第1話
第1話
床に叩きつけられた衝撃で、一瞬だけ視界が白く飛んだ。
背中から肺の空気が全部抜ける。天井の蛍光灯がぼやけて見えて、それからゆっくりと鷹野悠斗の顔が視界に割り込んできた。見下ろす目に、もう怒りすらない。あるのは退屈だけだ。
「……立てよ、灰谷」
模擬戦場の硬い床が、汗で湿った背中に冷たく張りつく。俺は左手で口元を拭った。鉄の味がした。唇の内側が切れている。舌先で傷口をなぞると、じんと痛みが広がった。三回目の投げだったか、四回目だったか——途中から数えるのをやめた。
鷹野の右手に淡い電光が走る。雷撃術式。Bランク認定を受けた同期の中でも上位に入る出力だ。十二歳で覚醒し、十四歳で実戦配備。絵に描いたようなエリートコース。俺たちは同じ年に施設に入った。それだけが共通点で、今はもう何もかもが違う。
「もういい。終わりだ」
審判役の指導員が片手を上げた。ストップウォッチを見もしない。計測する意味がないからだ。模擬戦の相手——というより的だ。Eランク判定の俺が模擬戦に組み込まれる理由は一つしかない。正規の異能者たちが術式を試すための動く標的。
起き上がって一礼する。膝が笑っていた。太ももの筋肉が細かく痙攣している。鷹野はもう背を向けていた。次の対戦相手と軽く拳を合わせている。そちらの模擬戦のほうが、よほど実りがあるだろう。
ベンチに座って水を飲む。ペットボトルの水がぬるい。今朝の訓練開始前に自販機で買ったものだ。口に含むと、鉄の味と混じってひどい味になった。異能者養成施設の地下二階、模擬戦場。コンクリートの壁に囲まれた薄暗い空間に、術式の残滓がかすかに漂っている。鷹野の雷撃の名残だろう、空気にオゾンの匂いが混じっていた。
——姉さんなら、こんな場所でも笑っていたんだろうか。
灰谷凜。俺の六つ上の姉。施設に入る前から異能の才覚を見せていた人で、覚醒は十一歳、当時の最年少記録だったと聞いている。
八年前の四月、都内で発生した大規模異能災害。公式記録では死者十七名、行方不明者三名。姉はその行方不明者の一人だった。
母さんは「事故で行方不明」としか知らない。異能の世界のことは何も。俺が施設に通っていることも、毎日ここで殴られていることも。家に帰れば普通の高校生で、部活が忙しいことにしてある。二重生活だ。そしてその片方は、もう限界に近い。
それでも俺がこの場所にしがみつくのは、姉の手がかりがここにしかないからだ。異能局のデータベース、過去の災害記録、覚醒者の追跡情報。一般人がアクセスできるものじゃない。Eランクだろうが施設に所属していれば、少なくとも末端の情報には触れられる。
「灰谷、モップ」
指導員が親指で模擬戦場の床を示した。鷹野との模擬戦で床面が焦げている。雷撃術式の副産物だ。黒く焼け焦げた跡が放射状に広がって、つい数分前まで俺が立っていた場所を正確に示していた。
「はい」
立ち上がって、用具室からモップと洗剤を取ってくる。用具室のドアを開けると、洗剤と埃が混じった匂いが鼻を突いた。ここの配置はもう体が覚えている。何百回と繰り返した動作だ。模擬戦の合間に床を拭く。それが俺の「任務」だ。C判定の後輩たちが横を通り過ぎるとき、目を逸らすのが見えた。同情か、軽蔑か。どちらにしても慣れた。
モップを動かしながら、焦げ跡を眺める。鷹野の術式は精密だ。出力も申し分ない。あの電光が俺の身体を掠めるたびに、筋肉が痙攣して動けなくなる。対抗手段は——ない。術式を持たない人間に、術式への対抗手段など存在しない。
「灰谷くん」
名前を呼ばれて顔を上げると、受付担当の津久井さんが模擬戦場の入口に立っていた。四十代の事務職員で、施設内では数少ない、俺に敬称をつけて話す人だ。
「施設長がお呼びです。執務室に来てください」
「……今からですか」
「ええ、今すぐ」
津久井さんの表情が硬い。普段の柔らかい笑顔がない。俺は嫌な予感を覚えながらモップを置いた。
施設長室は地上三階にある。エレベーターの中で、作業着についた汗と洗剤の匂いが気になった。ボタンを押す指先が、さっきの模擬戦でまだ微かに震えている。
