第1話
第1話
夜会の灯りは、いつだって残酷なほど美しい。
大広間の天井から吊り下げられた魔導灯が、琥珀色の光を惜しみなく降り注いでいる。磨き上げられた大理石の床にその光が反射して、まるで会場そのものが淡く呼吸をしているように見えた。令嬢たちの絹のドレスが揺れるたび、宝石が瞬くたび、空気がきらめく。笑い声が重なり、グラスが触れ合い、楽団の弦の音色がそのすべてを柔らかく包み込んでいた。
甘い花の香りが漂っている。テーブルに飾られた白百合だろうか。華やかな香水の残り香と混じり合って、息を吸うだけで胸が詰まりそうになる。この場所の空気はいつもそうだ——美しくて、甘くて、私にはどこか毒に似ている。
私はその光景を、柱の陰から眺めていた。
手にしたグラスの中身はとうに温くなっている。口をつけたのは最初の一口だけ。果実酒の甘さが舌の上に残っているのに、喉の奥はひどく乾いている。それでも何かを持っていなければ、この場所で立っていることすら許されない気がした。グラスは飲み物ではなく、ここに居ていい理由として握っているのだ。
「——あら、リーゼロッテ様もいらしてたの」
声が聞こえた。私に向けられたものではない。三歩ほど先、扇で口元を隠した令嬢たちが、ちらりとこちらを見ている。薄桃色のドレスを着た令嬢が、翡翠の耳飾りを揺らしながら小首を傾げた。
「毎回いらっしゃるわよ。侯爵家ですもの、招待は届くのでしょう」
「でも、お気の毒よね。魔法の話題になると、とたんに居場所がなくなるんだから」
くすくすと笑う声。扇の陰に隠れたつもりだろうが、この距離では全部聞こえる。彼女たちもそれを知っている。知っていて、聞こえるように話すのだ。
背中を柱に預けたまま、私は指先に力を込めた。グラスの脚がきしむ。怒りではない。怒りならまだ楽だった。これは、もっと静かなものだ。慣れてしまった痛みが、古傷の上をなぞるように走る、あの鈍い感覚。笑い返すこともできず、言い返すこともできず、ただ聞こえないふりをする。その繰り返しにも、もうずいぶん慣れてしまった。
無属性。
その二文字が、私の世界を規定している。この国では魔法適性が人の価値を測る物差しになる。火、水、風、土——どれかひとつでも属性を持っていれば、それだけで社交の席に居場所が生まれる。属性持ちの令嬢たちは、自分の魔法を見せ合い、褒め合い、それが会話の糸口になり、友情の土台になる。けれど私の適性測定の結果は、空白だった。どの属性にも反応しない、空っぽの器。侯爵令嬢でありながら「無能」と囁かれる理由は、たったそれだけのことだった。
たったそれだけのことが、もう六年も続いている。
十歳の適性測定の日、水晶球に手を触れても何も起きなかった光景を、今でも鮮明に覚えている。試験官が困惑した顔で二度、三度と測定をやり直し、最後には首を横に振った。あの沈黙の重さを、私は一生忘れないだろう。
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夜会を早々に抜け出して、私は屋敷に戻った。侍女のマリーが「お早いお帰りですね」と目を丸くしたが、何も訊かずに寝巻きを用意してくれた。温かい紅茶を淹れましょうか、と小さく尋ねる声に「お願い」と答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。彼女のそういうところに、いつも救われる。
翌朝、庭園の東屋に腰を下ろして、古い魔導書を広げた。
朝露がまだ庭の芝を濡らしていて、空気がひんやりと湿っている。遠くで小鳥がさえずり、時おり風が薔薇の茂みを揺らして、かすかに甘い匂いを運んでくる。この庭だけは好きだった。誰の視線もなく、誰の囁きもない。ここでなら、息が楽にできる。
革の表紙はすっかり色褪せて、頁の端は茶色く変色している。王宮の書庫の隅で埃を被っていたものを、三年前に譲り受けた。誰も見向きもしない本だった。現代の魔法体系とは異なる、古い時代の魔法理論が記されている——らしい。「らしい」というのは、書かれている内容の大半が、今の魔法学では説明できないものだからだ。
それでも私は、この本を読むのが好きだった。
ここに書かれた魔法は、属性で分類されていない。頁をめくるたびに、「無属性」という烙印が少しだけ軽くなる気がした。気がするだけだと分かっていても、それは私にとって小さな安息だった。この本の中の世界だけが、私を「空っぽ」と呼ばない。
「リーゼロッテ」
本から顔を上げると、父が庭園の入口に立っていた。朝から正装をしているということは、これから王宮に出仕するのだろう。紺色の上着に銀の釦が朝日を受けて光っている。その姿は堂々として隙がなく、侯爵という地位そのものを纏っているように見えた。
