第2話
第2話
緊急速報から十二時間が経っていた。
協会本部の地下一階は、俺が知る管理課とは別の場所になっていた。普段は静かなフロアに臨時の対策本部が設置され、通信機器の電子音と怒号が絶え間なく飛び交っている。壁面の大型モニターには臨海副都心の衛星画像がリアルタイムで映し出され、霊気濃度を示すヒートマップが赤を通り越して白く焼けていた。
俺はいつものデスクで、いつものように報告書を処理していた。ただし、その内容はいつもとはまるで違う。
『先遣隊第一班、湾岸ダンジョン突入後四十七分で通信途絶。救出班により回収。死者一名、重傷三名、意識不明二名』
『先遣隊第二班、ダンジョン第三層到達時点で隊員全員が感覚異常を報告。方向感覚の喪失、霊気感知の逆転、幻聴。指揮官判断により撤退。軽傷五名』
『先遣隊第三班――』
指先が止まった。第三班の報告書には、見覚えのある名前があった。
真田悠斗。右腕骨折、霊気回路に瘴気侵食。全治二ヶ月。戦闘続行不能。
昨日の昼、食堂で向かいに座っていた男だ。テーピングだらけの手で味噌汁を啜り、俺に「もったいねえよ」と笑った男。その真田が、たった半日で病棟に送られている。
報告書を読み進めるほど、状況の異常さが浮き彫りになった。投入された先遣隊はAランク二名、Bランク八名、Cランク十二名。協会東京支部の精鋭だ。それが、ダンジョンの最深部に到達する前に壊滅している。
原因は瘴気だった。通常のダンジョンとは桁違いの瘴気濃度が退魔師たちの霊気感知を狂わせ、術式構築を阻害し、結界を内側から腐食させた。Aランクの退魔師ですら方向感覚を失い、自分がどこにいるのかわからなくなったという。霊気を扱う力が強い者ほど、瘴気の干渉を強く受ける。皮肉な構造だった。
報告書の最後に、技術班の所見が添えられていた。
『瘴気の影響は霊気保有量に比例して増大する。高ランク退魔師ほど感覚異常が顕著であり、従来の瘴気対策装備では対応不可能。根本的に異なるアプローチが必要と考える』
俺はその一文を二度読み、ゆっくりとファイルを閉じた。
嫌な予感がした。
「桐生蓮。管理課所属、ランクE」
声がしたのは、午後三時だった。管理課のドアを開けて入ってきたのは、黒いスーツに協会の徽章を付けた男。見たことがある顔だ。作戦課の主任、倉橋。本来なら管理課の人間と口を利く立場の人物ではない。
「はい」
「湾岸ダンジョンの件は報告書で把握しているな」
「先ほど第三班までの報告を処理しました」
倉橋は俺の返答に頷きもせず、手元のタブレット端末に目を落とした。
「お前の入協時の適性検査記録を確認した。霊気感知精度、偏差値九十二。霊気保有量、偏差値十一。術式構築適性、測定不能。結界展開適性、測定不能」
数字を読み上げる声に感情はない。俺のプロフィールを機械的に確認しているだけだ。だが、その数字の羅列は俺の四年間そのものだった。感知だけが突出し、他のすべてが欠落した退魔師。
「霊気保有量が極端に低いということは、瘴気の干渉をほぼ受けないということだ。技術班の検証でも、お前の感知能力は高濃度瘴気環境下でも精度を維持すると結論が出ている」
倉橋がタブレットから顔を上げた。初めて俺の目を見た。そこにあったのは、期待でも同情でもなかった。道具を値踏みする目だ。
「明日〇六〇〇、第二次探索隊が編成される。お前はその隊に道案内として編入される。命令だ」
道案内。俺の役割は最初からそれだった。書類の案内係が、今度はダンジョンの案内係になる。ただし、書類は俺を殺さない。
「質問があります」
「手短にしろ」
「先遣隊の壊滅は、瘴気による感覚異常が主因です。第二次隊の構成は」
「Bランク四名。お前を含めて五名」
五名。先遣隊は二十二名で投入されて壊滅した。その四分の一以下の人数で、同じダンジョンに入る。理由は単純だ。使える人員が残っていないのだ。Aランクは既に負傷か後方支援に回り、Bランクも半数以上が瘴気の後遺症で戦線離脱している。
「俺の護衛は」
「Bランク四名が護衛を兼ねる。お前は瘴気の中で安全なルートを感知し、隊を最深部まで導け。戦闘はお前の仕事じゃない」
戦闘はお前の仕事じゃない。四年間言われ続けてきた言葉だ。今までは無能の烙印だった。今日だけは、任務の定義になった。
