第8話
第8話
目を開けたら、天井が違った。
山羊小屋の隙間だらけの板張りではない。きちんと組まれた木の梁。乾燥した薬草の束が、視界の端でかすかに揺れている。マルタの小屋だ。
体が重い。指一本動かすのに、数秒かかった。右手を持ち上げる。掌を見る。紋章は——消えていない。薄い線が、皮膚の表面にうっすらと刻まれている。触ると僅かに凸凹がある。刺青のようだが、色は肌と同じだ。光っていない。熱も、ない。
「三日だよ」
マルタの声。椅子に座って、薬草を擦り潰していた。いつもの乳鉢の音。ゴリ、ゴリ、と規則的に響く。
「三日、寝てた?」
「倒れた夜から数えてね。熱が出て、汗が止まらなくて、うわ言で何か叫んでいたよ。日本語——かい? あたしには聞き取れない言葉だった。二日目にようやく落ち着いた」
日本語。前の世界の言葉が口から出ていたのか。記憶が完全に戻った反動かもしれない。
三日。デスマーチ明けの月曜日と同じだ。体が限界を超えた後の、強制シャットダウン。上司に「体調管理も仕事のうちだ」と言われた記憶が蘇って、思わず苦笑した。もう笑えるくらいには、あの世界が遠い。
起き上がろうとして、腹筋が悲鳴を上げた。全身が筋肉痛のような、だがそれとは違う——もっと深い場所の疲労。骨の芯が軋んでいる。この感覚は、転移した初日に似ていた。
「無理するんじゃない。水を飲みな」
マルタが椀を差し出した。白湯に何かの薬草が浮いている。口に含むと、微かに苦い。だが体に染み渡る。胃の底からじわりと温もりが広がる。
「……あの魔獣は」
「逃げたよ。お前さんが何かをした後、森に帰った。それきり来ていない」
何かをした。マルタはそう言った。具体的には言わない。
「村はどうなりました」
「怪我人が四人。重傷は二人。ドルクは肋骨を三本折った。だが命に別状はない。お前さんのおかげだよ」
「おかげ、というか——」
「あの力のことは、後でいい。今は体を治しな」
マルタが立ち上がり、棚から布を取り出して俺の額に載せた。冷たい。気持ちいい。目を閉じかけたとき、小屋の外で足音がした。
扉が開く。秋の冷たい風が一瞬だけ小屋に入り込んで、吊るされた薬草の束を揺らした。
ドルクだった。
右腕を布で吊っている。胸に厚い包帯が巻かれていて、呼吸のたびに微かに顔をしかめる。頬の擦り傷はかさぶたになりかけている。だが立っている。自分の足で。片方の手に、何か布に包んだものを持っていた。
目が合った。
ドルクの表情は複雑だった。あの夜、俺が前に出たことを覚えている目。折れた槍を握ったまま動けなかった自分を覚えている目。
「……生きてたか」
ドルクの第一声。ぶっきらぼうだが、声が震えていないのは努力の結果だろう。
「おかげさまで」
沈黙。マルタが乳鉢を擦り続けている。ゴリ、ゴリ。
ドルクが口を開きかけて、閉じた。もう一度開く。
「——助かった。お前に」
布に包んだものをベッドの脇に置いた。中身は干し肉と、焼きたてのパン。まだ温かい。焼いたばかりの小麦の匂いが、薬草の香りの中に混じった。言葉より先に物を置く。この男なりの精一杯だ。
それだけ言うのに、どれだけ自尊心を削ったか。顔を見ればわかる。歯を食いしばっている。顎の筋肉が盛り上がっている。この男にとって、余所者に礼を言うことは、肋骨を折られるより痛い。
「ドルクも柵の前に立っていた。俺は後から割り込んだだけだ」
ドルクの目が揺れた。予想していなかった返答だったらしい。
「……嘘つけ。お前は俺を庇って前に出た。見てた」
「見てたなら、動けなかったドルクがまだ槍を握っていたことも見えただろう。折れた槍を手放さなかった。それは逃げなかったってことだ」
ドルクが黙った。拳を握りしめている。包帯の下の肋骨が痛むのか、顔が微かに歪む。
マルタが椅子から立たずに言った。
「ドルク。座りな。お前さんも薬を飲みな。立ってるだけで骨が軋んでるだろう」
ドルクが渋々、壁際の椅子に腰を下ろした。マルタが薬湯を渡す。ドルクが一口飲んで、顔をしかめた。苦いのだろう。
「それで——あの力は何なんだ」
ドルクが俺を見た。恐怖はない。だが警戒がある。当然だ。
「わからない。俺にも」
