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術式解体——ランクE退魔師の反転覚醒

第1話 第1話

第1話

第1話

また一人、先に行った。

真田悠斗、Cランク昇格承認――と印字された報告書の束を、俺はクリアファイルに挟んだ。添付された討伐記録には、B級妖魔「餓鬼蜘蛛」を術式結界で封じ込め、三人連携で核を破砕したと書かれている。鮮やかな手際だ。入協同期の中で、真田は七人目のCランク到達者になる。

退魔師協会東京本部、管理課。地下一階の蛍光灯が白々しく照らすこの部屋が、桐生蓮――ランクEの退魔師である俺の持ち場だった。

デスクの上には処理待ちの書類が三十センチほど積まれている。討伐報告、経費精算、結界札の在庫管理台帳。退魔師が現場で妖魔を斬り、結界を張り、人々を守る。その裏側で誰かが紙の山を捌かなければ組織は回らない。その「誰か」が俺だった。別に志願したわけじゃない。戦闘に出せない退魔師の配属先など、ここしかなかっただけだ。

ファイルを棚に戻す途中、真田の討伐写真が目に入った。術式で編んだ光の網が妖魔を絡め取る瞬間。霊気の流れが写真越しにもわかる。綺麗な術式だ、と素直に思った。そして、自分には絶対に組めない術式だとも。

桐生蓮。能力――微弱な霊気感知。

退魔の名門・桐生家に生まれて、発現したのがそれだけ。術式構築の適性なし、結界展開の適性なし、霊気放出量は計測下限ぎりぎり。入協時の適性検査で検査官が二度見していたのを、俺は今でも覚えている。数値を確認し、機器の不具合を疑い、再測定し、そしてもう一度俺の顔を見た。あの沈黙の数秒間に込められた意味を、俺は正確に読み取っていた。――こいつは使えない。

「桐生くん、今日の在庫リスト」

管理課の先輩、藤原さんが伝票の束を差し出してきた。四十代の事務職員で、退魔師ですらない一般スタッフだ。その人と同じフロアで同じ仕事をしている退魔師。それが俺の現在地だった。

「はい。午前中に終わらせます」

「助かるわ。あと真田くんの昇格申請、上に回しておいてくれる? 決裁印はもう押してあるから」

真田の名前がまた耳に刺さる。別に恨みはない。真田は真っ当に努力して、真っ当に結果を出しただけだ。俺が逆立ちしても出せない結果を。

結界札の在庫管理棚に向かう。地下倉庫には防湿処理された木箱が百二十個並んでいて、札の種類ごとに分類されている。退魔用の爆破札、浄化札、封印札、探知札。どれも霊気を込めて初めて起動する消耗品で、退魔師の生命線だ。

倉庫に足を踏み入れると、防腐剤と和紙の乾いた匂いが鼻をついた。天井の換気口が低く唸り、冷気が首筋を這う。ここは協会で最も霊気が安定した区画だ。札の品質を保つために温度と湿度が厳密に管理されている。だからこそ、わずかな霊気の乱れにも気づきやすい。

俺はバインダーを片手に棚を巡り、在庫数を読み上げていく。爆破札・甲種、残数四十二。浄化札・標準、残数百十五。封印札・強化型、残数十八――少ない。最近の妖魔出現頻度の増加で、消費が補充を上回っている。

棚の奥に手を伸ばしたとき、指先がかすかに痺れた。

霊気だ。封印札の束から微量の霊気が漏れている。品質劣化の兆候。放置すれば術式が崩れて不発になる。戦場でそれが起きれば死人が出る。

札の束を引き出し、指先で一枚ずつ確かめる。三枚目で痺れが強くなった。墨で描かれた術式紋様は見た目に変化がないが、紙の繊維に封じられた霊気の流れが微妙に歪んでいる。まるで血管に血栓ができたように、巡りが滞っている。他の札との干渉か、あるいは保管時の霊気環境の揺らぎか。原因の推定まではできる。だが、修復はできない。

俺はすぐに該当ロットを抜き出し、藤原さんに報告した。

「また見つけたの? 桐生くん、本当にそういうのだけは正確ね」

「そういうのだけは」。悪気のない言葉が、正確に急所を突く。霊気感知の精度だけなら協会随一。でも「だけ」だ。戦えない退魔師に居場所はない。この組織では、感知は手段であって目的じゃない。感知した脅威を排除できて初めて退魔師と呼ばれる。

