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神経叢射のプレクサス

第1話 第1話「継ぎ目のない白」

第1話

第1話「継ぎ目のない白」

白い天井だけが、俺の世界の全部だった。

目を開けると、いつもそれがある。継ぎ目のないコンクリートに蛍光灯の光が反射して、わずかに青みがかった白。ひび一つない。汚れ一つない。俺が最初に見た景色で、たぶん最後に見る景色でもある。そういうものだと理解している。

午前六時〇〇分。体内時計が正確にそれを告げる前に、天井のスピーカーから電子音が三回鳴った。起床信号。短く、高く、等間隔。鳴り終わった後の静寂が、鳴っていた時間よりもずっと長く感じられる。俺は反射的に上体を起こし、足を床につける。コンクリートの冷たさが足裏から脛へ上がってくるが、不快とは思わない。不快というのが何なのか、正確にはよく分からない。ただ、冷たいという信号が神経を通って脳に届いている。それを認識する。認識して、次の動作に移る。それだけだ。

支給された訓練着に着替える。灰色の上下。胸元に「09」の刺繍。灰原凛——それが俺の名前らしいが、ここでは誰もそう呼ばない。資産番号09。内閣府直轄の特務機関「黒箱」が管理する、それが俺の正式な識別子だ。

洗面台の鏡に映る顔を確認する。別に身だしなみを整えたいわけじゃない。顔面に異常がないかの点検。任務に支障をきたす外傷の有無。右頬に昨日の対人訓練で受けた打撲の跡が薄く残っていたが、行動に影響するレベルではない。問題なし。水で顔を洗う。指先が頬骨の輪郭をなぞり、打撲痕の上を通過する。痛覚はほぼ消えている。鏡の中の目が、こちらを見返している。黒い瞳。何も映していない目だと、以前どこかの職員が廊下で小声で言っていた。俺に聞こえていないと思ったのだろう。聞こえていた。ただ、それがどういう意味なのか考える必要を感じなかったから、黙っていた。

訓練室までの通路を歩く。地下三階から地下五階へ。コンクリートの壁が両側から迫る狭い通路に、等間隔の照明が並んでいる。自分の足音だけが一定のリズムで反響する。すれ違う職員は俺の顔を見ない。俺も見ない。互いにとって、そうする理由がない。

途中、通路の壁が薄くなる区画がある。地上との境界が近い場所。コンクリートの向こうから、かすかに音が漏れてくる。

笑い声だった。

甲高くて、不規則で、何の脈絡もなく弾ける音。おそらく同年代の——俺と同じ十四歳くらいの人間が出す声。通学路がこの施設の上を通っているらしいことは知っている。毎朝この時間帯に聞こえる。声は壁を透過する過程で輪郭を失い、意味を持たない振動の塊になって鼓膜を揺らす。それでも、あの音には訓練室のどんな音とも違う何かがある。不規則なのに不快ではない。予測できないのに脅威でもない。俺が知っている音の分類のどこにも当てはまらない。

俺は立ち止まらなかった。立ち止まる理由がない。あの音が何を意味するのか——何のために人間がああいう音を出すのか、俺には分からない。分からないことは任務に必要ない。必要ないことに時間を使わない。それが効率的な資産の運用だと教わった。

訓練室のドアを開ける。白い壁。白い床。白い天井。蛍光灯の光が均一に空間を満たしている。消毒液の匂いがかすかに漂い、空調の低い唸りが部屋の隅々に行き渡っている。部屋の中央に、的と呼ばれる金属板が五枚、不規則な間隔で吊り下がっていた。

俺は右手を持ち上げた。

意識を集中させる。体内を流れる電気信号——神経細胞のシナプスが発火するたびに生じる微弱な電流を、体表へ、そして外部へ押し出す。干渉波として放射する。皮膚の表面がかすかに粟立ち、指先の周囲の空気が一瞬だけ歪む。目には見えないが、俺にはそれが分かる。自分の内側から何かが出ていく感覚。体温が〇・二度下がるような、微細な喪失。

神経叢射(プレクサス)。俺に与えられた異能。

指先から目に見えない波が走り、最も近い金属板を撃った。乾いた音とともに板がひしゃげる。金属が折れ曲がる甲高い悲鳴のような音が壁に反射して消える。次。三枚目。四枚目。五枚目。全弾命中。所要時間一・八秒。

