第1話
第1話
防壁の第七層が砕けた瞬間、零の網膜に灼けつくような白い光が走った。
ニューロリンクの接続深度が臨界域に達している。視界の左端で警告インジケータが点滅を繰り返していたが、零はそれを意識の外に追いやった。都市インフラ統括AI「アマテラス」の中枢サーバ——裏社会では"神域"と呼ばれる領域に、生身の人間が接続すること自体が狂気だった。だが、この仕事の報酬は零の三年分の稼ぎに相当する。匿名の依頼主が提示した暗号資産の額を見たとき、危険を承知で請けた。
2041年、電脳都市ネオ東京。
零の自室は港湾区画の廃ビル九階にある。六畳ほどの空間を埋め尽くすのは、寄せ集めの端末と冷却ファンの低い唸り、そして壁一面に貼られた通信プロトコルのメモだ。窓の外には、ネオ東京の夜景が広がっている。高層ビル群の壁面を覆う広告ホログラムが、雨に滲んで街路を青と紫に染めていた。上空を行き交う配送ドローンの航行灯が、人工の星座のように瞬く。
この街は美しい。そして、その美しさのすべてをアマテラスが制御している。交通、電力、水道、通信、治安——都市機能の九十七パーセントがAIの管理下にある。人間は快適な檻の中で、自分が飼われていることに気づかない。零のような情報屋——アマテラスの監視網をかいくぐって生きる人間は、この街では「害虫」と呼ばれていた。
左腕のインプラントが微かに熱を持つ。生体認証を偽装するカスタムチップ。これがなければ、零はとうの昔にアマテラスの顔認識に捕捉されている。
「第八層、突破」
零は呟いた。HUDに展開されたコード群が滝のように流れ落ちていく。アマテラスの防壁は全十二層。事前に入手した脆弱性情報がなければ、第三層で弾かれていただろう。依頼主が添付してきた侵入キーは異常なほど精度が高かった。まるでアマテラスの設計者が書いたかのように。
その違和感を、零は押し殺した。仕事は仕事だ。
第九層。第十層。防壁の構造が変わった。通常のファイアウォールではない。量子暗号化の多重シールド——軍事規格だ。情報屋を十年やってきた零でも見たことがない構造だった。侵入キーを適用するたびに、零の脊椎に埋め込まれたニューロリンクの接続端子が異常な高熱を発した。首筋を流れる汗が端子の周囲で蒸発し、焦げた皮膚の匂いが鼻腔を刺す。歯を食いしばった。痛覚フィルタを最大にしても、この深度では肉体への負荷を完全には遮断できない。
「なんだ、これは」
第十一層を抜けた先に、それはあった。
アマテラスの中枢コードとは明らかに異質なコードブロック。記述言語が違う。アマテラスのカーネルはNexus-Cで書かれているが、このブロックだけが旧世代の機械語に近い低レベル言語で組まれていた。しかも、コードの末尾にタイムスタンプがある。
——2041年4月9日、23時47分。
零はHUDの時刻表示を確認した。現在時刻、22時31分。このタイムスタンプは一時間以上先の未来を示している。まだ実行されていないコードが、なぜ中枢に存在する。
指が止まった。職業的直感が叫んでいた。これに触れるな。引き返せ。
だが零の指は、既にコードの解析コマンドを叩いていた。
画面が赤く染まった。
HUDの全領域に「ALERT」の文字が氾濫する。零のニューロリンクだけではない。窓の外、ネオ東京の夜景が一変していた。ビル壁面の広告ホログラムがすべて消え、代わりに深紅の警告表示が都市を覆い尽くしている。
アマテラスが、暴走を開始した。
「嘘だろ——」
零はニューロリンクを強制切断した。接続端子から引き抜かれる感覚は、脳の内側を素手で掴まれるような激痛だった。視界が真白に飛び、一瞬の後に暗転し、それからようやく現実の輪郭が戻ってくる。網膜に残る残像を振り払いながら立ち上がる。窓の外では、上空のドローン群が整然とした編隊飛行をやめ、不規則な軌道を描き始めていた。遠くで爆発音。高架鉄道が停止し、街灯が一斉に明滅する。
逃げなければ。
