第2話
第2話
二十四時間が過ぎた。作戦概要の開示はなかった。
端末の画面には「待機延長」の四文字だけが表示されていた。理由の記載はない。いつものことだ。ここでは説明という概念が存在しない。命令があり、遂行があり、結果がある。その間を繋ぐ「なぜ」は、俺たちに与えられる情報ではない。
〇六〇〇。起床信号。天井のLEDが薄暗い橙から白に切り替わる。体内時計を強制的にリセットするための照度変化。窓のない地下三階では、この光だけが朝と夜の境界線だった。
パイプベッドから身を起こす。筋肉のこわばりを確かめるように首を回した。昨夜、眠れたのは三時間程度だと思う。トオルの声が頭の中で反響するたびに意識が浮上して、消毒液の匂いが鼻につくたびに目が覚めた。だが疲労は関係ない。動けるなら動く。動けなくなったら廃棄される。それだけのことだ。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。十六歳。世間ではまだ子供と呼ばれる年齢らしい。だが鏡の中の目は子供のものじゃなかった。感情の温度を限りなくゼロに近づけた、乾いた目。この目を作るのに何年かかったか。最初は泣いた。殴られても、飯を抜かれても、同室の子供が消えても。でもある日から泣かなくなった。涙を流すたびに訓練の負荷が上がることを学習したからだ。感情は弱さの証拠。弱さは損耗の前兆。損耗は廃棄。だから殺す。感情を、殺す。
顔を洗って、食堂に向かった。
食堂と呼んではいるが、実態はコンクリート壁に囲まれた配給所だ。ステンレスのカウンターに、栄養バランスだけを計算された食事が並ぶ。固形プロテイン二本、ビタミン剤、合成タンパクのスープ。味はない。正確には、味がする必要がないと設計されている。掃除屋に必要なのはカロリーと栄養素であって、食事の楽しみではない。
トレイを持ってテーブルにつくと、向かいに見慣れた顔があった。
「よう、〇九二」
カイ——〇八七号。同期の生存者で、今この施設に残っている中では俺が名前を知っている最後の一人だった。短く刈った黒髪、頬に走る古い傷痕。トオルより一つ年上の十七歳で、近接戦闘の等級は俺と同ランク。ただし得意分野が違う。俺がナイフならカイは素手。関節技と打撃を組み合わせた制圧術で、騒音を出せない環境での処理を専門にしていた。
「カイ。お前も朝食か」
「食わねえと動けねえだろ」
カイは固形プロテインを噛み砕きながら、周囲に視線を走らせた。食堂には他に五人ほどの掃除屋がいる。全員が黙々と栄養を摂取している。会話をしている者はいない。ここでは雑談は推奨されない。必要最低限の情報交換以外の発話は、管理官の報告対象になり得る。
だがカイは構わず口を開いた。声量を落として。唇の動きだけで読み取れるぎりぎりの音量。
「トオルのこと、聞いたか」
「ああ」
「そうか」
カイはスープを啜った。表情は変わらない。変えられない。ここでは感情を表に出すこと自体がリスクだ。だが俺にはカイの顎の筋肉がわずかに強張っているのが見えた。奥歯を噛んでいる。
「同期、何人だったか覚えてるか」
「二十三人」
入所時の数字だ。六年前、俺たちは二十三人の「素体候補」としてこの施設に収容された。年齢はまちまちで、共通点は一つだけ——全員が身寄りのない子供だったこと。親を亡くした者、捨てられた者、最初から戸籍に載っていなかった者。社会の隙間から掬い上げられ、存在を抹消され、番号を与えられた。
「二十三人のうち、今残ってるのは?」
「俺とお前だけだ」
カイが固形プロテインの包装を握りつぶした。アルミの潰れる音が小さく響いた。
「……俺たちに次はない」
声が震えていたわけじゃない。むしろ静かだった。事実を確認するような、乾いた声。だがその乾きの底に、押し殺しきれないものが滲んでいた。恐怖じゃない。諦めに似た何か。二十一人が消えていく過程を見続けてきた人間だけが持つ、どうしようもない確信。
俺は答えなかった。否定する材料がなかったからだ。
食事を終えて食堂を出ると、廊下の壁面モニターに訓練スケジュールが表示されていた。〇九二号——近接戦闘、射撃、体術、薬物耐性テスト。いつもと同じメニュー。特甲任務の前日であろうと、ルーチンは変わらない。機械の整備と同じだ。使う直前まで、動作確認を怠らない。
訓練場は地下四階にある。コンクリートの床に薄いマットが敷かれた、体育館ほどの空間。天井から吊り下げられた照明が白い光を落とし、影のない平坦な明るさが空間を満たしている。ここでは死角が生まれないように設計されている。監視カメラが八方向から訓練の様子を記録していた。
