第3話
第3話
湾岸ダンジョンの入口は、臨海副都心の埋立地に口を開けていた。
アスファルトが直径三十メートルほど陥没し、そこから地下へ続く空洞が露出している。縁に設置された霊気計測器が赤いランプを点滅させ、警告音を途切れなく吐き出していた。周囲には協会の封鎖結界が三重に張られ、一般人の立ち入りを遮断している。四月の朝の潮風が、穴の底から這い上がる瘴気と混じって、生温い異臭を運んできた。
隊長は神崎という男だった。四人のBランクの中で最も寡黙で、ブリーフィング中も一度も口を開かなかった大柄な退魔師。顎の辻とは別の、刈り上げた後頭部に古い傷痕がある男だ。出発前に一言だけ、「全員生きて帰る」と言った。園田はそれを聞いて、ちらりと俺を見た。「全員」の中に俺が含まれているのか確認するような目だった。
「桐生。入口の先、何が読める」
神崎が俺に問いかけた。全員が穴の縁に立ち、暗闇を覗き込んでいる。
俺は目を閉じた。瘴気の奔流。だがその中に、霊気の流れは確かに存在していた。濁流の中に沈む川底の石を探るような感覚。指先と肌と、体の内側にある何かが、地下の霊気地図を描き出す。
「左壁沿いに降下ルートがあります。瘴気の濃度が比較的低い層が帯状に続いている。幅は二メートル弱。そこを辿れば、第一層まで感覚異常を最小限に抑えられるはずです」
神崎が頷いた。「先導しろ」
暗闇に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
地上の音が消える。潮風が消える。代わりに、粘つく瘴気が防護服の上からでも肌に纏わりついてくる。懐中灯の光が瘴気に吸い込まれ、三メートル先がぼやける。足元の地面は湿って滑り、一歩ごとに靴底が粘液質の何かを踏む感触が伝わってきた。鉄錆と腐泥が混じったような臭いが鼻腔の奥に張りつき、呼吸するたびに喉の粘膜がひりついた。先遣隊が壊滅した理由が、体感でわかった。ここは人間が来る場所じゃない。
だが、俺の感知は潰れていなかった。
瘴気は霊気を持つ者の感覚を侵食する。保有量が多いほど干渉が大きい。俺の霊気保有量は偏差値十一。一般人と大差ない。だからこそ、瘴気が俺の感知をすり抜ける。濁った水の中で、俺だけが目を開けていられるようなものだった。
「止まってください」
降下を始めて十分。俺は右手を上げた。
「三時方向、壁の向こうに瘴気の渦があります。近づくと引き込まれる。左に迂回します」
辻が壁面に手を当て、確認しようとした。だが首を振る。
「何も感じん。瘴気しか読めない」
「信じてください。渦の中心まで約八メートル。巻き込まれたら方向感覚を失います」
神崎が即断した。「桐生の指示に従え。左だ」
迂回路を進む。俺の感知が捉えた霊気の安全帯は、想像以上に狭く蛇行していた。ときに四十五度の急角度で方向転換し、ときに天井近くの隙間を這うように進む必要があった。合理的なルートではない。だが瘴気の濃淡は人間の都合で配置されていない。安全な道は安全な道にしか繋がらない。
第二層に入った頃から、Bランク隊員たちの異変が始まった。
最初に症状が出たのは園田だった。「おい、さっきここ通らなかったか」と立ち止まる。通っていない。瘴気による記憶の錯乱だ。続いて宮内が耳を押さえた。「何か聞こえる。術式の詠唱みたいな……聞こえない?」。誰にも聞こえていない。辻は無言だったが、壁に手をつく頻度が増えていた。平衡感覚が揺らいでいる。
先遣隊の報告書にあった症状と同じだった。方向感覚の喪失、幻聴、記憶の混濁。Bランクの退魔師でも、第二層でこれだ。先遣隊のAランクが第三層で壊滅したのも頷ける。
「園田、左手で前の人間の肩に触れておけ。視覚と聴覚が信用できなくなったら、触覚に頼る」
神崎が的確に指示を飛ばす。さすがに場数を踏んだ指揮官だった。だがその神崎も、額に汗が滲んでいた。Bランクの霊気保有量でも、瘴気の浸食は確実に進んでいる。
「桐生、最深部までの推定距離は」
