第2話
第2話「脅威判定ゼロのネオン」
歌舞伎町の夜は、地下施設とは別の意味で白かった。
ネオンの光が路面に反射し、濡れたアスファルトが蛍光色に染まっている。ピンク、青、黄、赤——色の洪水が視界を侵食する。俺の目はそれを脅威判定のフィルターにかけ、即座に切り捨てた。装飾照明。脅威度ゼロ。だが、処理しきれない情報量が網膜を灼く感覚は、訓練室にはなかったものだ。
午後十一時十七分。目標地点まで残り八十メートル。
客引きの声を避けながら雑踏を縫う。偽装用のパーカーのフードを深く被り、年齢を曖昧にしている。身長は百六十八センチ。体格的には高校生でも通る。この街では深夜に未成年が歩いていても、誰も気に留めない。都合がいい。
目標の雑居ビルは大通りから二本入った路地の突き当たりにあった。看板のないビル。外壁のコンクリートが黒ずみ、非常階段の手すりは錆で赤茶けている。一階はシャッターが下りた元・飲食店。二階以上は無人。篠崎のブリーフィング通り、このビルの機能は地下にしかない。
裏手に回り、搬入口のロックを確認する。電子錠。四桁。事前に渡された解除コードを入力すると、小さな電子音とともにロックが外れた。重い鉄扉を引き開ける。階段の奥から、地下特有の湿った空気が這い上がってくる。消毒液ではなく、煙草と酒と汗が混ざった、有機的な臭気。施設の地下とは全く違う匂いだった。
地下一階への階段を降りる。足音を殺す。コンクリートの壁に手を添え、指先で振動を読む。この先——十二メートル。三人。心拍数と体温から推定して、武装した見張り。異能反応はない。
定型だ。
階段を降りきった瞬間、見張りの一人と目が合った。痩せた男。手にはサブマシンガンのレプリカ——いや、改造実弾モデルだ。男の目が驚きで見開かれ、口が開く。声を出す前に終わらせる。
右手を突き出した。プレクサスの射程は訓練で十五メートルまで伸ばしてある。今の距離は八メートル。余裕だ。
指先から放たれた干渉波が男の中枢神経を叩いた。人体の神経系は電気信号で動いている。俺のプレクサスはその信号に外部から干渉する——同じ周波数帯の波をぶつけ、神経伝達を一時的に遮断する。原理は単純だ。効果も単純。男は声を出す前に膝から崩れ、床に倒れた。意識喪失。命に別条はない。
残り二人が反応した。一人が銃を構え、一人が奥へ走る。増援を呼ぶつもりだ。
奥へ走る方を先に落とす。距離十一メートル。干渉波を絞り、指向性を高めて射出。背中から入った波が脊髄を伝い、意識を刈り取る。男は走る姿勢のまま前のめりに倒れた。
銃声が鳴った。残りの一人が発砲している。弾丸の軌道は——右肩の斜め上。外れ。暗がりで俺の位置を正確に捉えきれていない。二発目を撃つ前に、プレクサスの三射目が男の側頭部を掠めるように通過した。神経への干渉は直撃でなくても有効だ。至近距離を通過しただけで脳の電気活動が乱れ、男の手から銃が落ちる。四肢の制御を失った身体が壁にもたれかかり、そのまま崩れ落ちた。
所要時間四・一秒。処理完了。
地下二階への階段前で足を止めた。ここから先がカジノの本体だ。指先で空気の振動を探る。地下二階——七名。うち一名の生体電場に異能特有のゆらぎがある。能力の種類までは距離があって判別できない。残りは一般構成員。火器を所持している可能性が高い。
階段を降りる。足音を完全に消し、壁際を滑るように移動する。地下二階はカジノフロアだった。薄暗い照明の中にポーカーテーブルが三卓、ルーレット台が一つ。煙草の煙が天井付近に薄い層を作っている。客の姿はない。この時間帯は営業終了後らしく、構成員だけが残って売上の集計をしていた。
正面から行く。隠れる意味がない。
フロアに踏み込んだ俺を最初に発見したのは、カウンター奥で札束を数えていた男だった。「なっ——」という短い音がその口から漏れた瞬間、俺は走り出していた。
干渉波を扇状に展開する。広域射出。威力は下がるが、複数の対象を同時に行動不能にできる。訓練で繰り返した形式の一つだ。扇の範囲内にいた四人が同時に崩れた。テーブルの上の札束とチップが床に散らばる。
残り三人。うち一人が異能者。
左手の奥、VIPルームらしきスペースの入口から男が飛び出してきた。大柄な体躯。両手が赤く発光している。発火系の異能。空気中の分子運動を加速し、掌から炎を生成するタイプ。希少性は低い。黒箱のデータベースでは最も一般的な異能類型の一つだ。
炎の塊が俺に向かって放たれた。直径約三十センチ。温度は推定六百度。避ける必要はない。
右手を前に出し、プレクサスを盾状に展開した。干渉波の膜が空気中の分子運動を強制的に減速させ、炎の温度を急速に奪う。火球は俺の一メートル手前で勢いを失い、薄い煙を残して消滅した。
異能者の目が恐怖で見開かれる。
「な——」
言い終わる前に、干渉波の直射が男の意識を落とした。
