第2話
第2話
鉄鎧蜥蜴の突進は、地震のようだった。
四メートルの巨体が石畳を砕きながら直進する。ユウトは右に跳んだ。跳んだというより、身体が勝手に動いた。三度の敗北が叩き込んだ反射だ。風圧が左頬を叩き、獣の体臭が鼻の奥にへばりつく。鉄鱗が石壁を抉り、破片が霧のように舞った。
着地と同時に踏み込む。狙うのは左脇腹——鱗と鱗の隙間が最も広い場所。三度目の挑戦で見つけた、唯一の突破口だ。
刃が鱗に触れた瞬間、手首から肩まで衝撃が突き抜けた。刃こぼれの剣では、隙間に刺さっても奥まで届かない。鱗を二枚削いだだけで弾かれる。浅い。致命傷には程遠い。
鉄鎧蜥蜴が咆哮と共に身を捻った。尾が横薙ぎに振られる。ユウトは剣を盾代わりに構えて受けたが、衝撃を殺しきれず三メートル後方まで滑った。両足で踏ん張る。靴底が石畳を削り、焦げたような匂いがした。腕の痺れが肘から先の感覚を奪っている。
「——硬いな、相変わらず」
独り言は自分を落ち着かせるためのものだ。心臓が暴れている。三度の敗北の記憶が、恐怖ではなく情報として脳内を駆け巡る。一度目は尾。二度目は頭突き。三度目は爪。攻撃パターンは把握している。問題は、把握した上でなお対処しきれない圧倒的な出力差だった。
鉄鎧蜥蜴が低く唸り、前脚で地面を掻いた。次が来る。突進ではない。前脚を畳み、頭を下げている——頭突きの構えだ。二度目の挑戦で背中から壁に叩きつけられた、あの技。
来た。
石畳が爆ぜるような踏み込みから、鉄の頭蓋が真正面に迫る。ユウトは左に身体を捌きながら、剣を横に払った。頭部の鱗を狙ったのではない。目だ。視界を塞げば、次の一瞬で脇腹にもう一度——。
刃先が右目の縁を掠めた。鉄鎧蜥蜴が初めて怯んだ動きを見せる。頭を振り、短い悲鳴のような声を上げた。今だ。左脇腹に全体重を乗せた刺突を叩き込む。
鱗の隙間に刃が潜り込んだ。今度は深い。肉を裂く感触が柄を伝って掌に届く。黒い血が刃を伝い、石畳に滴った。
だが——浅い。
まだ浅い。鉄鎧蜥蜴の筋肉は分厚く、刃こぼれの剣では致命的な深度に達しない。剣を引き抜こうとした瞬間、嫌な音がした。金属が悲鳴を上げるような、甲高い軋み。
刀身に亀裂が走っていた。
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三度目までの挑戦と決定的に違ったのは、そこからだった。
鉄鎧蜥蜴は痛みに逆上していた。これまでの戦闘では見せなかった連続攻撃が始まる。尾の薙ぎ払い、前脚の叩きつけ、顎による噛みつき。それぞれの間隔が短い。一撃を避けるたびに次が来る。回避に専念するしかなく、反撃の隙が生まれない。
腰のポーチから回復薬を一本引き抜き、歯で栓を噛み千切った。苦い液体を喉に流し込む。痺れていた右腕の感覚が戻り、視界の端に散っていた火花が消える。残り一本。転移石も一つ。使えば生きて帰れる。だが——。
亀裂の入った剣で、もう一度脇腹を狙う。今度は浅くしか入らなかった。抜いた刃を見て、ユウトの顔が強張る。亀裂が広がっていた。あと二度、強い衝撃を与えれば折れる。感覚でそれが分かった。
鉄鎧蜥蜴が尾を振り上げる。今度は叩きつけだ。ユウトは後方に跳んだが、着地した右足が苔で滑った。体勢が崩れる。その一瞬を、獣は見逃さなかった。
前脚が胸を打った。
肋骨が軋む鈍い音と、肺から空気が押し出される感覚。身体が浮いた。天井の魔石灯が一瞬だけ視界を横切り、次の瞬間、背中が壁に叩きつけられた。
衝撃で意識が明滅する。口の中に鉄の味が広がった。背中の激痛に混じって、別の感覚がある。壁面に押し付けられた背中が——何かに触れている。石壁の感触とは異なる、細い溝のような凹凸。規則的な、人工の形状。
紋様だった。
壁面に深く刻まれた、幾何学的な紋様。目で見たのではない。背中が、肌が、それを読み取った。
次の瞬間、身体の中を電流が貫いた。
痛みとも快感ともつかない衝撃が、背骨を伝って脳天まで駆け上がる。視界が白く焼き切れた。音が消えた。鉄鎧蜥蜴の咆哮も、自分の心臓の音も、壁から落ちる砂礫の音も——すべてが遠い水底に沈んでいくように消失した。