「昨夜は早く帰ったそうだな」
「ええ。少し体調が優れなかったので」
嘘だった。父もそれを知っている。知っていて、それ以上は問わない。父の目が一瞬だけ私の手元の魔導書に落ちたが、すぐに視線を外した。古い本を読んでいることを、父は快く思っていない。けれどそれも、口には出さない。この家ではすべてがそうだ。言葉にしないことで、互いの失望を見ないふりをしている。
「来月の叙勲式には出席しなさい。ブレンハイム侯爵家の令嬢が社交を避けているという噂は、家名に関わる」
「——はい、お父様」
父の靴音が遠ざかっていく。振り返ることはない。私のことを心配しているのではなく、家名を心配しているのだ。その違いは、もうずっと前から分かっている。
お母様が生きていた頃は違った。
魔法が使えなくても、あの人は私の手を握って、「あなたにはあなたの輝き方がある」と言ってくれた。信じられたわけではない。けれどあの声があるだけで、世界は今より少しだけ広かった。母の手はいつも温かくて、少し荒れていた。侯爵夫人なのに、自分で庭の薔薇を世話するから。あの手に触れるたび、身分とか属性とか、そういうものが遠くなった。
三年前、母が逝った日、庭園の薔薇が季節外れに咲いていたことを覚えている。甘い匂いが喪服の黒に似合わなくて、私はそのちぐはぐさの中で泣くことすらできなかった。父は葬儀の間ずっと前を向いていて、私の隣にいたのにどこか遠い人のようだった。あの日を境に、この屋敷からぬくもりと呼べるものが消えた。
魔導書の頁を風がめくる。
「属性とは器の形である。器なき者は——」
その先は虫食いで読めない。いつもここで途切れる。まるで、私に答えを教えることを誰かが拒んでいるように。
指先で破れた頁の端をなぞった。答えがあるのかも分からない。けれど、この続きを読みたいと思う気持ちだけが、私をこの庭に毎朝連れてくる。
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その夜のことだった。
王宮の晩餐に出席した帰り、私は人気のない回廊を歩いていた。大広間の喧騒から離れたかった。今夜も何人かの令嬢が、私の方を見て小さく笑っていた。慣れたはずだった。慣れたはずなのに、足が勝手にこの薄暗い道を選んでいた。
回廊の窓から月明かりが細く差し込んでいる。石畳に白い線を引くようなその光が、磨かれた床を滑りやすくしていることに、私は気づかなかった。冷えた空気が頬を撫で、どこかから夜風に乗って草の匂いが届く。壁に掛けられた古い肖像画が、月光の中で不思議と生きているように見えた。
足がもつれた。
ヒールの踵が石畳の継ぎ目に引っかかったのだと、後になって分かった。とっさに壁に手を伸ばしたが、指先は空を掴むだけで——体が傾いでいく。ドレスの裾が足に絡みつく。冷たい石の床が近づいてくる。ぶつかる、と思った瞬間。
腕を掴まれた。
強い力だった。けれど乱暴ではない。ちょうど私の体が倒れきる寸前で、正確に引き戻すような。手袋越しでも分かる、硬い指の感触。訓練された人間の手だった。
「——」
声は、なかった。
体勢を立て直して顔を上げると、そこに銀灰の瞳があった。
月明かりの中で、その色は冷たく透き通って見えた。近衛騎士の軍装。濃紺の上着に銀糸の刺繍、腰には細身の剣。整った顔立ちには、表情と呼べるものがほとんどない。私を見ているのか、私の向こう側を見ているのか、判断がつかなかった。
ただ、一瞬——本当に一瞬だけ、その瞳が私を映したような気がした。月光を受けた銀灰の虹彩の奥に、何かが揺らいだ。驚きでも、哀れみでもない。名前のつけられない、微かな光。
彼は何も言わなかった。
私の腕を離すと、そのまま踵を返して回廊の闇に歩いていく。軍靴の音が石畳に規則正しく響いて、やがて角を曲がって消えた。
残されたのは、月明かりと、静寂と、右腕に残った掌の温度だけだった。
あの背中は冷たかった。声もなく、名乗りもなく、振り返りもしない。それなのに、掌だけが温かかった。確かに、温かかった。手袋越しだったのに、そこだけ肌に直接触れられたような熱が残っている。
その矛盾が、胸のどこかに刺さった。小さな棘のように、抜こうとしても指が届かない場所に。
私は回廊に立ち尽くしたまま、自分の腕を押さえていた。あの人の瞳の色を、もう一度思い出そうとしている自分に気づいて、慌てて歩き出した。
靴音が回廊に響く。さっきの彼の足音とは違う、不揃いで頼りないリズム。それがなぜか、今の自分をそのまま表しているようで、少しだけ笑えた。
——ただの、偶然だ。
そう言い聞かせる声が、月明かりの中でひどく頼りなく響いた。