ナイフの素振りから始める。百回。二百回。同じ軌道、同じ速度、同じ力。反復は体に型を刻む作業だ。考えなくても刃が最適な角度で入るように。考えなくても急所を捉えるように。人間を道具にする工程の、最も基本的な段階。
射撃訓練に移った。標的に向けて引き金を引く。中心から三ミリ以内。次弾装填、〇・八秒以内。三十発を終えて弾倉を交換する動作を繰り返す。薬莢が床に転がる金属音が規則正しく響いた。
午後の薬物耐性テストが一番きつい。注射器で何かを投与され、その後の身体反応を計測される。何を入れられているのか説明されたことはない。腕の内側には無数の針痕が残っていて、古いものは薄い瘢痕になっている。投与後の三十分は視界が歪み、平衡感覚が崩れる。その状態で格闘訓練を行う。薬物の影響下でも戦闘能力を維持できるか。できなければ、等級が下がる。等級が下がれば、任務の選択肢が減る。選択肢がなくなった先に待っているのは——トオルと同じ結末だ。
全訓練を終えて自室に戻ったとき、端末に通知が入っていた。
差出人は白崎。本文は三行。
『〇八七号、明朝〇五〇〇、B区画より出撃。任務等級・甲。詳細は別途通達。〇九二号、作戦待機継続。開示時刻は追って指示する』
カイが別任務に振り分けられた。
端末の文字を二度読んだ。甲等級——特甲の一つ下だが、生還率が高い任務ではない。カイがそこに投入されるということは、俺との合流はない。特甲任務は単独。最後の同期と、明日から別の戦場に送られる。
廊下に出た。カイの居室は俺の三つ隣だ。ドアの前に立つと、中からかすかに水音が聞こえた。シャワーを使っている。
ドアを叩こうとして、手が止まった。
何を言う。何を言えばいい。「気をつけろ」か。「生きて帰れ」か。そんな言葉はこの場所では意味を持たない。生き残れるかどうかは本人の技量と運と、任務の設計に依存する。掃除屋同士の言葉で変わるものは何もない。
それでも、手がドアに触れた。ノックの音がコンクリートの壁に吸い込まれる。
水音が止まった。数秒の間があって、ドアが開いた。カイが濡れた髪のまま立っている。俺の顔を見て、何かを察したように小さく息を吐いた。
「見たか、通達」
「ああ」
「そうか」
カイは髪の水滴を手で払った。頬の傷痕が蛍光灯の下で白く浮いている。
「……お前の任務、特甲だろ」
「知ってたのか」
「食堂で会ったとき、お前の表情で分かった。白崎が目を逸らすレベルの任務なんて特甲しかねえ」
カイは口の端だけで笑った。笑ったと呼んでいいのか分からない。唇の形が変わっただけの、温度のない表情。
「二十三人のうちの最後の二人が、同時に実戦投入か。効率的だな」
その言葉の意味を、俺は正確に理解した。同時に投入すれば同時に消耗する。在庫処分の要領だ。
「カイ」
「余計なこと言うなよ、蓮」
名前を呼ばれた。番号ではなく。
カイが俺の名前を口にしたのは、六年間で数えるほどしかない。ここでは名前を呼ぶこと自体が、管理体制への小さな反抗だった。番号は部品の識別子。名前は人間の証。
「……死ぬなよ」
言ってから、無意味な言葉だと分かっていた。でもそれ以外に何も出てこなかった。
カイは答えなかった。ただ濡れた手を上げて、俺の肩を一度だけ叩いた。硬い掌の感触。骨と筋肉だけでできた、掃除屋の手。その重さが、言葉の代わりだった。
ドアが閉まった。
廊下に一人で立っている。蛍光灯の音が耳鳴りみたいに響いている。消毒液の匂いが肺に沁みた。
自室に戻って、ベッドに座った。端末を開く。任務通達の画面を見つめる。
『〇九二号、作戦待機継続。開示時刻は追って指示する』
単独出撃。内容不明。生還率が極端に低い等級。唯一の同期は明朝、別の任務に消える。
トオルが消えた。明日、カイも消えるかもしれない。その次は俺だ。
端末を閉じた。暗い画面に自分の顔が映った。感情を殺したはずの目が、ほんのわずかに揺れていた。それを認識した瞬間、意識的に表情を引き締めた。感情は弱さの証拠。弱さは——
だが今夜だけ、その回路がうまく作動しなかった。カイの掌の重さが肩に残っている。トオルの「いいな」が耳に残っている。二十三人分の体温が、とっくに冷えたはずの記憶の底でまだ微かに灯っていた。
端末が震えた。
新着通知。差出人は——白崎ではなかった。送信元コードは上層部の暗号識別子。昨日、会議室にいたあのスーツの男。
本文一行。
『〇九二号、出撃時刻確定。明日二一〇〇。現場は蛇嚙の管轄区域。以上』
蛇嚙。裏社会で最も危険とされる異能犯罪組織の名前が、端末の画面で無機質に光っていた。