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層食のE級ハンター

第1話 第1話

第1話

第1話

五年だ。

ギルドカードに刻まれた「E」の文字は、登録初日から一度も変わっていない。佐伯ユウトは受付カウンターに並びながら、胸ポケットのカードの角を指先でなぞった。角は丸く擦り減っている。五年分の摩耗。ランクだけが、止まったままだった。

「——佐伯さん、第12層の単独探索申請ですね」

受付嬢の声には抑揚がない。かつては「お気をつけて」の一言くらいあったが、それも二年目あたりで消えた。毎日のように同じ階層に潜り、毎日のように安い素材を持ち帰る。受付にとって、ユウトの申請処理はコンビニのレジ打ちと変わらないのだろう。

「はい。今日も単独で」

カードを差し出す。受付嬢は端末にかざし、ピ、と短い電子音。承認。形式的なやり取りが三秒で終わる。

背後のロビーで、聞き覚えのある笑い声が響いた。

「——マジで? 第22層のレアドロップ?」

「おう。パーティ全員でBランク昇格だ、来月には」

振り返らなくても分かる。同期の坂巻だ。登録は同じ年。今はCランク、来月にはBに届く。坂巻だけじゃない。同期で未だにEランクなのは、ユウトだけだった。

視線を感じる。ロビーのソファに座る若い連中が、こちらを見て何か囁いている。「万年E」——いつからかそう呼ばれるようになった。最初は腹も立ったが、今はもう波の立たない水面のようなものだ。事実だから仕方がない。才能がない。固有スキルもない。パーティに入れてもらえた時期もあったが、第9層のボス戦で足を引っ張り、戦力外通告を受けた。あれが三年前。以来、ずっとソロだ。

ギルドの正面扉を押し開けると、四月の陽光が目を刺した。東京迷宮の入口ゲートは、ギルド本部から徒歩七分。ユウトは腰の剣の柄に手を添え、人混みの中を歩き出した。刃こぼれした片手剣。修繕に出す金すら惜しい。今日のボス討伐で報酬が出れば、ようやく研ぎに出せる。出なければ——まあ、いつものことだ。

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東京迷宮の入口は、新宿副都心の地下三階にある。

十五年前、世界各地に同時出現したダンジョン群。東京迷宮はその中でも中規模とされ、公式に確認された階層は第30層まで。上層はEランクでも潜れるが、深くなるほど危険度は跳ね上がる。第12層はEランクの限界域——それ以深は、最低でもDランクパーティが推奨される。

ゲートをくぐると、空気が変わった。地上の排気ガスと喧騒が嘘のように消え、湿った石の匂いが鼻腔を満たす。松明の代わりに、壁面に埋め込まれた魔石灯が青白い光を投げかけていた。足元の石畳は苔で滑りやすく、遠くで水が滴る音が一定の間隔で響いている。

ユウトは無言で歩を進めた。上層はほぼ暗記している。罠の位置、モンスターの湧きパターン、壁の亀裂から吹く風の方向。五年間、飽きもせず同じ場所に通い続けた男の身体が、迷宮の呼吸を覚えていた。

第4層で蝙蝠型のモンスターを三体処理する。剣の切れ味が悪く、二振り余計にかかった。三体目を斬り伏せたとき、手首から肘にかけて鈍い痺れが走った。衝撃を吸収しきれていない。刃こぼれした剣は、斬るというより叩きつける形になるから、腕への負担が倍増する。右手を握り、開き、また握る。まだ動く。先は長い。第7層の分岐路を左に折れ、狭い通路を抜ける。壁際に干からびた冒険者の装備品が転がっていた。革鎧の胸当てと、折れた槍の柄。金属部分は錆びて原形を留めていない。誰かの成れの果てだ。ユウトは足を止めず、通り過ぎた。

第10層の安全地帯で小休止を取る。背嚢から水筒と携帯食を出し、壁に背を預けた。固い干し肉を噛みちぎり、水で流し込む。味はほとんどしない。安物の携帯食はどれも同じだ。栄養だけは摂れる。それで十分だった。青白い魔石灯の光の中で、胸ポケットから古びた写真を取り出す。

姉の写真だ。

佐伯マヒロ。ユウトより三つ年上。ハンター登録はユウトより二年早く、才能にも恵まれていた。Cランクまで順調に昇格し、中層攻略の最前線で活躍していた——二年前、突然消息を絶つまでは。

