第1話
第1話
血の匂いが鼻腔にこびりついたまま、俺は地下鉄の階段を上がった。
四月の夜風が頬を撫でる。午前一時。新宿三丁目の路地裏から表通りに出ると、酔客の笑い声と居酒屋の換気扇が吐き出す油の匂いが混ざり合っていた。さっきまで自分がいた世界とは別の場所みたいだ。いや、別の場所なんだ。ここは表。俺がいるべき場所は裏。
右手の甲に付着した返り血を、ポケットのウェットティッシュで拭う。アルコールの冷たさが皮膚に染みて、拭っても拭っても手の甲の感触が消えなかった。ナイフが肉に沈む瞬間の、あの柔らかい抵抗感。標的は処理した。裏社会で非合法な異能薬物を流通させていた仲介人。ナイフ一本で、三分もかからなかった。男は最期に何か言おうとしていた。唇が動いたのが見えた。でも声にはならなかった。何を言おうとしたのかは、考えないことにしている。十六年生きてきて、こういう仕事をもう何度こなしたか数えるのをやめたのは去年のことだ。
駅前のコンビニの自動ドアが開いて、家族連れが出てきた。
父親がレジ袋を持ち、母親が小さな子供の手を引いている。子供はアイスの棒を咥えて、眠そうに目をこすっていた。こんな時間に何してるんだ、と思った。でも目が離せなかった。父親が子供を抱き上げる。母親が笑う。子供がアイスの棒を落とす。父親が拾う。それだけのことが、ガラス越しに見る映画みたいに遠かった。蛍光灯に照らされた三人の影が歩道に伸びて、重なって、離れていく。子供が父親の肩口に顔を埋めた。小さな手がスーツの襟を掴んでいる。あんなふうに誰かにしがみつける人間がいて、それを当たり前に受け止める人間がいる。その事実が、さっき人を殺した手にじわりと重かった。
俺は足を止めていた自分に気づいて、視線を逸らした。
何を見てるんだ。帰ろう。帰る場所を「帰る場所」と呼んでいいのか分からないが、とにかく戻ろう。
地下三階。東京の地盤の下に、地図にも載らない空間がある。
政府非公認の特務機関「鉄掃部」。異能犯罪の後始末や、表の司法が手を出せない案件の「清掃」を請け負う闇の実働部隊。俺たち——幼少期に身寄りを失い、機関に回収された子供たちは「掃除屋」と呼ばれている。正式にはスイーパー。番号で管理され、名前で呼ばれることは滅多にない。
鉄扉をIDカードで開けると、薄暗い廊下にLEDの白い光が等間隔に並んでいる。消毒液の匂い。いつもの匂いだ。コンクリートの壁に反響する自分の足音だけが、ここに人間がいる証拠みたいだった。
報告室の前で立ち止まると、ドアの向こうから声が聞こえた。
「——〇七八号、本日二三時四五分、処分完了。報告書は明朝までに——」
ドアを開けた。管理官の白崎が端末を操作している。四十代後半、痩せた顔に感情の色がない。この男の目が俺たちに向けられるとき、そこに映っているのは人間じゃなくて備品だ。
「〇九二号。任務完了か」
「はい。標的を処理しました」
「確認する。報告書は端末に上げておけ」
それだけだった。いつもそうだ。労いも評価もない。完了か未完了か、生きて帰ったか帰らなかったか。それだけが管理される。
踵を返しかけたとき、白崎が事務的な口調で付け加えた。
「〇七八号——トオルは今日付で登録抹消された。知っておけ」
足が止まった。
「……処分、ですか」
「任務中の損耗だ。回収不能。以上」
白崎の視線はもう端末に戻っていた。端末の画面が青白く男の顔を照らしている。その横顔に、迷いも感慨もなかった。名簿の一行が消えた。それだけのこと。この男にとっては、在庫リストから型番をひとつ削除するのと同じ作業だ。
トオル。〇七八号。同期だった。俺より二つ年下で、ナイフの扱いが不器用で、訓練のあとにいつも「腹減った」と言っていた。握り方の癖が最後まで直らなくて、教官に何度も拳で殴られていた。それでも次の訓練では同じ握り方をしていた。不器用なんじゃなくて、たぶん頑固だったんだと今になって思う。先月、食堂で隣に座ったとき、小声で「なあ、外ってどんな匂いがする?」と聞いてきた。俺は「排気ガスと飯の匂い」と答えた。トオルは「いいな」と笑った。あいつは外に出る任務がほとんどなかった。等級が低いからだ。この施設の中しか知らない。消毒液とコンクリートと、食堂の薄い味噌汁の匂い。それがトオルの世界の全部だった。
