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社畜スキルで異世界成り上がり

第7話 第7話

第7話

第7話

柵が砕けたのは、月が最も高い位置に来た瞬間だった。

それまでの数時間は、不気味なほど静かだった。見回りの交代を二度こなし、ドルクと二人で南面に立っていた。森は沈黙していた。虫の音すら聞こえない。風が完全に止まっている。空気が凍りついたような夜だった。「嵐の前だ」とドルクが呟いた。槍の柄を握る手が白い。同感だった。この静寂は自然のものじゃない。何かが森全体を黙らせている。

轟音。丸太が弾ける音が三連続で夜を割った。杭が飛ぶ。補強した二重の丸太が、紙のように引き裂かれる。

黒い影が柵の穴から滑り込んできた。

四足。巨大。背中から頭部にかけて黒い甲殻に覆われている。月光を受けて甲殻が鈍く光る。昆虫の外骨格に似た質感。だが大きさが違う。牛より大きい。肩の高さだけで俺の胸に届く。赤い目が二つ、闇の中でぎらぎらと回転するように動いている。

あの目だ。昨夜、森の縁から俺たちを見ていた目。

口が開く。牙が月光に白く光る。そして——咆哮。

空気が震えた。鼓膜が軋む。腹の底まで響く低周波が体を揺さぶる。周囲の地面から小石が跳ねた。

魔獣。マルタが言っていた。森の奥に棲む、この世界の化け物。

ドルクが叫んだ。

「散るな! 固まれ!」

自警団の五人が槍を構えて半円を作る。俺もその端にいた。槍を握る手が汗で滑る。柄の革が湿っている。

魔獣が動いた。

速い。あの巨体が、猫のように跳んだ。右端の男が悲鳴を上げる暇もなく弾き飛ばされた。槍が折れる乾いた音。体が柵の残骸に叩きつけられ、動かなくなった。

一撃。たった一撃で、一人が沈んだ。

「構え! 突け!」

ドルクが突撃した。槍の穂先が魔獣の脇腹に突き刺さる——はずだった。甲殻に弾かれた。火花が散る。金属同士がぶつかるような音。穂先が曲がった。

甲殻が硬すぎる。槍が通らない。

魔獣が体を振った。ドルクが横に吹き飛ぶ。地面を転がり、家屋の壁に背中から激突した。壁板が砕ける。ドルクの口から血が飛ぶ。

「ドルク!」

自警団の男が駆け寄ろうとした。魔獣の尾が横薙ぎに振るわれる。尾にも甲殻が生えている。棍棒のような質量が男の腰を捉え、悲鳴とともに闇に消えた。

残りは三人。俺を含めて三人。

魔獣が首を巡らせた。赤い目が暗闇の中を舐めるように動く。鼻先が空気を嗅いでいる。呼吸のたびに白い蒸気が噴き出す。その息が届く範囲が、死の圏内だ。

槍では勝てない。甲殻に阻まれる。関節か、腹の柔らかい部分を狙うしかない。だが、あの速度で動き回る相手に、狙って突ける自信がない。

足元で小石が震えている。魔獣が歩くたびに地面が揺れる。重い。あの質量が全速で突っ込んできたら、人間の体なんか——。

逃げろ。頭がそう言っている。お前は戦闘員じゃない。お前にできるのは段取りを組むことだけで、化け物と殴り合うことじゃない。

だが足が動かなかった。

ドルクが壁の前で膝をついていた。血が口の端から顎を伝っている。立ち上がろうとして、膝が崩れる。肋骨をやったらしい。呼吸が浅い。それでも槍を手放していない。折れた槍を、両手で握りしめている。

この男は、逃げない。

村長の息子。自警団のリーダー。嫌な奴だった。余所者をいびる小物だと思っていた。だが今、折れた槍を握って立ち上がろうとしているこの男は——守る側に立つことを選んでいる。

魔獣がドルクに向き直った。赤い目がドルクを捉える。次の一撃で終わる。あの甲殻の尾が、今度はドルクの頭に振り下ろされる。

体が動いた。

考えるより先に、足が地面を蹴っていた。ドルクと魔獣の間に滑り込む。槍を両手で構えて、正面から魔獣と向き合った。

赤い目が俺を見た。至近距離。一歩分の距離。魔獣の息が顔にかかる。腐った肉と、酸化した血の匂い。熱い。湿っている。毛穴が全開になる。甲殻の隙間から覗く筋肉が、呼吸に合わせて脈動しているのが見える。