「感知だけの案内係」。誰が最初に言い出したのかは知らない。だが今では管理課の外にまで広まっている。

昼休み、食堂で味噌汁を啜っていると、廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。

「蓮じゃん。今日も書類番?」

真田だった。Cランクの新しい認識票を首から下げている。銀色の金属プレートが蛍光灯を反射して、やけに眩しかった。

トレイの向かいに座った真田の手には、現場帰りの擦り傷がいくつも残っていた。指の関節に巻かれたテーピング、袖口からのぞく打撲の痕。戦っている人間の手だ。俺は自分のインク染みだらけの指先を無意識にテーブルの下へ引いた。

「昇格おめでとう。報告書、読んだよ。餓鬼蜘蛛の封殺、見事だった」

「ああ、ありがとな。――お前もさ、いつまでも管理課ってわけにいかないだろ。感知能力、もったいねえよ」

真田に悪意はない。それはわかっている。だからこそ厄介だ。善意の言葉は、突き返す場所がない。

「俺の感知じゃ戦力にならないって、適性検査が証明してる」

「まあ、そうなんだけどさ」

真田は気まずそうに頭を掻いて、話題を変えた。最近の妖魔出現頻度の増加、新宿で観測された霊気濃度の上昇、協会内の人手不足。どれも俺が報告書で読んだ情報だった。現場の肌感覚と紙の上の数字。同じ事象を別々の場所から眺めている。その距離が、俺と真田のあいだの距離だった。

退勤は十八時。協会本部のビルを出ると、四月の夜風が首筋を撫でた。地下鉄の駅に向かう途中、新橋の雑踏に紛れて歩く。スーツ姿のサラリーマン、スマホを覗き込む学生、居酒屋の呼び込み。誰もが日常を生きている。この街のどこかに潜む低級霊の気配を感じ取れるのは、おそらく俺だけだ。

――来た。

右の路地。飲食店の裏口あたり。微かな霊気の揺らぎ。低級霊だ。実体化には至っていないが、放置すれば三日以内に瘴気溜まりに成長する。通行人を避けて路地に足を踏み入れ、壁のブロック塀に手を当てた。指先に伝わる冷たい霊気の脈動。位置は特定できる。強さも読める。

だが、それだけだ。

退魔の術式は組めない。浄化札は持ち出し権限がない。ランクEの俺にできるのは、協会のホットラインに通報して、誰かが対処してくれるのを待つことだけ。

携帯を取り出し、所定のフォーマットで報告を入力する。場所、霊気強度、推定種別、実体化予測。感知精度だけは正確だから、報告書の信頼度は高いと言われている。ただの通報係としては優秀。退魔師としては無価値。

送信ボタンを押す。三秒後に受領確認の自動応答。対応班の到着予定は四十分後。その四十分のあいだに霊気が膨らんで実体化したら、この路地を通る誰かが巻き込まれる。それがわかっていて、俺は立ち去ることしかできない。

路地を出て、駅への道を再び歩き始めた。背中に微かな霊気の気配を感じながら。振り返っても、俺にできることは何もない。

改札に向かう階段を降りかけたとき、ポケットの中で携帯が震えた。協会の緊急通信チャンネル。管理課員にまで一斉配信が来るのは、年に一度あるかないかだ。

画面に表示された文面を読んで、足が止まった。

『全退魔師へ緊急速報。本日21:07、東京湾岸・臨海副都心域にて大規模霊脈断裂を観測。霊気濃度は計測上限を超過、なお上昇中。Aランク以上の退魔師は即時参集せよ。繰り返す――』

霊脈断裂。霊気の流れそのものが裂ける現象。報告書では読んだことがある。だが実際に東京で発生した記録は、協会の六十年の歴史の中で一度もない。

改札の向こう、南東の方角。俺の感知がそちらに引き寄せられる。距離は十キロ以上あるはずなのに、肌がざわつくほどの霊気の奔流が感じ取れた。地面の下を巨大な何かが脈打つような、腹の底に響く圧。周囲の通行人は誰一人気づいていない。改札機のタッチ音、構内アナウンス、談笑する声。日常の音がやけに遠い。俺の五感だけが、南東の空の向こうで起きている異変に釘付けになっていた。

これは、今まで報告書で読んできたどの事案とも違う。

階段の途中で立ち尽くす俺の横を、何も知らない乗客たちがすれ違っていく。日常と非日常の境界線。俺はいつもその線の上に立っている。感じ取れるのに、何もできない場所に。

だが今夜、その境界線が大きく揺れようとしていた。

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