嘘じゃない。名前だけは浮かんだ。万象剥離。だがそれが何を意味するのか、どう制御するのか、何もわからない。
「魔獣の殻が、紙みたいに剥がれた。地面も。柵も。あの光は——」
「だからわからないと言っている。初めて使った。自分で何が起きたかも把握できていない」
ドルクが俺の目を見た。嘘かどうか確かめているのだろう。長い数秒。やがて、小さく頷いた。
「……親父が怯えてる」
村長。
「余所者が化け物を追い払った。だが余所者自身がもっとすごい化け物かもしれない、ってな」
予想通りだ。恩人と脅威は紙一重。組織にとって制御できない能力は、味方でも恐怖の対象になる。
「親父は——昔、旅の冒険者にひどい目に遭わされたことがある。それ以来、余所者を極端に警戒するようになった。俺がお前に辛く当たったのも、半分は親父の影響だ」
ドルクが目を逸らした。言い訳に聞こえるのが嫌なのだろう。だが事実を話している。
「もう半分は?」
「……お前が気に食わなかった。言葉も話せないくせに、やることが完璧で。何者なんだよ、って」
素直だ。嫌味じゃなく、本当に。この男は口が悪いだけで、嘘がつけない。
「俺も自分が何者かわからない。ただの行き倒れだ」
「行き倒れが魔獣の甲殻を剥がすかよ」
ドルクが小さく笑った。笑ったのを見たのは初めてだった。顔の筋肉が慣れていないのか、ぎこちない。
マルタが薬湯の椀を回収しながら、静かに言った。
「ドルク。村長に伝えておくれ。レンはもう少ししたら、この村を出る」
俺とドルクが同時にマルタを見た。
「出る? どこに」
俺が聞いた。だが聞いた瞬間に、答えはわかっていた。
マルタが窓の外を見ている。午後の光が薬草の束を照らしている。埃が光の筋の中でゆっくり舞っている。時間が止まったように静かだった。
「王都だよ。お前さんの力は、この村に置いておけるものじゃない。お前さん自身もわかっているだろう」
——わかっている。
あの夜、力が溢れた。制御できなかった。魔獣を追い払えたが、地面も柵も壊した。周囲数メートルの地面から草が剥がれ、木の皮が散乱した。あと少しずれていたら、ドルクにも同じことが起きていた。
この力は、俺自身にも向きうる。暴走すれば、周りの人間を——。
掌を見た。紋章の線が、かすかに脈打っている。今は静かだ。だが何かの拍子に、また溢れる。そのとき隣にマルタがいたら。ドルクがいたら。村の子供がいたら。
考えるだけで、胃の底が冷えた。
「王都に行けば、力のことを調べる手段がある。ギルドには情報が集まる。お前さんの紋章が何なのか、わかるかもしれない」
マルタの声は穏やかだった。だが有無を言わせない強さがある。
ドルクが立ち上がった。椅子が軋む。
「——わかった。親父にはうまく言っておく」
扉に手をかけて、ドルクが振り返った。
「レン。あの夜のことは——忘れない」
それだけ言って、出ていった。扉が閉まる直前、背中が見えた。大きな背中。包帯で膨らんだ胸。だが真っ直ぐだった。あの夜、折れた槍を握って立ち上がろうとした男の背中と同じだ。
扉が閉まる。マルタの小屋に静けさが戻る。乳鉢の音。薬草の匂い。
マルタが俺の紋章のある掌をちらりと見た。その目が一瞬だけ曇った。何かを知っている目。だがすぐに元に戻り、薬草の調合を再開した。
「マルタさん」
「なんだい」
「この紋章を、見たことがありますか」
マルタの手が止まった。乳鉢の中で棒が静止する。
二秒。三秒。
「……休みな。体が先だ」
答えなかった。
その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁だった。
マルタは何かを知っている。この紋章について。あるいは——この紋章を持っていた、別の誰かについて。
俺は目を閉じた。体が重い。まだ回復には時間がかかる。
だが頭は動いている。社畜の脳は、休んでいるときでも次の段取りを考え続ける。王都。ギルド。紋章の正体。制御の方法。
やるべきことが見えている。優先順位もつけられる。
問題は——この力が、俺を「何」にするのか、まだわからないことだ。
窓の外で、修繕中の柵を打つ槌の音が響いていた。村は、俺がいなくても回り始めている。