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社畜スキルで異世界成り上がり

第9話 第9話

第9話

第9話

三日で体は動くようになった。

最初に立ち上がったとき、膝が笑った。壁に手をついて、ゆっくり一歩。二歩。三歩で小屋の扉まで辿り着いた。扉を開けると、秋の冷気が肌を刺した。鼻の奥に枯れ草と炊事の煙の匂いが流れ込む。村は動いている。修繕の槌の音。家畜の鳴き声。日常だ。

マルタの小屋で療養しながら、出発の準備を進めた。体が回復するにつれ、村の空気が変わっていくのを感じた。

村人が俺を避けている。

以前の「便利な労働力」という距離感ではない。道ですれ違えば足早に通り過ぎ、目が合えば逸らす。畑仕事を手伝おうとしたら、「もういい」と言われた。柔らかい拒絶。恩人であると同時に脅威でもある存在への、正直な反応だ。

わかる。俺だって同じ立場なら同じ顔をする。

理解できることと、寂しくないことは別だが。

夜、山羊小屋で最後の夜を過ごした。三頭の山羊が当たり前のように体を寄せてくる。角が脇腹に当たって痛いが、もう慣れた。この獣臭も、藁の酸っぱい匂いも、壁の隙間から見える星も。全部、慣れた。慣れたものを手放すのは、嫌いなものを手放すより難しい。

山羊の一頭が俺の手を舐めた。ざらざらした舌の感触。温かい。

「お前らとも、お別れだ」

声に出すと、現実味が増した。明日、俺はこの村を出る。

出発の朝は、秋晴れだった。

空が高い。雲が薄く筋状に流れている。風に冬の匂いが混じっていた。草原の枯れた香り。土の乾いた匂い。季節が一つ進む気配。朝露が草に光って、地面一面が細かい宝石を散りばめたようだった。

マルタの小屋の前に、旅支度一式が並んでいた。

布の背嚢。中身は食料——干し肉、硬いパン、保存のきく燻製チーズ。水筒。薬の小瓶が五本。地図。路銀の入った革袋。獣避けの香油。そして、ハインツ宛ての手紙。

五日分の食料。王都まで三日半なら、余裕を持った計算だ。マルタは多めに見積もる人だ。「余裕は保険だよ。足りないより余る方がいい」——そう言って、燻製チーズをもう一つ詰め込んだ。

「これは——」

背嚢の底に、見慣れないものがあった。

革の手袋。使い込まれた茶色い革。サイズは俺に合うが、マルタの手のものではない。男物だ。

「息子のだよ」

マルタが淡々と言った。薬草を束ねる手を止めずに。

「息子さんの」

「冒険者だった。この村を出て、王都のギルドに入った。腕は良かったんだけどね。戻ってこなかった」

戻ってこなかった。死んだ、とは言わなかった。だが声の温度で伝わった。

「もう二十年以上前のことだ。手袋だけが残った。使い手がいないまま棚の奥で埃をかぶっていたんだから、使ってやっておくれ」

手袋をはめた。革が手に馴染む。誰かの体温の記憶が、革の繊維に残っている気がした。指を曲げると、すっと動く。柔らかい。よく手入れされていた革だ。二十年以上前の品とは思えない。マルタが手入れし続けていたのだろう。息子が戻ってきたときのために。

胸の奥が締まった。

「マルタさん」

「なんだい」

「なぜ俺に構ってくれたんですか。最初から。スープを持ってきて、言葉を教えて、薬草の仕事を任せて」

マルタが手を止めた。乳鉢をテーブルに置く。皺だらけの顔が、窓からの光に照らされている。薬草の匂いが充満した小屋の中で、マルタの目だけが透明に光っていた。

「あたしの息子も、お前さんと同じ目をしていたからさ」

「同じ目?」

「どこにも居場所がない目だ。ここにいていいのかわからない、でも他に行く場所もない。その目で毎朝起きて、黙って働いて、夜は天井を見つめる。あたしの息子はそうやって十五年この村にいて、ある日出ていった」

マルタの声が静かだった。感情を抑えているのではない。二十年かけて消化した痛みだ。

「出ていくのを止められなかった。止める理由がなかった。息子にとって、この村は居場所じゃなかった。あたしがどれだけ飯を食わせても、言葉を教えても——居場所は外にあった」