最後の通信記録に残された座標。東京迷宮・第27層。Eランクはおろか、Bランクパーティでも慎重を要する深層だ。ギルドは捜索隊を出したが、第27層付近で痕跡は途絶え、半年後に「殉職認定」が下りた。

ユウトは認めていない。

姉は死んでいない。根拠はない。あるのは直感だけだ。だが、最後の通信——途切れる直前の姉の声には、恐怖ではなく、驚愕があった。何かを見つけた人間の声だった。

写真の中の姉は笑っている。Cランクに昇格した日の記念写真。ギルド本部の前で、真新しいギルドカードを掲げて。あの頃ユウトはまだEランクに登録したばかりで、姉の背中はどこまでも遠く、同時にどこまでも眩しかった。

写真をポケットに戻す。水筒の蓋を閉め、立ち上がる。膝が軋んだ。冷えた石の床に座っていた脚に、血が巡り直すのが分かる。

第27層まで、あと15層。Eランクの身では果てしなく遠い。それでも、一層ずつ這い上がるしかない。今日の第12層ボス討伐は、そのための一歩だ。たとえ何百回目の一歩でも。

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第12層。空気の温度が二度下がり、魔石灯の間隔が広くなる。影が濃くなり、通路の先が闇に溶ける。ここから先は上層とは質が違う。モンスターの動きが速く、知能も高い。Eランクソロでの探索は、ギルドの推奨事項から明確に外れている。

ボス部屋は第12層の最奥にある。巨大な石扉の前に立つと、内側から地鳴りのような振動が伝わってきた。鉄鎧蜥蜴——アイアンリザードが中で待っている。体長四メートル超の大型爬虫類モンスター。全身を鉄のような鱗で覆い、尾の一撃で石壁を粉砕する。Eランクソロでの討伐成功例は、公式記録にはない。

ユウトはこの一ヶ月で三度挑み、三度敗退していた。

一度目は尾の薙ぎ払いで左腕を折られた。骨が砕ける音を、自分の体の内側から聞いた。二度目は鱗を貫けず剣が弾かれ、頭突きで吹き飛ばされた。背中が壁に叩きつけられ、一瞬視界が白く飛んだ。三度目は脇腹の隙間を狙ったが、反撃の爪に太腿を裂かれて撤退した。止血が間に合わなければ、あの傷だけで終わっていた。いずれも転移石での緊急離脱。命があるのは運が良かっただけだ。

腰のポーチを確認する。回復薬が二本。転移石が一つ。予備の短剣が一振り。それが全財産だった。装備も消耗品も、Eランクの日銭では満足に揃えられない。坂巻たちが最新の魔導具を揃えているのとは、文字通り別世界だ。

剣を抜く。刃こぼれが三箇所。切れ味は新品の半分以下。こんな剣で鉄の鱗を相手にするのは無謀だと、自分でも分かっている。

分かっていて、なお踏み出す。

姉に届くまで、立ち止まる選択肢はない。

石扉に手をかけた。冷たい石の感触が掌に伝わる。指先の体温が石に吸い取られていくような冷たさだった。深く息を吸い、吐く。湿った空気の中に、微かに錆びた鉄の匂いが混じっていた。扉の向こうの、あの獣の匂いだ。心臓が速まるのを感じる。恐怖ではない。三度負けた相手に四度目を挑む人間の、研ぎ澄まされた緊張だった。

左腕が疼いた。一度目の挑戦で折られた骨は繋がったが、無理をすると今でも鈍い痛みが戻る。右太腿の傷痕も引き攣れていた。この身体には、三度の敗北の記憶が刻まれている。それでも足は前を向いていた。

ユウトは扉を押し開けた。

石と石が擦れる重い音が、第12層の沈黙を裂く。暗い空洞の奥で、二つの黄色い目が光った。瞳孔が縦に細く裂け、冷たい知性を湛えている。地面を揺らす足音。鉄鎧蜥蜴が、ゆっくりと首をもたげる。鱗が擦れ合い、金属同士がぶつかるような軋みが空洞に反響した。

刃こぼれの剣を正眼に構える。四度目。

「——今日こそだ」

呟きは、誰に向けたものでもなかった。

鉄鎧蜥蜴が咆哮した。空洞全体が震え、壁面から砂礫が落ちる。熱い息が風となってユウトの前髪を揺らし、獣の臭気が鼻腔を焼いた。四メートルの巨体が、想像を裏切る速度で地を蹴った。

ユウトは迎え撃つように、一歩を踏み出した。

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