死ぬ。

そう思った瞬間、頭の中が弾けた。

白い光。蛍光灯。

デスクの前。画面の光。キーボードを叩く指。午前三時。コーヒーの紙カップ。上司の怒声。「佐伯、まだか」「佐伯、これも頼む」「佐伯、明日までに」

満員電車。灰色のスーツの波。改札。階段。誰も目を合わせない。

佐伯蓮。二十八歳。システムエンジニア。入社六年目。残業月二百時間。有給消化率ゼロ。社内評価B+。昇進見込みなし。

見えた。全部見えた。

六年間の日々が、圧縮ファイルを展開するように脳内に広がっていく。入社式の緊張。最初の上司の顔。初めての徹夜。初めてのクレーム対応。初めて泣いた日。泣くのをやめた日。

前の世界の記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。六年間の社畜生活。毎日終電。休日出勤。体が壊れかけても止まれなかった。止まったら、自分の価値がなくなると思っていたから。

駅のホーム。膝が折れた。蛍光灯の光が白く視界を塗りつぶす。体が傾く。ホームの端。白線の内側。誰かが叫ぶ声。そこで終わった。

——いや、終わらなかった。

ここにいる。異世界の、この場所に。死にかけた体ごと、ここに運ばれた。

記憶が戻ると同時に、右の掌が爆発した。

比喩じゃない。皮膚の下から光が噴き出した。白い光。掌の中心から放射状に広がる。文様——紋章が、皮膚の表面に浮かび上がった。幾何学的な線が、掌から手首、腕を伝って肘まで走る。

熱い。だが痛くない。

痛くない代わりに、世界の見え方が変わった。

魔獣が見える。目の前の巨体が見える。だがそれだけじゃない。甲殻の「構造」が見える。層になっている。外殻、中殻、内殻。三重の防御層。それぞれの結合の仕方、素材の密度、弱点の位置——全部が、透視しているかのように把握できる。

何だ、これは。

構造が見える。物質の構成要素が、レイヤーのように分離して知覚できる。六年間、画面の中のデータ構造を分解し続けた脳が、別の形で同じことを始めている。

体が動いた。掌を魔獣に向ける。反射的に。本能的に。

そして——声が出た。自分の声なのに、知らない言葉だった。

「剥離」

音が消えた。

世界が一瞬だけ無音になった。

次の瞬間、魔獣の甲殻が「剥がれた」。

外殻が、一枚の紙を剥がすように本体から浮き上がり、宙に弾け飛んだ。黒い破片が月光の中で回転する。中殻が露出し、その下の赤黒い筋肉が夜気に晒された。

魔獣が絶叫した。甲殻を失った体が、無防備に震えている。

だが止まらなかった。

俺の掌から放たれた力は、魔獣だけに留まらなかった。周囲の地面の表層が剥がれた。草と土が薄い層になって浮き上がり、砕ける。背後の柵の残骸から木の皮が剥離する。ドルクの近くの地面からも、土が舞い上がった。

制御できない。

力が溢れている。掌から止めどなく放出されている。意志とは無関係に、触れるもの全ての表面を剥がしていく。

「止まれ……!」

叫んだ。力が——少し弱まった。だが消えない。掌の紋章がまだ光っている。

魔獣が体を引きずって後退した。甲殻を半分失い、赤い筋肉を露出させた異形が、初めて恐怖の表情を見せた。赤い目が揺れている。捕食者の目ではない。獲物の目だ。

魔獣が踵を返した。残った三本の足で地面を蹴り、柵の穴から森に逃げ込んだ。地面を叩く音が遠ざかっていく。木々の間に黒い影が沈み、やがて足音も消えた。

夜の静けさが戻る。だが静けさの質が変わっていた。虫の音もない。風の音もない。完全な沈黙。俺が「剥離」したのは、甲殻だけじゃない。周囲数メートルの地面から草が消えている。土の表層ごと剥がれて、赤い地肌が月光の下に晒されている。木の皮が散乱している。まるで爆心地だ。

俺は掌を見た。紋章がまだ薄く光っている。光が脈打つように明滅して、ゆっくり消えていく。

膝から力が抜けた。

地面に崩れ落ちる。手をついた地面の感触が遠い。全身の筋肉が一斉に弛緩している。湯を抜いた風呂のように、力が体から流れ出ていく。

視界がぼやける。

最後に見えたのは、壁に寄りかかったドルクの顔だった。血まみれの顔に、信じられないものを見た表情が張りついていた。

畏怖。

村の奥から悲鳴が聞こえている。子供の泣き声。大人が名前を呼ぶ声。だが全部が遠い。水の底から聞いているように、輪郭がぼやけている。

掌の光が最後に一度だけ強く脈打って、消えた。

万象剥離——。

知らないはずの名前が、意識の底に沈みながら浮かんだ。

その一語を最後に、世界が暗転した。

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