由来の揺れの違いくらいはわかる。しかも近い。この建物の中——地下二階、模擬戦場の方向だ。
警報が鳴った。甲高い電子音が天井のスピーカーから叩きつけるように降ってくる。赤い回転灯がロビーの壁を染めた。
『術式暴走発生。地下二階、模擬戦場B区画。全員退避。繰り返す——』
館内放送が割れた声で繰り返す。早出の所属者たちが顔色を変えて出口に向かう。受付の職員が窓口のシャッターを下ろし始めた。
俺は段ボールの横に立ったまま、動けなかった。動けなかったんじゃない。動かなかった。模擬戦場B区画。早朝に使うのは——自主訓練の枠だ。七時前から一人で訓練するような奴。
「桐島」
名前が口から出た。桐島悠真。Cランクの後輩で、入所一年目。炎熱術式の適性が認められて配属された十五歳。まだ出力の制御が安定しない時期だと、指導員が漏らしていたのを聞いたことがある。真面目な奴だ。朝早くから一人で訓練していても不思議じゃない。
足が階段に向かっていた。
退避指示が出ている。IDカードは今日返却する。もう施設の人間じゃない。Eランクの俺が行ったところで何もできない。頭ではわかっている。全部わかっている。
それでも、足が止まらなかった。理由なんて整理できない。義務でも正義感でもない。ただ、あの十五歳が一人で焼かれている絵が頭に浮かんだ瞬間、膝が勝手に前に出ていた。
地下二階への階段を駆け下りる。降りるにつれて空気が変わった。熱い。乾いた熱気が階段の壁を伝って上がってきている。喉の奥がひりつく。模擬戦場の防火扉が開け放たれていて、その奥から橙色の光が揺らめいていた。
防火扉をくぐった瞬間、熱波が顔面を叩いた。
模擬戦場B区画の中心に、炎の柱が立っていた。天井に届くほどの火柱が渦を巻き、床のコンクリートが赤熱して亀裂を走らせている。術式暴走——制御を失った異能が出力の上限なく放出され続ける現象。炎熱術式の暴走は特に危険だ。鎮圧班が来るまで持てばいいが、この出力は——
「桐島ッ!」
炎の渦の中心近く、床に倒れている人影が見えた。桐島悠真。自分の術式に飲まれている。身体の周囲三メートルが灼熱地帯と化していて、近づけば焼ける。本人の耐熱能力で即死はしていないが、暴走が続けば自分の炎で焼け落ちる。意識がないのか、動く気配がなかった。
鎮圧班はまだ来ない。早朝の暴走は対応が遅れる。あと何分持つ。二分か、三分か。桐島の身体を包む炎の色が、橙から白に近づいている。温度が上がっている。
考える前に、走り出していた。
熱い。腕を顔の前にかざして炎の外縁に踏み込んだ瞬間、作業着の袖が焦げた。皮膚が焼ける痛み。足の裏から熱が伝わってくる。靴底が溶け始めている。桐島まであと五メートル。四メートル。息が吸えない。灼熱の空気が肺を焼く。
三メートル。視界が白く飛びかける。腕の皮膚が水膨れになるのが見えた。あと二メートル——届かない。この熱量の中をあと二メートル進んだら、俺の方が先に倒れる。
それでも手を伸ばした。
桐島の肩を掴もうとした指先が、炎の壁に触れた——
その瞬間。
身体の中心で、何かが弾けた。
心臓ではない。もっと奥。骨の髄、あるいは血液そのものの中で、異質な脈動が一つ、生まれた。どくん、と。心臓の拍動とは異なるリズムで、全身を一度だけ波のように駆け抜けた。冷たくも熱くもない。ただ圧倒的に濃い——存在の密度が一瞬だけ跳ね上がったような、そんな感覚だった。
視界が変わった。
炎が——見える。
ただ燃えているだけではなかった。炎の奥に、構造のようなものが透けて見えた。回路図に似た光の線が、桐島の身体から放射状に伸びて炎と繋がっている。術式の骨格だ。桐島の炎熱術式がどういう経路で力を流し、どこで制御を失っているのか——一瞬だけ、はっきりと「読めた」。
理解ではない。言語化もできない。だが身体が知っていた。この炎がどう動くか。どこに隙間があるか。どうすれば——
脈動がもう一度走った。強く。
俺の右手から、何かが溢れ出した。
熱でも冷気でもない。炎の色でも形でもない。だが桐島を包んでいた炎が、俺の右手を起点にして一瞬だけ揺らいだ。暴走の回路が震え、炎の壁に裂け目ができた。その隙に桐島の肩を掴み、引きずるように後方へ飛んだ。
背中から床に叩きつけられる。桐島を庇った姿勢のまま、模擬戦場の壁際まで滑った。後頭部をコンクリートに打ちつけて、星が散る。それでも桐島を離さなかった。
炎の柱はまだ燃えていた。だが中心から桐島がいなくなったことで、暴走の供給源が途切れたらしい。渦が弱まり、天井を舐めていた炎が徐々に低くなっていく。
腕の中で桐島が咳き込んだ。意識が戻りかけている。生きている。
「……せん、ぱい……?」
掠れた声。俺の顔を見上げる桐島の目に、混乱と恐怖が揺れていた。
「動くな。鎮圧班が来る」
自分の声がひどく遠くに聞こえた。全身の感覚が薄い。右手を見ると、指先が微かに震えていた。さっきの脈動の残響が、まだ身体の奥で微かに回っている。
——今の、何だ。
俺は何をした。桐島の術式が「見えた」。炎の構造を「読んだ」。そして右手から何かを出して、暴走の回路を一瞬だけ乱した。
階段の方向から足音が聞こえてきた。鎮圧班がようやく到着する。防火扉の向こうに防護服の影が見える。
俺は桐島を抱えたまま壁にもたれて、天井を見上げた。模擬戦場の蛍光灯が何本か割れていて、明滅を繰り返している。焦げた空気の中に、オゾンとは違う——もっと生々しい、血液に似た匂いが混じっていた。自分の身体から出ている匂いだと気づいて、火傷した腕を見た。皮膚が赤く爛れて水膨れが連なっている。痛みはまだ来ない。来るのはこれからだ。
右手の震えが止まらなかった。恐怖じゃない。あの脈動の残滓だ。身体の奥に灯った何かが、まだ消えていない。十六年間、一度も脈を打たなかったものが——今、確かに動いた。
鎮圧班が模擬戦場に突入してくる音を聞きながら、俺は自分の右手を握りしめた。
——これが、覚醒なのか。
わからない。だが一つだけ確かなことがある。ロビーに置いてきた段ボール箱二つ分の荷物。あの退去届を、今日は出せなくなった。