ノックして入ると、施設長の大河内は執務机の向こうに座っていた。銀縁の眼鏡越しの目が、書類に落ちている。
「座りなさい」
促されてパイプ椅子に腰を下ろす。冷たい金属のフレームが、打撲で熱を持った太ももに触れて、小さく息を呑んだ。施設長室に呼ばれるのは三度目だ。一度目は入所時の面談、二度目はEランク判定の通告。どちらも良い記憶じゃない。
「灰谷蓮。現在十六歳、異能ランクE判定。覚醒——未確認」
大河内が書類を読み上げるように言った。事実の羅列。反論できる要素は一つもない。
「君も知っての通り、当施設は異能局の管轄下にある。限られた予算と人員で運営されている以上、成果の見込めない所属者を無期限に抱えることはできない」
「……はい」
「率直に言う」
大河内が封筒を差し出した。白い事務封筒。異能局の紋章が角に印刷されている。
「退去勧告だ。期限は七日後」
指が封筒に触れた瞬間、紙の質感がやけに鮮明だった。薄くて、安い。こんな紙切れ一枚で、八年間の居場所が消える。
「……覚醒の可能性は、まだ」
「灰谷くん」
大河内の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。それが一番きつかった。同情の声だ。事務的に切り捨てられるほうがまだ楽だった。同情は、もう手遅れだと知っている人間の声だから。
「通常の覚醒期は十二歳前後。十六歳まで未覚醒という事例は、過去の記録にほとんどない。局の判断としては——」
「待ってください」
気づけば立ち上がっていた。パイプ椅子が後ろに滑る音がした。
「俺がここにいる理由は、わかってるはずです。姉の——灰谷凜の情報が」
「それは異能局の調査案件であって、君個人の案件ではない」
遮られた。大河内の目に、もう温度はなかった。管理者の目だ。
「七日後までに私物を整理し、退去手続きを完了させなさい。以上だ」
封筒を握りしめて施設長室を出た。廊下の蛍光灯が白すぎて目が痛い。七日。あと七日で、姉に繋がる唯一の糸が切れる。
通路の角を曲がったところで、鷹野と鉢合わせた。腕を組んで壁に寄りかかっている。待ち構えていたように見えた。
「退去勧告、出ただろ」
俺は答えなかった。鷹野は壁から背を離し、一歩近づいた。
「前から言ってる。お前がいると士気が下がるんだよ。Eランクが模擬戦場にいるだけで、後輩が変に気を遣う。お前のせいで空気が歪む」
「……そうかもな」
「自分からさっさと出てけ。期限まで粘んなよ、みっともない」
鷹野が横を通り過ぎていく。肩がぶつかった。わざとだ。だが、痛みは感じなかった。模擬戦で散々殴られた後だと、この程度は何でもない。
——みっともないのは、わかってる。
施設の屋上に出た。四月の夜風が冷たい。汗が冷えた肌に風が当たって、全身が粟立った。都心のビル群が遠くに光っている。あの光の下に、普通の生活がある。母さんがいて、学校があって、姉のことを知らない日常がある。そっちに戻れば楽だろう。
でも、戻ったら終わりだ。
姉さんは八年前、この世界のどこかに消えた。異能災害の混乱の中で、誰にも見つけられないまま。公式には「推定死亡」の処理が進んでいる。あと数年で完全に記録が閉じられる。
七日間。
俺に残された時間は、たったそれだけだ。
フェンス越しに夜空を見上げた。星は見えない。都会の空はいつだって曇っている。封筒の角が掌に食い込んでいた。握りしめていたことに、今さら気づく。指を開くと、白い封筒に赤い線がついていた。掌の皮膚が切れたのか、模擬戦の傷が開いたのか。どちらでもいい。痛みの出どころなんて、もうわからない。
——まだ、終わってない。
終わらせるのは、俺じゃない。
屋上の扉が軋む音がして振り返ると、誰もいなかった。風のせいだろう。だが一瞬、視界の端に何かが動いた気がした。影のようなもの。形を持たないのに、確かにそこに「在った」残像。
気のせいだ、と俺は思った。
——今は、そう思うことにした。