損耗。回収不能。
それだけの言葉で、一人の人間が消える。いや、最初からここでは人間じゃなかった。消耗品だ。使えなくなったら廃棄される道具。
自室に戻った。三畳の独房みたいな部屋。パイプベッドと最低限の私物。壁に窓はない。地下だから当たり前だ。シャワーを浴びて、血と汗を洗い流した。排水溝に赤い水が吸い込まれていく。タイルの目地に残った薄いピンク色が、どれだけ流しても完全には消えなかった。湯の温度を上げた。熱い湯が肩を打つ。皮膚が赤くなるまで温度を上げても、骨の芯にある冷たさは溶けなかった。今日殺した男の顔はもう思い出せないのに、トオルの「いいな」という声だけが湯気の中で繰り返し聞こえた。明日もまた同じ日が来る。同じ任務、同じ報告、同じ消毒液の匂い。
ベッドに横になって天井を見た。
コンビニの家族連れが頭に浮かんだ。父親が子供を抱き上げる映像が、網膜に焼きついたみたいに消えない。あの子供はきっと明日も笑っている。温かい布団で眠って、朝になったら母親に起こされて、朝飯を食べて学校に行く。
俺は何のために生きている。
その問いに答えが出たことは一度もない。考えるだけ無駄だと分かっている。感情は任務の邪魔になる。殺せと言われたら殺す。それが掃除屋だ。でもトオルの「いいな」という声が耳の奥に残っていて、消毒液の匂いの中で、それだけが妙に生々しかった。
翌朝、招集がかかった。
いつもと違った。通常任務の通達は端末に届く。だが今回は管理官からの直接召集だった。報告室ではなく、奥の作戦会議室。俺がこの部屋に入るのは初めてだった。
白崎ともう一人、見たことのない男が座っていた。黒いスーツ。上層部の人間だと直感で分かった。纏っている空気が違う。白崎ですら、この男の前ではわずかに姿勢を正している。会議室の空調は廊下より低く設定されているのか、入った瞬間に肌が粟立った。長机の上には書類が一部だけ置かれている。俺の番号が印字されたタブが見えた。
「〇九二号、氷室蓮。着席しろ」
スーツの男が俺の本名を呼んだ。ここで名前を呼ばれることの異常さに、背筋が冷えた。
「次の任務を通達する。難度は特甲。詳細は追って開示する」
特甲。聞いたことはある。生還率が著しく低い任務に割り当てられる等級だ。同期の中でも特甲に投入されて戻ってきた人間はいない。投入された者の名前は、翌週には端末の名簿から消えていた。白崎が読み上げる「登録抹消」の四文字とともに。トオルと同じように。
「任務内容は」
「現時点では機密だ。二十四時間後に作戦概要を開示する。それまで通常待機」
質問するな、という意味だ。俺は頷いた。頷くしかなかった。
だが男が書類に目を落とした一瞬、白崎の表情が見えた。
目を逸らしていた。
あの感情のない管理官が、俺から目を逸らした。まるで——これから廃棄される道具を見たくないとでも言うように。
会議室を出た。廊下を歩きながら、さっきの白崎の表情が反芻される。あれは何だ。気のせいか。いや、違う。何年もあの男の下で働いてきた。無表情の中のわずかな揺らぎを読むことくらい、掃除屋の勘で分かる。
白崎は知っている。この任務の本当の意味を。
そして、それを俺に言えない。
自室に戻り、ベッドの端に座った。膝の上で拳を握る。トオルが消えた翌日に、俺に特甲任務。偶然じゃない。たぶん、ずっと前から決まっていた。トオルの次は俺。その次は——
廊下の向こうから、訓練に向かう年少の掃除屋たちの足音が聞こえた。揃った靴音。感情を殺した顔。かつての俺と同じ目をした子供たち。あの中の誰かも、いつか番号だけで呼ばれる最後の日が来る。「損耗」の二文字で片付けられる日が。
拳の中で、爪が掌に食い込んだ。痛みだけが、今の俺が生きている証拠だった。
二十四時間後。俺はまだ、何も知らない。