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無属性令嬢と始原の魔法

第2話 第2話

第2話

第2話

あの夜から三日が経っても、右腕の感覚が消えなかった。

朝、目が覚めて最初に意識するのがそこだった。手袋越しの熱。正確に引き戻された、あの力加減。強すぎず、弱すぎず、けれど決して離さないという意志だけが指先に宿っていた。夢の続きのように曖昧なのに、肌に刻まれた記憶だけが妙に鮮明で、自分の腕を見つめるたびに心臓の奥が小さく軋んだ。無意識のうちに、右手で左の手首を握ってみる。当たり前だけれど、まるで違う。自分の指は細くて冷たいだけで、あの夜の温度は再現できなかった。

名前も知らない。声すら聞いていない。

それなのに、銀灰の瞳の色だけが、まぶたの裏に焼きついて離れない。

朝食の席で、父はいなかった。王宮への出仕が続いているのだろう。広すぎる食卓に私ひとり。銀の食器が朝日を受けて冷たく光り、給仕の足音だけが規則正しく響いている。椅子の背もたれに身体が沈むたび、自分がこの空間に似つかわしくないような錯覚に襲われる。六人掛けの食卓、銀の燭台、壁に掛けられた母の肖像画。すべてが正しい場所にあるのに、私だけがどこにも収まっていない。パンをひとくち齧って、紅茶を啜った。温かいはずの液体が、喉を通り過ぎるとすぐに冷えていく。この屋敷の朝はいつもそうだ。温度というものが、どこにも留まらない。

——近衛騎士。

あの軍装は間違いなく近衛のものだった。濃紺の上着に銀糸。王宮の中枢を守る精鋭。けれど近衛騎士団の詰所は王宮の奥棟にあり、令嬢が理由もなく足を踏み入れられる場所ではない。ましてや「無能」の私が、騎士の名を尋ねて回るなど——想像するだけで、あの令嬢たちの笑い声が聞こえてくるようだった。「無属性のリーゼロッテが近衛騎士に御執心ですって?」——その台詞まで容易に浮かぶ。唇を噛んで、紅茶のカップを置いた。陶器が受け皿に触れる小さな音が、静まり返った食堂にやけに大きく響いた。

食器を下げに来た侍女のマリーが、私の顔を覗き込んだ。

「お嬢様、どこかお加減でも」

「……いいえ。少し考え事を」

「まあ。朝から難しいお顔をなさって」

マリーは私より五つ年上で、母が亡くなる前からこの屋敷に仕えている。他の使用人たちが私に距離を置くようになった後も、彼女だけは変わらなかった。ふわりとした栗色の髪を後ろでまとめ、いつも少しだけ襟元が乱れている。きっちりした性格のくせに身なりにだけ無頓着なのが、どこか安心する。

「マリー」

「はい」

「——近衛騎士団に、銀色の髪の騎士はいるかしら」

口にしてから、何を訊いているのだろうと思った。声が思いのほか小さくて、自分でも驚いた。まるで誰かに聞かれてはいけない秘密を打ち明けるみたいに。マリーが目をぱちぱちと瞬かせる。

「銀色……銀灰のお髪でしたら、おひとり心当たりが。アルヴィン様、だったかと。近衛の中でもかなり若い方で、剣の腕は随一と聞きますけれど」

「知っているの」

「お名前くらいは。王宮の侍女仲間の間では、ちょっとした話題ですから。だってあの方、誰にも無愛想なんですもの」

マリーが声をひそめた。噂話をするときの、少し楽しそうな表情。エプロンの裾を無意識に握りながら、身を乗り出すようにして続ける。

「挨拶をしても会釈だけ。社交辞令も一切なし。騎士団の宴席にも顔を出さないとか。侍女たちの間では『氷の騎士』なんて呼ばれていますよ」

氷の騎士。その呼び名と、あの掌の温度が結びつかなかった。氷というなら、あの手はあまりにも温かった。人をあんなふうに引き止める手が、冷たいはずがない。

「どうしてそんなことをお尋ねに?」

「……なんでもないの」

なんでもないはずだった。なんでもないことにしなければならなかった。私はそれ以上を訊くのをやめた。マリーは少し不思議そうにしていたが、深追いはしなかった。彼女のそういうところが、ありがたい。

---

午後、一通の書状が届いた。

王宮の紋章が押された封蝋を開くと、来月の祝典魔法演習への招待状だった。毎年この時期に開催される、若い貴族たちが魔法の腕前を披露する公式行事。各家の令嬢や子息が自らの属性魔法を衆目の前で展開し、その技量と美しさを競う。社交界における実力の証明であり、縁談の場でもある。