「わかりました」
倉橋は一瞬だけ眉を動かした。拒否すると思っていたのかもしれない。あるいは、こんなにあっさり頷く人間の正気を疑ったのか。
「〇五三〇に第三会議室へ出頭しろ。装備は作戦課が用意する」
それだけ言って、倉橋は管理課を出ていった。ドアが閉まる音が、妙に大きく響いた。
藤原さんが心配そうな顔でこちらを見ていた。作戦課の人間が管理課に来ること自体が異例で、何かあったことは察しているのだろう。俺は何でもないという顔で在庫リストの続きに戻った。数字を書き込む手が震えていないことを、自分で確認しながら。
退勤後、協会の仮眠室で天井を見つめていた。
自分が消耗品として選ばれたことは理解している。瘴気に耐性がある人間の計器。それが俺に求められている役割だ。壊れたら替えが利く、安い計器。ランクEの退魔師一人の損失なら、協会の損益計算書には誤差程度にしか載らない。
だが、わかっていても拒否する気にはなれなかった。
四年間、感知するだけの日々だった。路地裏の低級霊を通報して立ち去る。劣化した結界札を報告して修繕を待つ。すべてが「感知して、誰かに委ねる」で終わる。俺の仕事には常に後半がなかった。見つけて、終わり。
明日は違う。ダンジョンの中に入る。自分の足で。自分の感知で道を切り開く。戦えないのは変わらない。だが初めて、報告書の向こう側に立てる。
その感情が何なのか、正確に名前をつけることができなかった。期待とも違う。恐怖はある。だがそれよりも、長い間閉じ込められていた部屋の扉がわずかに開いた、そんな感覚だった。
遺書を書こうかと一瞬だけ考えて、やめた。届ける相手がいない。桐生の本家とは五年前に縁を切られている。
仮眠室の薄い毛布を引き上げ、目を閉じた。明日の〇五三〇まで、あと七時間。
翌朝。第三会議室。
長テーブルの奥に、四人の退魔師が既に着席していた。全員がBランクの認識票を下げている。鍛え上げた体格の男が二人、術式型と思われる女性が一人、そして――見覚えのある顔が一つ。真田の同期だった男、名前は確か園田。以前、食堂で真田と一緒にいるのを何度か見かけた。
俺がドアを開けた瞬間、四つの視線が集まった。
そして、全員の目が俺の胸元に止まった。Eランクの認識票。退魔師協会で最も低いランクを示す、銅色のプレート。
園田が最初に口を開いた。
「おい、管理課の案内係じゃねえか。何しに来た、書類の届けか?」
「第二次探索隊に編入された桐生です。よろしくお願いします」
沈黙が落ちた。四人が互いの顔を見合わせる。園田の表情が、困惑から露骨な不快に変わるのが見えた。
「冗談だろ。Eランクだぞ。あの中に入るのに、Eランクを連れていけってのか」
術式型の女性――胸の名札に「宮内」と書かれている――がタブレットを操作し、俺の適性データを確認したらしい。眉間に深い皺が刻まれた。
「霊気保有量、偏差値十一。これ、一般人とほぼ変わらないじゃない」
「感知精度は九十二だ」
もう一人の男が言った。顎に傷のある、寡黙そうな退魔師。名札は「辻」。辻は俺を見ず、手元の資料に目を落としたまま続けた。
「瘴気耐性の理屈は理解できる。だが、あの中で足手まといが出たらどうする。守りながら進む余裕はないぞ」
園田が椅子の背に体重を預け、俺を見上げた。その目には、真田が俺に向けていたものとは正反対のものが宿っていた。善意の欠片もない、純粋な拒絶。
「先遣隊で何人やられたか知ってるだろ。Aランクでも帰って来れなかったんだ。お前みたいなのが来ても、死体が一つ増えるだけだ」
俺は何も言い返さなかった。園田の言葉は、正しいからだ。
そのとき、会議室のドアが再び開いた。倉橋が入ってきて、作戦概要の説明を始める。隊員たちは不満を飲み込み、渋い顔のまま資料に目を通す。だが園田だけは、説明の間もずっと俺の方を睨んでいた。
ブリーフィングが終わり、装備の受領に移る。支給された防護服に袖を通しながら、俺は園田たちの背中を見ていた。全員が歴戦の退魔師だ。その中に、書類しか捌いたことのない人間が一人混じる。
足手まとい。死体が一つ増えるだけ。
否定する材料を、俺は持っていなかった。