Novelis
← 目次

因果掃除屋、運命を書き換える

第3話 第3話

第3話

第3話

二一〇〇。指定時刻ちょうどに、俺は地上に出た。

四月の夜気が肌を刺す。昨夜の新宿とは違う空気だった。湾岸エリア、品川埠頭の外れ。潮の匂いと錆びた鉄の匂いが混ざった、人の気配のない場所。どこか遠くでコンテナ船の汽笛が低く鳴り、それきり音が途絶えた。静かすぎる。倉庫街の照明は半分以上が切れていて、残った水銀灯がオレンジ色の光を地面にまだらに落としている。コンテナの影が黒い壁のように連なり、その隙間を海風が吹き抜けていた。風に混じる潮のざらつきが唇に貼りつく。

耳に装着した通信機から、ノイズ混じりの声が聞こえる。

『〇九二号、ポイントAに向かえ。第三倉庫、北側搬入口。蛇嚙の取引現場を確認し、標的を処理しろ。支援班は後方で待機している』

オペレーターの声に感情はない。いつも通りだ。だが「支援班は後方で待機」という一文が引っかかった。特甲任務で支援がつくのは珍しい。珍しいというより、聞いたことがない。特甲は単独処理が原則だ。支援がつくなら等級を下げればいい。矛盾している。

考えるな。任務を遂行しろ。

思考を切って、コンテナの影に沿って移動を開始した。腰のホルスターにサプレッサー付きの拳銃、右腿にナイフ。装備は最小限。掃除屋の標準構成だ。足音を殺して歩く。呼吸を浅くする。暗視に目を慣らしながら、第三倉庫の北側に回り込んだ。

搬入口のシャッターが二十センチほど開いている。中から光は漏れていない。音もない。

取引現場のはずだ。事前情報では、蛇嚙の末端構成員が異能薬物の受け渡しを行う予定とされていた。警備は三名、武装は軽火器。掃除屋一人で処理可能な規模——のはずだった。

シャッターの下に身を滑り込ませた。

暗闇。コンクリートの床に油染みが点々と広がっている。天井の蛍光灯は全て消えていた。倉庫の広さは目測で三十メートル四方。鉄骨の柱が等間隔に並び、奥にはフォークリフトが一台、放置されている。

誰もいなかった。

取引の痕跡すらない。テーブルも、荷物も、車両の轍も。埃の積もり方からして、この倉庫はしばらく使われていない。事前情報と現場が完全に食い違っている。

嫌な汗が背中を伝った。指先が冷たい。訓練で叩き込まれた冷静さの下で、本能が警報を鳴らしていた。

通信機に指を当てた。

「〇九二号。ポイントAに到達。標的不在。取引の形跡なし。情報の再確認を要請する」

ノイズ。三秒、五秒、十秒。応答がない。

「こちら〇九二号。応答願う」

ノイズだけが耳を満たした。通信機の故障ではない。受信感度は正常だ。向こうが応答していない。

足を止めた。倉庫の暗闇の中で、思考が急速に回転する。

標的がいない。事前情報が偽装されている。通信が切られている。支援班は——最初から存在しない。

全てが繋がった瞬間、体温が二度下がった気がした。胃の底が冷えて、喉の奥に酸っぱいものがせり上がる。

囮だ。

俺が囮なんだ。

蛇嚙の管轄区域に掃除屋を一人送り込む。取引現場の制圧という名目で。だが本当の目的は別にある。俺をここに配置することで、蛇嚙の注意と戦力をこの倉庫に集中させる。その隙に、本命の作戦が別の場所で動いている。カイの甲等級任務。あれが本命だ。カイの任務を成功させるために、俺という餌が撒かれた。

特甲の意味を理解した。生還率が低いのではない。最初から生還を想定していない。

白崎が目を逸らした理由。上層部がわざわざ直接通達した理由。全部辻褄が合う。俺は使い捨ての駒だ。最初からそうだった。だがこれまでは「まだ使える」から生かされていた。今回、俺の命の用途が決まった。囮。蛇嚙の目を引きつけて時間を稼ぐこと。それが〇九二号・氷室蓮の最後の任務価値だ。

脱出を考えた。この倉庫から出て、埠頭を抜けて——

足裏に振動が伝わった。

倉庫の四方向から、複数の足音。重い靴底がコンクリートを踏む音が、壁に反響して数が分からない。五人か。十人か。もっとか。包囲されている。

ナイフを抜いた。拳銃のセーフティを外した。背中を鉄骨の柱に預けて、呼吸を整える。心臓が肋骨の裏側で硬く打っている。恐怖ではない——いや、恐怖だ。それを認めたところで、手は震えなかった。五対一まで——いや、闇の中では三対一が限界だ。それ以上は角度が取れない。逃走経路を頭の中で組み立てる。北のシャッター、東の非常口、天井の換気ダクト——

