第3話
第3話
闇は、音を吸った。
足を踏み入れた瞬間、背後で壁が元に戻る気配があった。振り返ると、通路の入口は既に石壁に閉じている。戻れないのか——一瞬そう思ったが、右手の紋章が微かに脈動したとき、壁面の紋様が淡く浮かび上がるのが見えた。おそらく、紋章を押し当てれば再び開く。退路は確保されている。
息を吐き、前を向いた。
通路は真っ直ぐに伸びていた。右手の紋章が放つ光は蝋燭一本分にも満たないが、壁面が滑らかに研磨されているせいで、僅かな光でも反射して空間の輪郭を浮かび上がらせる。床には埃が積もっている。厚さは五ミリほど。長い年月、誰の足も踏み入れていない証拠だ。自分の足跡が一歩ごとに刻まれていくのを、ユウトは妙な緊張感と共に見つめた。
表の階層とは何もかもが違う。
まず壁の材質。第12層までは自然石——荒削りの岩肌に苔や鍾乳石がこびりつき、水脈が毛細血管のように走っていた。だがこの通路の壁は、均質で継ぎ目がない。指先で触れると、陶器のような滑らかさの中に微かな温もりがあった。石ではない。金属でもない。人工物とも自然物とも判別がつかない、見たことのない素材だ。
空気も異なる。表の階層は湿度が高く、深くなるほど水と苔の匂いが強くなる。ここにはそのどちらもない。乾いているが、埃っぽくはない。古い図書館の閉架書庫に似た、時間そのものが堆積したような匂い。そして温度。第12層では吐く息が白く曇ったが、この通路では呼吸が目に見えない。外気とは完全に隔絶された空間だった。
二十メートルほど進んだところで、通路が緩やかに下り始めた。傾斜は僅かだが、足裏の感覚で分かる。深度が下がっている。第12層のさらに下——第13層相当の深さに向かっているのか。だがギルドの地図では、第12層と第13層をつなぐルートはボス部屋を経由する正規の階段のみだ。この通路は、その構造を完全に無視している。
足音が変わった。埃を踏む乾いた音に、微かな反響が加わる。空間が広がっている気配。紋章の光が届く範囲では壁しか見えなかったが、天井の高さが少しずつ上がっているのが影の動きで分かった。
そしてユウトは、壁面の変化に気づいた。
文字だ。
滑らかだった壁面に、細い線で文字のようなものが刻まれている。日本語ではない。英語でもない。ダンジョン内で稀に発見される「迷宮古代文字」にも見えるが、それとも異なる。右手の紋章に反応するように、文字の刻み目が仄かに光を帯びていた。読めない。だが、規則性がある。同じ記号が一定の間隔で繰り返されている箇所がある。これは文章だ。何かを伝えようとしている。
紋章が一際強く脈動した。ユウトは足を止めた。
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通路が開けた。
突然、壁が左右に消え、天井が跳ね上がった。紋章の光では全容を捉えきれない広さの空間が、闇の中に口を開けていた。足元の埃が消え、代わりに別の感触がある。柔らかい。湿っている。
苔だ。
床一面を濃い緑の苔が覆っていた。乾いた通路から一転、ここだけ湿度が異なる。天井のどこかから水が滴っているらしく、規則的な水音が空間に木霊していた。苔の匂いが鼻腔を満たす。表の階層で嗅ぎ慣れたそれとは微妙に違う。もっと深い、土の底から湧き上がるような原初的な緑の匂い。
紋章の光を頼りに、ユウトは慎重に足を進めた。苔は厚く、踏むと靴底が沈む。水を含んだ苔が体重で潰れるたび、じゅくりと湿った音が足裏から伝わってくる。ところどころに石柱が立っていた。通路の壁と同じ素材で、やはり継ぎ目がない。柱の表面にも文字が刻まれ、紋章の光に反応して淡く明滅している。
広間の中央に、何かがあった。
最初は岩だと思った。苔に覆われた、膝丈ほどの塊。だが近づくにつれ、輪郭が人工物のそれだと分かった。直線と角がある。苔を指先で払うと、金属の感触が現れた。冷たく、滑らかで、僅かに曲面を持つ筐体。表面の一部にスリットのような溝が走り、その奥に暗い画面のようなものが見えた。
ユウトの手が止まった。
通信端末だ。
ダンジョン内で使われる携帯型通信機。ギルドが冒険者に支給するものではない。上位ランクの冒険者が私費で購入する、高耐久の深層探索用モデル。型番までは読み取れないが、形状には見覚えがあった。厳密に言えば——見覚えがあるのは形状ではなく、筐体の角に巻かれた赤いテープだった。