「〇・二秒遅い」

天井のスピーカーから声が降ってきた。感情の読めない、しかし俺にとっては聞き慣れた声。モニター室から監視しているハンドラーの篠崎だ。

「第三射から第四射の間隔が開いた。集中力の波がある。修正しろ」

「了解」

俺は答えて、新しい的が設置されるのを待った。四十分間、同じことを繰り返す。射出角度を変え、距離を変え、的の素材を変え、照明を落とし、煙幕を焚く。煙の中では視覚に頼れない。空気の密度の変化を皮膚で読み、金属が空間に及ぼす微細な電磁場の歪みを神経で捉える。身体のあらゆる感覚器を射撃のためのセンサーとして使う。それが俺の訓練だった。最終的に全弾命中率を九十八パーセントまで戻した時、篠崎が「終了」と告げた。

訓練後、個室に戻ると机の上にビニール包装の菓子パンが一つ置かれていた。支給品。粒あんパン。毎日同じものが出る。これが俺の食事の大半だ。正規の食事は一日一回、栄養管理された給食が出るが、それ以外はこのパンで補填する。

ビニールを剥がし、齧る。甘い。甘いというのは味覚情報の分類であって、それ以上の意味を俺は見出さない。咀嚼し、嚥下し、カロリーを摂取する。それだけの行為だ。

パンを半分ほど食べたところで、端末が鳴った。

任務通知。

画面に表示された概要を読む。前回の任務が三日前だから、間隔としては標準的だ。俺はパンの残りを口に押し込み、装備ロッカーへ向かった。

ブリーフィングルームに入ると、篠崎が壁面モニターの前に立っていた。三十代半ば、痩せた体躯に黒縁の眼鏡。表情の変化が極端に少ない男だが、俺よりは感情というものを持っているらしい。時折、俺の訓練記録を見ながら眉間に皺を寄せていることがある。あの皺が何を意味するのかは、よく分からない。不満なのか、心配なのか、それとも単に視力が悪いのか。どれであっても俺の行動は変わらないので、考えても仕方がない。

「任務概要を出す」

篠崎がモニターを操作すると、新宿歌舞伎町の地図が表示された。雑居ビルの密集地帯に赤いピンが一つ刺さっている。

「対象はビル地下の違法カジノ。運営母体は異能犯罪組織『万華鏡』の末端構成員。構成員数は推定八から十二名、うち異能保有者は一名ないし二名。質は低い」

淡々とした説明が続く。潜入経路、制圧手順、撤収ルート。俺はそれを一度聞いて記憶する。記憶力については、訓練の成果なのか元々の素質なのか、俺自身にも判別がつかない。

「想定難度C。定型だ」

篠崎がそう締めくくった。Cランクは俺にとって最も頻度の高い任務帯で、過去に失敗した記録がない。つまり、いつも通りこなせばいい。いつも通り潜入し、いつも通り制圧し、いつも通り帰還する。

何も考える必要がない。何も感じる必要がない。

俺は「了解」とだけ答えて、立ち上がった。

装備を受け取り、地上へ出るエレベーターに乗る。金属の箱が上昇するにつれて、外気のかすかな振動が壁を伝わってくる。地上の音。車のエンジン音、電車の走行音、そして——また、あの笑い声。今度はもっと近い。もっと鮮明だ。壁一枚隔てただけのすぐ向こう側に、俺とは全く違う時間の流れ方をしている世界がある。

エレベーターが地上階に到着し、扉が開いた。

四月の空気が肌に触れた。暖かい。いや、暖かいという表現は正確ではない。訓練室の温度が十八度に設定されているのに対し、外気温は約二十一度。三度の差異を皮膚が検知している。それだけのことだ。だが、風が頬を撫でたとき、地下にはない何かが空気の中に混じっていた。草の匂いだろうか。アスファルトが太陽に温められた匂いだろうか。分類できない。分類できないものは報告書に書けない。だから、無視する。

偽装用のバンに乗り込む。窓の外を、制服姿の人間たちが歩いている。俺と同じくらいの年齢。鞄を背負い、横に並んで何かを喋りながら歩いている。一人がもう一人の肩を叩き、もう一人が大袈裟に身をよじる。また、あの笑い声。

俺はそれを観察した。観察して、データとして処理した。行動パターン。推定年齢。移動速度。脅威度——ゼロ。

それ以上の情報はない。

バンが発進し、制服姿の人間たちが視界から消えた。俺は目を閉じ、任務の手順を頭の中で反復した。

新宿歌舞伎町。違法カジノ。想定難度C。

定型の仕事だ。

——そのはずだった。

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