足音が止まった。

四方からの気配が、同時に動きを止めた。統率されている。末端の構成員じゃない。訓練された部隊だ。

そして、倉庫の奥——フォークリフトの影から、一人の男が歩み出た。

足音が違った。他の人間が靴底を鳴らしていたのに対して、この男の足音は柔らかい。革靴だ。それも上等な。暗闇の中でも分かる異質な存在感。周囲の空気が男を中心に歪んでいるような、物理的な圧力。肌が粟立つ。銃を握る掌に汗が滲んだ。

「——掃除屋か」

低い声だった。嘲笑でも怒気でもない、品定めをするような平坦な声。

男が指を鳴らすと、天井の蛍光灯が一斉に点灯した。白い光が網膜を焼いて、一瞬視界が飛ぶ。目を細めながら焦点を合わせた。

四十代前半。長身痩躯。黒い和装の上に薄手のコートを羽織っている。整った顔立ちだが、左目の下から顎にかけて刺青が走っていた。蛇が絡み合う意匠。蛇嚙の幹部紋。

そして、その周囲で空間が揺らいでいた。

比喩ではない。男の周囲三メートルほどの空気が、陽炎のように波打っている。床のコンクリートに亀裂が走り、蛍光灯の光が男の周りだけ屈折して、影の方向が物理法則を無視していた。

異能者。それも桁違いの。

「鉄掃部の犬が一匹。わざわざ俺の庭に迷い込んでくるとはな」

男が一歩踏み出した。その一歩で、俺と男の間の空間が軋んだ。距離にして十五メートル。だが空気の密度が変わった。息を吸おうとすると、肺が圧迫されるような重さ。重力が変わったのか。いや、違う。空間そのものが歪んでいる。

「……蛇嚙の幹部か」

声が掠れた。喉が乾いている。それでも銃口は鬼道の中心から逸らさなかった。

「鬼道。覚えなくていい。死人に名乗っても仕方がない」

鬼道がコートのポケットに手を入れたまま、二歩目を踏んだ。

世界が歪んだ。

倉庫の床が波打ち、鉄骨の柱が飴のように捻れた。俺の足元のコンクリートが隆起し、背中を預けていた柱が音を立てて曲がる。咄嗟に横に跳んだ。着地した瞬間、さっきまで立っていた場所のコンクリートが陥没して直径二メートルの穴が開いた。

空間歪曲。鬼道の異能は、周囲の空間そのものを捻じ曲げる力だ。

拳銃を構えた。引き金を引く。三発。全弾が鬼道に向かって直進——しなかった。弾丸が鬼道の手前一メートルで軌道を曲げられ、見当違いの方向に飛んでいく。壁にめり込む鈍い音が三つ。

銃が効かない。

ナイフに切り替えた。距離を詰めようと踏み込んだ瞬間、足元の空間が沈んだ。重力の井戸に落ちるような感覚。膝が床に着く。全身に圧がかかる。立ち上がれない。

鬼道が見下ろしていた。ポケットに手を入れたまま、一歩も動いていない。

「脆いな。鉄掃部もずいぶん質が落ちた」

圧が増した。肺が潰れそうだ。視界の端が暗くなる。肋骨が軋む音が自分の体の中から聞こえた。口の中に鉄の味が広がる。歯を食いしばった顎の筋肉が痙攣していた。

通信機に最後の望みをかけた。

「……こちら、〇九二号。敵異能者と、接触。支援を——」

ノイズ。沈黙。

誰も来ない。最初から、誰も来るはずがなかった。

俺は囮だ。使い捨ての餌。ここで潰されることが、俺に割り当てられた最後の役割。

鬼道が三歩目を踏んだ。空間の歪みが一段階強まり、倉庫の天井から鉄骨が引き剥がされて落下してくる。避ける体力は残っていない。

視界が白く染まっていく。意識が遠くなる。最後に見えたのは、鬼道の左目の下の刺青と、その奥にある感情のない瞳だった。

——トオルの「いいな」が聞こえた。カイの掌の重さが肩に蘇った。コンビニの前で父親に抱き上げられた子供の、小さな手。あの手の温度を、俺はまだ覚えている。

意識が、落ちる。

その寸前——視界の隅で、何かが光った。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!