残り二人は戦意を喪失していた。一人は壁際で腰を抜かし、もう一人はカウンターの下に潜り込んでいた。二人とも三秒で処理した。
地下二階、制圧完了。所要時間二十二秒。
呼吸を整える。心拍数は六十八。平常時と変わらない。汗もかいていない。これが俺にとっての「定型」だ。何も難しいことはない。任務概要通りの構成員数、想定通りの異能者の質。篠崎が言った通り、難度Cの範疇だ。
フロア奥の階段を確認する。地下三階。ブリーフィングの資料には「地下二階までがカジノ施設」と記載されていた。地下三階の存在は情報になかった。
だが、階段はそこにある。埃の積もっていない、使われている階段。
任務外の区画だ。通常なら無視して撤収する。追加行動は計画外であり、計画外の行動はリスクを増加させる。効率的な資産運用に反する。俺はそう判断し、踵を返しかけた。
足が止まった。
階段の下から、微かな振動が伝わってくる。人間の生体電場。それ自体は珍しくない。だが、その波形が俺の足を縫い止めた。
——小さい。
生体電場の振幅が異様に小さい。成人の波形ではない。これは子供のものだ。しかも複数。三つ、いや四つ。狭い空間に密集している。心拍数が高く、体温がやや低い。栄養状態が悪いことを示す代謝パターン。そして微弱だが、全員の電場に異能特有のゆらぎが混じっている。
異能を持つ子供が、地下三階に閉じ込められている。
俺の足が階段を降りていた。判断したのではない。身体が先に動いた。こんなことは初めてだった。黒箱で十四年間、俺の身体は常に判断の後に動いた。判断なき行動は資産の暴走であり、最も重い違反だ。それを理解しているのに、足が止まらない。
地下三階は狭い通路だった。コンクリートの壁。等間隔の照明。施設の通路に似ている。だが、ここには施設にはない匂いがあった。消毒液ではなく、錆と汗と——恐怖の匂い。人間が長期間、極度のストレス下に置かれたときに分泌する化学物質の複合臭。訓練で嗅いだことがある。自分自身が発していたかもしれない匂い。
通路の突き当たりに鉄扉があった。施錠されている。鍵穴ではなく電子ロック——しかも内側からではなく外側からのみ操作可能な一方向式。閉じ込めるための扉だ。
扉の向こう側の生体電場が、より鮮明に感じ取れた。四つの波形。全て幼い。全て怯えている。心拍が速く、呼吸が浅い。そして——一つの波形が、かすかに俺の干渉波に反応した。俺の存在を感知している子供がいる。
指先を電子ロックに当てた。プレクサスで回路に干渉し、ロック機構の電気信号を書き換える。通常の開錠とは違う。力任せに破壊するのではなく、回路が「正規の解錠コマンドを受信した」と誤認するよう、精密に電気信号を模倣する。三秒で解錠音が鳴った。
鉄扉を引き開けた。
コンクリートの小部屋。広さは六畳ほど。照明は天井の裸電球が一つだけ。その薄暗い光の中に、四つの小さな影がうずくまっていた。
最年長でも十歳程度。最年少は七歳か八歳に見える。全員が痩せ、全員が怯えた目でこちらを見ている。壁際に押し込まれた簡易ベッドのフレームが錆びつき、床には空のペットボトルとコンビニおにぎりのビニールが散乱している。
子供たちの手首に、金属製のバンドが嵌められていた。俺はそれを知っている。異能抑制装置。黒箱でも使われている型の、廉価版。精度は低いが、未成熟な異能を封じるには十分な性能がある。
——これは、何だ。
俺は自分の中で、何かが軋む音を聞いた。聞いたことのない音だった。胸の奥、肋骨の裏側あたりで、名前のない何かが形を持とうとしている。不快ではない。不快という分類では足りない。もっと鋭くて、もっと熱い。内側から皮膚を突き破ろうとする、制御できない衝動。
任務報告にこう書くだろうか。「地下三階に異能児童四名を発見。状態は劣悪。万華鏡が異能素質者を確保・拘束していたものと推定される」。冷静で、正確で、何の感情も伴わない文章。俺はそれを書ける。書けるはずだ。
だが、目の前の子供たちの目を見たとき、指先が震えた。
小さな目が、俺を見上げている。恐怖と、それからもう一つ——ほんの微かな、何かへの期待。助けが来たのだと、まだ信じようとしている目。施設で俺が一度も向けられたことのない種類の視線だった。
指先の震えが手首に伝わり、前腕に広がった。プレクサスが制御を離れようとしている。体表の電場が不規則に膨張し、裸電球がちらつき始めた。
——まずい。
これは暴走の前兆だ。胸の中で軋んでいたものが、能力の制御系を侵食している。だが、抑えられない。抑え方を知らない。訓練で教わったのは「感情を持つな」であって、「感情を制御しろ」ではなかった。感情がないことが前提のシステムに、今、前提にないものが流れ込んでいる。
裸電球が一際強く明滅し——消えた。
暗闇の中で、子供たちの怯えた息遣いが聞こえた。そして、俺の指先から漏れ出す電場の青白い光が、小さな身体を照らしていた。