「霊気の流れの密度から判断して、あと三層。現在のペースで四十分前後です」
「お前は平気なのか」
「感知に異常はありません」
神崎がわずかに目を見開いた。驚きが閃いて、すぐに消えた。
「お前がいなければ、第一層で詰んでいたな」
それは俺への賞賛ではなかった。状況の深刻さを確認する独り言に近い。だが、俺はその言葉を噛み締めていた。四年間、一度も言われたことのない類の言葉だった。喉の奥が熱くなるのを、俺は瘴気のせいにした。
「案内係がいないと進めないのか。Bランクが揃ってて」
園田が後ろで吐き捨てた。瘴気の影響で苛立ちが増幅されている。園田の感情は理解できた。実力で勝ち取ったBランクの矜持が、Eランクに先導されている現実を許容できない。感覚異常で自分の力を発揮できない焦りが、一番弱い相手に向かっている。
俺は振り返らなかった。振り返って何を言っても状況は変わらない。園田を納得させる言葉を、俺は持っていない。持っているのは、この瘴気の中を読み解く目だけだ。
第三層。第四層。霊気の安全帯はさらに狭まり、俺は隊員一人ずつの位置を指示しながら進んだ。「辻さん、半歩右。宮内さん、頭を下げて。園田さん、そこで止まって」。案内係。その呼び名が、今は正確に俺の役割を表していた。ただし、管理課の書類棚の前に立っていた頃とは、一文字分だけ意味が違った。
第五層に到達したとき、宮内が膝をついた。
「ごめん、感知が完全にホワイトアウトしてる。何も読めない」
辻も壁にもたれていた。「俺もだ。霊気の方向すら掴めん」
園田は立ってはいたが、目の焦点が合っていなかった。瘴気の浸食が臨界に達している。戦闘はおろか、自力での移動も危うい。
五人のうち、まともに機能しているのは俺と、辛うじて意識を保っている神崎だけだった。
「桐生。最深部まであとどれくらいだ」
「もうすぐです。霊気の密度が急激に上がっている。この先に核がある」
「……よし。全員、桐生の声だけを頼りに進め。他の感覚は捨てろ」
Bランク退魔師四人が、Eランクの声に従って暗闇を歩く。報告書に書いたら、誰かの悪い冗談だと思われるだろう。だがこれが現実だった。ここでは、霊気を多く持つことが弱点になる。強さの定義が地上とは反転している場所。俺はこの四年間で初めて、自分の能力が「弱さ」ではなく「適性」として機能する環境に立っていた。
感知を研ぎ澄ませる。第五層の構造は複雑だった。瘴気の壁がうねりながら移動し、安全帯が数分ごとに形を変える。さっき通れた道が塞がり、なかった道が開く。生き物の体内を歩いているような不気味さがあった。
最深部の核が近い。霊気の奔流が足元から突き上げてくる。あと百メートル。五十メートル。
「止まれ」
神崎が片膝をついた。瘴気の浸食がついに神崎にも回った。しかし隊長は歯を食いしばり、俺を見上げた。
「桐生、最深部の状況を報告しろ」
俺は感知を最深部に集中させた。核の霊気反応。巨大で、脈動している。ダンジョンの心臓部。ここを鎮圧すれば断裂は収まる。隊員の状態を考えれば、ここで撤退すべきだ。だが核の位置と構造を持ち帰るだけでも、次の作戦の糧になる。俺は霊気の地図を脳内に刻み込むように、感知の精度を限界まで引き上げた。核の外殻の厚さ、脈動の周期、周囲を巡る瘴気の流速。一つ残らず記憶する。
違和感。
俺の感知に映らない場所がある。最深部の手前、右方向。霊気の流れが突然途切れている。空白。瘴気の壁でもない。霊気そのものが存在しない、まるで地図にぽっかり開いた穴のような空間。
「どうした、桐生」
「――わかりません。感知に死角がある」
言葉にした瞬間、背筋を氷の指が這い上がるような悪寒が走った。
死角から。俺の感知が届かないその空白から、異質な霊気が膨れ上がった。瘴気でも通常の霊気でもない、触れてはいけないと本能が叫ぶ圧力。鼓膜が内側から押されるような重圧が全身を覆い、呼吸が一瞬止まった。感知の地図が塗り潰されていく。俺が四年間で感じ取ったあらゆる霊気の総量を、一瞬で超えるような奔流が最深部の闇から押し寄せてきた。