姉の癖だ。
佐伯マヒロは装備品の角という角に赤いテープを巻く人間だった。暗所で自分の持ち物を手探りで識別するため、と本人は言っていたが、実際にはただの癖だった。赤が好きだったのだ。ギルドカードのストラップも、剣の柄に巻いた革紐も、全部赤。
苔をさらに払う。指が震えていた。爪の間に湿った苔の繊維が入り込み、冷たい土の感触がこびりつく。構わず払い続けた。筐体の側面に、マーカーで書かれた文字が現れた。苔の湿気で滲んではいるが、読める。
「M.S.」
マヒロ・サエキ。姉のイニシャル。
膝から力が抜けそうになった。ここは第12層の裏側——ギルドの地図に存在しない空間だ。姉が消えたのは第27層。それなのに、姉の端末がこんな場所にある。なぜ。いつ。どういう経路で。
端末を苔から掘り出す。裏面も確認する。充電端子の横に、やはり赤いテープ。間違いない。姉のものだ。画面は暗く、電源が入っている気配はない。長期間放置された電子機器は、魔石バッテリーであっても自然放電で死んでいるのが普通だ。
だが、右手の紋章が脈動した瞬間、端末が反応した。
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微かな振動が掌に伝わった。
端末の画面に、一本の細い光の線が走る。横一文字に。ユウトは端末を両手で包むように持ち、息を止めた。光の線が上下に揺れ、波形を描いた。音声データの波形だ。画面の隅に小さなインジケーターが点灯する。バッテリー残量は数パーセント——しかし、紋章の脈動に同期するように、残量表示がじわりと上昇していた。紋章が端末に給電している。
画面にテキストが表示された。
『音声ログ:未送信 3件』
日付は二年前。姉が失踪する直前の日付だった。
ユウトの指先が画面の上で止まった。再生ボタンに触れるだけでいい。だが指が動かない。二年間探し続けた姉の痕跡が、今、掌の中にある。端末を起動した瞬間にバッテリーが尽きるかもしれない。音声ログが破損しているかもしれない。あるいは——聞きたくない内容かもしれない。
水滴が苔に落ちる音だけが、広間に響いていた。
ユウトは再生ボタンに触れた。
一瞬の沈黙のあと、ノイズが走った。ザ、ザザ、と砂嵐のような音。その奥から、声が浮かび上がる。
聞き間違えるはずがなかった。
何千回と聞いた声だ。朝、寝坊したユウトを叩き起こす声。夕食の献立を叫ぶ声。Cランクに上がったとき、電話口で泣きながら笑った声。
姉の声だった。
『——ユウト。これが届いているなら、あんたは層食に覚醒したってことだ』
心臓が跳ねた。層食。姉がその名を知っている。紋章のことを、この能力のことを、姉は知っていた。声の調子は落ち着いていた。焦りも恐怖もない。まるでいつかこうなると分かっていたかのような、覚悟の据わった声だった。それが余計にユウトの胸を締めつけた。何を知っていた。いつから知っていた。なぜ——何も言わなかった。
ノイズが一瞬強くなり、音声が途切れかけた。端末のバッテリー表示が明滅する。紋章が強く脈動し、給電を維持した。音声が戻る。
『全部話す時間はないから、一番大事なことだけ言う。——あんたが知ってるダンジョンの地図は嘘だ。表の階層は』
音声がぷつりと切れた。
一件目のログが終了したのか、バッテリーの限界か。画面を見ると、一件目の再生が完了し、二件目と三件目が未再生のまま残っている。バッテリー残量は再び数パーセントまで落ちていた。紋章の給電にも限界がある。
ユウトは端末を握りしめたまま、苔の床に膝をついていた。湿った苔の冷たさが膝頭から染み込んでくる。握った端末の角——赤いテープの感触が、掌にくっきりと食い込んでいた。
姉は生きていた。少なくとも、この音声を録った時点では。層食を知っていた。ユウトが覚醒することを、予見していた。そして——ダンジョンの地図は嘘だ、と言った。
残り二件のログに、その続きがある。
紋章が微かに光っている。端末の画面も、まだ消えてはいない。二件目のログのタイトルが表示されていた。
『002:表の階層は——』
その先の文字は、画面の明滅に呑まれて読み取れなかった。