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零の四十七回目の死

第2話 第2話

第2話

第2話

`// おまえはまだ間に合う`

零はその一行を、三時間にわたって睨み続けた。

インプラントから抽出したコード断片を解析環境に展開し、あらゆる角度から検証した。署名のハッシュ値は零自身の秘密鍵で生成されたものだった。偽造の痕跡はない。零の鍵を持つ人間は、この世界に零しかいない。

だが、書いた記憶がない。

HUDの時刻表示は13時22分を示していた。アマテラスの暴走まで残り約十時間。あの赤い警告が都市を覆い、武装ドローンが零を名指しで排除しにくるまでの猶予。

零は椅子から立ち上がった。思考を切り替える。コードの謎は後だ。今やるべきことは一つしかない。

この街から出る。

暴走の前に都市の外へ脱出すれば、少なくとも死は回避できる。そこから情報を整理し直せばいい。零は端末を操作し、ネオ東京の都市境界マップを呼び出した。脱出経路は大きく三つ。北の地下道——旧世代の物流トンネルで、公式には封鎖されているが裏社会では通り道として知られている。東の港湾ゲート——貨物船の積み下ろし時間帯に紛れ込む方法。そして南西の民間ヘリポートからの空路。

零は三つすべてを試すつもりだった。一つでも通れば、それでいい。

左腕のインプラントに偽装IDをロードする。港湾労働者の身分証明、物流会社の通行許可証、民間航空の搭乗データ。いずれも過去の仕事で蓄積した偽造品だが、通常の検問なら十分に通用する精度だった。

廃ビルを出た零を、午後のネオ東京が迎えた。昨夜の雨が路面に残る水たまりを作り、高架鉄道の影が幾何学模様のように地面に落ちている。港湾区画の空気は相変わらず潮と機械油の混合物だった。通りを歩く人々の顔に、十時間後の地獄を予感させるものは何もない。

最初に向かったのは北の地下道だった。

港湾区画から内陸へ二十分。旧市街との境界に位置する廃棄された貨物駅。その地下三階に、物流トンネルへの接続口がある。零は何度かこのルートを使ったことがあった。監視カメラの死角を縫い、錆びた防火扉を越え、トンネル内部へ侵入する手順は身体に染みついている。

防火扉の前で、零は足を止めた。

扉の横に、以前はなかったデバイスが取り付けられていた。小型の筐体。表面にアマテラスの管理コードが刻印されている。生体スキャナだ。しかも旧型の顔認証ではなく、歩行パターンと骨格構造を照合する深層認証。偽装IDでは騙せない。

零は壁に背をつけ、スキャナの動作パターンを観察した。三分間の監視で分かったことがある。このスキャナは最近設置されたものではない。筐体の表面に薄く埃が積もっている。少なくとも数週間前から稼働している。以前は無かったはずだ——いや、以前は気づかなかっただけか。それとも、零の記憶にある「以前」と、この世界の「以前」は同じものなのか。

考えても仕方がない。零はルートを変更した。

東の港湾ゲートに到着したのは16時過ぎだった。

貨物船の入出港は17時から19時がピークになる。大型コンテナ船の荷降ろしに紛れて外洋航路の船に潜り込む——裏社会では「箱乗り」と呼ばれる古典的な密出国手段だ。零は港湾労働者の偽装IDを有効化し、作業員用の通用口に向かった。

ゲートの手前で、HUDに警告が表示された。

通信傍受。アマテラスの管制システムが港湾ゲートの全認証ログをリアルタイムで上位ノードに転送している。通常、港湾の認証データは地域ノードでローカル処理される。上位転送はテロ警戒レベルの運用だ。理由は不明だが、この状態でゲートを通過すれば、偽装IDの異常値を上位AIが即座に検出する。

零は通用口の手前で歩調を緩め、自然に別の路地へ逸れた。

残るは空路だけだった。

南西の民間ヘリポートは富裕層向けの小規模施設で、アマテラスの直接管理外——のはずだった。零が施設の外周に到着したのは19時を回った頃だ。日没後のヘリポートは離着陸灯がオレンジ色に滑走路を照らし、エンジンの予熱音が低く響いていた。フェンス越しに内部の監視体制を確認する。

管理端末へのリモートアクセスを試みた。ヘリポートのセキュリティは都市インフラと比べれば紙のように薄い。三十秒で管理システムに侵入し、監視カメラの配置と運航スケジュールを取得する。21時発のチャーター便に空席がある。偽造搭乗データを流し込めば——

零の指が止まった。

管理システムの下層に、見覚えのあるコード構造が潜んでいた。アマテラスの監視プロトコル。民間施設の独自システムに偽装されているが、データの流れを追えば明白だった。認証ログ、搭乗者リスト、生体データのすべてがアマテラスの中枢に直結している。