私のもとにも、毎年届く。侯爵家の令嬢だから。

けれど招待状に挟まれた別紙の文面が、私の指を止めた。

『ブレンハイム侯爵令嬢リーゼロッテ殿には、演習見学席をご用意いたします』

見学席。演じる側ではなく、見る側。同じ侯爵令嬢でも、魔法を持たない私には舞台ではなく観客席が割り当てられる。毎年のことだった。毎年、この一行を読むたびに、紙の端が少しだけ滲んで見える。涙ではない。ただ文字の焦点が合わなくなるのだ。一瞬だけ。それでも、その一瞬が喉の奥をきつく締め上げる。

招待状を畳んで、引き出しに仕舞った。去年のもの、一昨年のものと重なる。薄い紙が積み重なっていく。私の「無能」の記録のように。

気づくと、庭園に足が向いていた。

夕暮れの空が薄紫に染まり始めている。東屋の石のベンチはまだ日中の温もりを残していて、腰を下ろすとスカート越しにその熱がじんわりと伝わった。薔薇の茂みが夕風に揺れて、花弁の影が足元で踊っている。どこか遠くで小鳥が鳴いた。夕暮れ特有の、少し寂しげな声。空気には薔薇の甘い匂いと、日に焼けた石の乾いた匂いが混ざっていた。

いつもの魔導書を広げた。

革の表紙の手触りは馴染みきっていて、目を閉じていてもどの頁がどこにあるか分かるほどだった。角が擦り切れ、背表紙の金箔は半分以上剥がれている。母の書斎から持ち出して以来、何百回めくったか知れない。虫食いで途切れていたあの一節の続きを探すように、何度も読み返した箇所を指でなぞる。

と、ふいに目が留まった。

これまで何度もめくっていたはずの頁の、隅の方。インクが褪せて、茶色く変色した紙の地色にほとんど溶け込んでいた一文。夕暮れの斜めの光がちょうどその部分に差し込んで、普段とは違う角度から文字を照らしていた。

——「属性なき者こそ、始まりに最も近い」

息が止まった。

読み間違いかと思い、目を凝らした。確かにそう書いてある。古い言い回しで、ところどころ虫食いはあるけれど、文意は明瞭だった。「始まり」という言葉の横に、さらに薄い文字で註が添えてある。

「万象の源たる始原の——」

そこから先は、頁の端が千切れて失われていた。

始原。聞いたことのない言葉だった。少なくとも、今の魔法学の教本には載っていない。属性で分類されない何か。属性の「前」にあるもの。それが何を意味するのか、この本の著者が何を伝えようとしたのか、破れた頁の向こうに答えがある。

手が震えていた。

期待しているのだと気づいた。期待など、とうに捨てたと思っていたのに。「無属性」が空白ではなく、何かの手前にいるということ。その可能性が、たった一行の古い文字に過ぎないとしても、胸の底で小さな火が灯るのを止められなかった。

同時に、怖かった。期待は裏切られるためにある。それはこの六年で嫌というほど学んだことだった。十歳の適性検査で「無属性」の烙印を押されてから、何度希望を持ち、何度打ち砕かれたか。もう数えたくもない。

魔導書を閉じて、胸に抱えた。革の表紙が頬に触れる。冷たくて、少しざらついていて、けれど不思議と落ち着く。母の手とは似ても似つかないのに、この本に触れているときだけ、あの安心感の欠片が戻ってくる気がする。

空を見上げた。最初の星が、薄紫の空にひとつだけ瞬いている。

——演習の日が、来月に迫っている。

見学席に座る自分を想像した。隣の令嬢が華やかに魔法を操る横で、何も持たない手を膝の上に置いている自分。毎年そうだった。毎年そうなのだと、もう諦めていたはずだった。

けれど今、この本の一節が目に焼きついて離れない。「属性なき者こそ、始まりに最も近い」。その言葉が、見学席の自分に重なったとき——屈辱とは違う何かが、静かに込み上げてきた。

それが希望なのか、執着なのか、まだ分からない。

分からないまま、私はこの本を抱えて立ち上がった。東屋を出ると、夜風が髪を攫っていく。右腕が、またあの夜の温度を思い出す。掌の輪郭。銀灰の瞳。名前だけを知った、遠い人。

アルヴィン。

口の中で転がしてみた名前は、思ったよりも確かな手触りをしていた。

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