マルタが俺を見た。

「お前さんも同じだよ。この村はお前さんの居場所じゃない。あたしにできるのは、出ていく準備を整えてやることだけだ」

マルタの目が窓の光を受けて、琥珀色に光った。二十年分の後悔と覚悟が、その目の奥に沈んでいた。息子のときは、何も準備してやれなかった。だから今度は全部揃えた。地図も、路銀も、薬も、手紙も。

涙は出なかった。出る手前で、胸の奥に沈んだ。代わりに、手袋をはめた両手を膝の上で握った。革が掌の温度を吸って、じんわりと温まっていく。

「ダンケシェーン」

最初に教わった言葉の、正しい形。

マルタが笑った。今度は目も笑っていた。皺が深く刻まれて、目が細くなる。

「やっと覚えたね。馬鹿」

馬鹿。その一言に、二十日分の全部が詰まっていた。スープの温かさ。言葉を教えてくれた朝。薬草の仕分けを任された午後。「慣れだよ」と見抜かれた夜。全部。

立ち上がって、背嚢を背負った。肩に食い込む重さが心地いい。生きるための道具が詰まっている重さだ。

村の入口まで歩いた。

見送りはマルタだけだと思っていた。だが、そこにドルクが立っていた。

まだ腕を吊っている。だが包帯は薄くなっていた。回復は早い。若いということだ。

「王都か」

「ああ」

ドルクが懐から何かを取り出した。木の板に簡単な絵が彫ってある。村の紋様だ。家屋の屋根に刻まれているのと同じもの。

「通行証みたいなもんだ。辺境の村は商人が行き来する。これを見せれば、うちの村の関係者だと思ってもらえる。まあ、何の権威もないがな」

木の板を受け取った。手の中で温かい。ドルクの体温だ。懐に入れていたのだろう。紋様は粗い彫りだが丁寧だった。誰がいつ彫ったものかはわからない。だがこの村の歴史が、この小さな板に詰まっている。

「……ありがとう」

「礼はいい。借りを返しただけだ」

借り。あの夜、俺がドルクを庇ったことを「借り」と呼んでいる。この男らしい。感謝を負債として処理する。ある意味、社畜と同じだ。恩は返すもの。貸し借りは清算するもの。その律儀さが、不器用だが信頼できる。

ドルクが背を向けた。三歩歩いて、立ち止まった。振り返らずに言った。

「強くなれよ。あの力、使いこなせるようになれ」

それだけ言って、村に戻っていった。大きな背中が、朝日の中で小さくなる。

マルタが俺の隣に立っていた。杖に体重を預けて、ドルクの背中を見ている。

「いい子だよ、あれでも。不器用なだけでね」

「知ってます」

マルタが俺に向き直った。鋭い目。だが奥に温度がある。

「レン。一つだけ」

「はい」

「お前さんの力は——大きい。たぶんお前さんが思っている以上に。だから、使い方を間違えるんじゃないよ。誰かに言われるまま使うな。自分で決めて、使いな」

自分で決めて。

その言葉が、胸の奥に刺さった。社畜だった俺は、自分で決めることを放棄して生きていた。指示を待ち、命令に従い、言われた通りに手を動かす。それが「仕事」だと思っていた。

「……努力します」

「努力じゃない。決めるんだよ」

マルタが杖で地面を叩いた。コン、と乾いた音。

俺は頭を下げて、歩き出した。北東の道。村を出て、丘陵を越えて、街道に出る。三日半で王都。

振り返らなかった。

振り返ったら、足が止まる。この村は俺の居場所じゃない。マルタがそう言った。その通りだ。だが——居場所じゃない場所にも、恩がある。

背嚢の中で、マルタの息子の手袋が揺れている。

手袋の革が朝日に温められて、微かに匂った。古い革と、かすかな薬草の残り香。マルタの小屋の匂いだ。

この匂いは、忘れない。

秋の風が背中を押した。前に進む以外の選択肢はない。

丘陵の斜面を登りながら、掌を開いた。紋章の線がうっすらと見える。太陽の下では、ほとんど目立たない。だが確かにある。俺の中に。

万象剥離。あの力の名前だけは知っている。だがそれ以外は何もわからない。どうやって制御するのか。なぜ俺にこの力があるのか。どこから来た力なのか。

答えは王都にある。マルタはそう言った。

丘の上に立ったとき、振り返りそうになった。背嚢の紐を握りしめて、前を向いた。

遠くに街道が見えた。細い線のように丘陵の間を縫っている。その先に——王都がある。

歩いた。一歩ずつ。社畜の体は、一歩ずつ進むことだけは得意だ。終電を逃しても家まで歩いた夜を、体が覚えている。

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