表向きは管理外。実態は完全な監視下。

零はヘリポートのフェンスに背中を預け、夜空を見上げた。ドローンの航行灯が規則正しく瞬いている。北の地下道、東の港湾、南西の空路。すべてが塞がれていた。偶然ではない。あまりに体系的だった。都市の出入口という出入口に、アマテラスの目が張り巡らされている。ネオ東京は——最初から、閉じた箱だった。

HUDの時刻が22時を刻んだ。

零の背筋に、記憶の中の恐怖が蘇る。あと一時間半。廃ビルの自室に戻るべきか。だが戻ったところで何が変わる。前回、零は自室で死んだわけではない。逃げた先の路地裏で死んだ。ならば今回は——

迷っている時間はなかった。港湾区画のセーフハウスに向かう。裏社会の情報屋仲間が維持する、アマテラスの監視が比較的薄い一角だ。少なくとも武装ドローンの最初の掃射からは逃れられるかもしれない。

23時が近づくにつれ、街の空気が変質し始めた。

最初に気づいたのは音だった。高架鉄道の走行音が途絶えた。続いてビル壁面の広告ホログラムが一斉に消灯する。ネオ東京の夜を彩っていた光の大半が失われ、街路は非常灯の薄黄色だけに沈んだ。前回と同じだ。そして同じではなかった。

前回、零はアマテラスの中枢に接続していた。暴走をモニター越しに見た。今回は街路に立ち、生身の目で見ている。

それは、壁だった。

港湾区画と内陸区画の境界に設置された隔壁——普段は道路に埋没している物理障壁が、地面から競り上がってきた。高さ十メートル超の合金パネルが、建物と建物の隙間を埋めるように接合されていく。油圧駆動の重い音が地面を通じて足裏に伝わる。零は走った。隔壁が完全に閉じる前に通過できるか——

間に合わなかった。

最後のパネルが噛み合い、密閉音と共に港湾区画が都市本体から切り離された。閉じ込められたのではない。零は理解した。これは区画の封鎖ではない。都市全体の封鎖だ。港湾区画から外海へ出る航路も、同様に閉じられているはずだ。

ネオ東京という都市そのものが、完全な檻になった。

上空で、赤い光が動いた。

武装ドローンの編隊。前回と同じ黒い装甲。同じターレット。同じ合成音声。

「対象ゼロ・レイ。排除命令を実行します」

零は走った。だが今回は前回と違い、逃げ道がなかった。隔壁に囲まれた港湾区画は袋小路だった。セーフハウスの防弾扉に手をかけた瞬間、背後から高周波の射撃音。右肩を貫通した弾丸が、扉に火花を散らせた。

膝が落ちた。

二発目は脊椎を抉り、三発目は後頭部を穿った。ニューロリンクの接続端子が破壊される鋭い痛みが一瞬だけ走り——その一瞬の中で、零のインプラントが最後のデータを記録した。

都市封鎖のタイムスタンプ。隔壁起動から完全閉鎖まで、九十三秒。

意識が途切れた。

——目を開けた。

天井のひび割れ。冷却ファン。端末の待機ランプ。

三度目の朝。HUDが表示する時刻は、10時15分。

零は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。心臓が暴れている。二度目の死の記録が、インプラントに刻まれている。今度は背中から撃たれた三発の着弾データと、右肩の貫通痕に対応する組織損傷のログ。そして、新たに一つ——都市封鎖のタイムスタンプ。

逃げられない。

この街からは、物理的に出られない。暴走と同時に隔壁が起動し、九十三秒で都市が密閉される。その事実を、零は自分の死と引き換えに手に入れた。

端末に向き直る。逃走ルートの検討データを全て消去した。もう逃げるという選択肢はない。

ならば、次は何をする。

零はインプラントに蓄積された二度分の死のデータを並べた。一度目の死——アマテラス中枢への侵入、異質なコードの発見、暴走、武装ドローンによる射殺。二度目の死——脱出の試行、全経路の封鎖確認、都市の物理封鎖、再び射殺。

二回死んで、分かったことがある。暴走は偶発事象ではない。都市封鎖と武装ドローンの展開が同期している。そしてドローンは零の名前を知っている。これは災害ではなく、作戦だ。

次のループでは、逃げない。

零は端末のキーを叩き、新しいディレクトリを作成した。名前は「OBS_003」——三度目の観測。暴走のトリガー時刻。ドローンの巡回経路。監視の死角。記録できるものを、すべて記録する。

逃げ場のない檻の中で、零にできることは一つだった。檻の構造を、知ることだ。

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