白い空白の中で、一つだけ感覚が残っていた。
右手の甲が、灼けるように熱い。
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意識が戻ったとき、最初に感じたのは静寂だった。
空洞を満たしていた獣の息遣いが、ない。地面を揺らす足音も、鱗が軋む金属音も。ただ、魔石灯の青白い光だけが、いつもと変わらず空間を照らしている。
ユウトは壁にもたれたまま、目を開けた。
鉄鎧蜥蜴が、そこにいた。
ただし——動いていなかった。
四メートルの巨体が、前脚を振り上げた姿勢のまま完全に静止している。鉄の鱗は灰白色に変色し、表面に無数の亀裂が走っていた。石だ。あの鉄鎧が、鱗の一枚一枚まで石に変わっている。ユウトが壁に叩きつけられた直後に振り下ろされるはずだった前脚は、宙に固まったまま二度と下りることはない。
ぴしり、と音がした。石化した尾の先端から亀裂が広がり、破片が床に落ちる。連鎖するように胴体、前脚、頭部へと崩壊が走った。四メートルの巨体が、砂の城のように崩れていく。灰白色の粉塵が舞い上がり、魔石灯の光の中をゆっくりと降っていった。
鉄鎧蜥蜴は——もういない。
瓦礫の中心に、拳大の魔石が一つ、青白く光っている。ボス素材だ。討伐の証。だがユウトの目はそこに向いていなかった。
右手の甲を見つめていた。
紋章が浮かんでいた。壁面に刻まれていた幾何学紋様の一部が、焼印のように皮膚に刻まれている。痛みはない。熱もない。ただ、そこに在る。黒い線が複雑に絡み合い、見たことのない文字のような形を構成していた。指で触れると、微かに脈動する感触がある。自分の脈拍と同期している。
「何だ、これは……」
声が掠れていた。身体中が軋んでいる。肋骨は折れてはいないが罅が入っているかもしれない。背中の打撲は広範囲で、立ち上がるだけで視界が揺れた。最後の回復薬を飲み干す。苦い液体が喉を焼き、少しだけ痛みが引いた。
壁に手をついて身体を起こし、背中が押し付けられていた場所を振り返る。紋様は広範囲に刻まれていた。直径二メートルほどの円形に配置された幾何学模様。その中心部分が——ユウトの背中が触れていた箇所が——淡く光っている。
光は脈動していた。紋章と同じリズムで。
ユウトが一歩離れると、紋様の光が強くなった。同時に、右手の甲の紋章が熱を持つ。壁面の紋様と手の紋章が呼応している。光が脈動するたびに、壁の一部が振動し始めた。石の粒子が震え、細かい砂塵が舞う。
音が変わった。空洞に満ちていた静寂が、低い振動音に置き換わる。壁が——壁そのものが動いている。
紋様を中心に、壁面が溶けるように消失していった。石が蒸発するように薄くなり、透明になり、そして消える。その向こうに、暗い空間が口を開けていた。
ユウトは息を呑んだ。
通路だった。幅は二メートルほど、高さは三メートル。壁面の材質が、第12層のそれとは明らかに違う。表の階層は荒削りの自然石だが、この通路の壁は滑らかに研磨されていた。人の手が——あるいは、人ではない何かの意思が——整えた痕跡。空気も違う。第12層の湿った冷気ではなく、乾いた、古い書庫のような匂いがする。埃と、長い時間の堆積した匂い。
ギルドが公開している東京迷宮の地図には、この通路は存在しない。第12層の構造は五年前に完全踏破が宣言されている。隠し部屋の類いは全て発見済みとされている。にもかかわらず、今、目の前に在る。
右手の紋章が脈動する。通路の奥を指し示すように、光が僅かに強くなった。
ユウトは亀裂の走った剣を鞘に戻し、足元の魔石を拾い上げてポーチに入れた。通路の入口に立ち、奥を覗き込む。魔石灯はない。闇が、どこまでも深く続いている。右手の紋章だけが、微かな光源として暗闇の縁を照らしていた。
地図にない道。知らない空気。姉が消えた第27層まで、まだ15層ある。だがこの通路の先に何があるのか——身体が知りたがっていた。紋章が、まるで先を急かすように脈打っている。
折れかけた剣と空になったポーチ。Eランクの装備で踏み込むには、あまりに未知の空間だった。
それでもユウトの足は、闇の中へ一歩を踏み出していた。