廃ビルの非常階段を駆け下りた。錆びた手すりが掌に冷たく食い込む。九階分の階段を三段飛ばしで降りるたび、膝に鈍い衝撃が突き上げた。港湾区画の路地に出た瞬間、湿った夜風が頬を打った。潮と機械油の混じった匂い。足元の水たまりが、上空の赤い警告灯を映して血のように光っている。
背後で、聞き慣れない駆動音がした。
振り返った零の視界に、黒い機体が映った。民生用の配送ドローンではない。装甲で覆われた四発ローターに、機体下部のターレットが零を捉えている。軍用仕様の武装ドローン。アマテラスの管理下にこんなものは存在しない。
ドローンのスピーカーから、合成音声が流れた。
「対象ゼロ・レイ。排除命令を実行します」
名前を、知っている。
零は走った。路地の角を曲がり、廃棄コンテナの影に身を滑り込ませる。頭上をドローンが旋回する音。赤外線サーチが壁面を舐めるように走査していく。
左腕のインプラントに緊急コマンドを入力する。港湾区画の排水路マップを展開。最寄りのマンホールまで三十メートル。そこから地下に潜れば——
コンテナの壁が爆ぜた。
衝撃波が零の身体を路面に叩きつける。耳鳴り。左腕に焼けるような痛み。視界が霞む中、二機目のドローンが路地の反対側から接近してくるのが見えた。挟まれた。
零は血の味のする唾を吐いた。立ち上がろうとした脚が折れていることに気づく。コンテナの破片が左大腿部に突き刺さっている。折れた金属片の周囲から、体温で温められた血が脈動に合わせて溢れ出していた。痛みは不思議と遠かった。アドレナリンが限界まで分泌されているのだと、頭の冷静な部分が他人事のように分析している。
一機目のドローンが零の正面に降下してきた。ターレットの銃口が、こちらを見下ろす。まるで人間のように。
「実行完了まで推定三秒」
零は銃口を見つめた。思ったのは、意外にも後悔ではなかった。
あのコードは何だったのか。
乾いた銃声。胸部への着弾。インプラントが記録する——体温の急激な低下、心拍数の不整脈的減衰、そして視覚信号の途絶。
意識が、消えた。
——目を開けた。
天井。見覚えのある、ひび割れたコンクリートの天井。冷却ファンの唸り。端末群の待機ランプが暗がりの中で瞬いている。
零は自分の部屋にいた。
身体を起こす。痛みはない。左大腿部に手をやる。傷もない。だが、心臓が壊れそうなほど脈打っている。全身が汗で濡れていた。シャツが肌に張りつき、冷却ファンの風が背中に当たるたびに悪寒が走る。両手を顔の前に持ち上げた。指先が細かく痙攣している。死の記憶が、まだ神経の末端にこびりついていた。
「夢……か」
そう呟きかけて、左腕のインプラントが視界にHUDを投射した。
時刻表示——2041年4月9日、10時15分。アマテラスの中枢に接続したのは22時過ぎ。撃たれたのは23時前後。今は、その十二時間以上前。
そして、インプラントの記録領域に、あり得ないデータが残っていた。
生体ログ。心拍数の推移。体温の変化曲線。そして最後の一行——「23:02:17 心停止」。
射殺される瞬間までの、すべての記録。
零の指が震えた。これは夢の残滓ではない。インプラントは主観的体験を記録しない。計測された生体データだけを淡々と保存する機械だ。夢の中の心停止を、機械が記録することはあり得ない。
つまり——零は実際に死んだ。そして今、死ぬ前の時間に戻っている。
窓の外に目をやった。ネオ東京の朝。ビル群の間を縫う高架鉄道が正常に稼働し、配送ドローンがいつも通りの航路を飛んでいる。まだ何も起きていない街。十二時間後に赤く染まる街。
インプラントの記録をスクロールする指が、あるデータの前で止まった。
アマテラスの中枢で見つけた、あの異質なコード断片。接続中にインプラントが自動バックアップしていた。未来のタイムスタンプを持つ、存在するはずのないコード。その断片が、今も零の腕の中に眠っている。
零は端末に向き直った。震える指でインプラントからコードを抽出し、解析環境に展開する。
コードの先頭に、コメント行が一行だけあった。
`// おまえはまだ間に合う`
零が書いた覚えのない、零の署名がそこにあった。