第10話
第10話
街道に出たのは、村を出て二日目の夕方だった。
丘陵を越え、枯れた草原を抜け、細い獣道を辿った。途中で一度だけ野宿した。枯れ枝を集めて火を起こし、干し肉を齧りながら星を見た。マルタの香油のおかげか、獣の気配はなかった。掌の紋章は静かだった。夜風が冷たく、火の温もりが顔の片側だけを温める。もう片方は凍えていた。バランスの悪い温度。この世界のすべてが、まだアンバランスだ。
街道は想像より立派だった。石畳こそないが、踏み固められた土が幅四メートルほどの道を形成している。轍の跡が深い。馬車が頻繁に通っている証拠だ。
初めて他の旅人とすれ違った。商人らしい男が馬車を引いている。荷台には布や瓶が積まれていた。男が俺を見て、何か声をかけた。方言が入っていて半分しか聞き取れなかったが、王都の方角を指して「半日だ」と言ったのはわかった。
半日。マルタの地図より早い。街道の状態がいいからだろう。
三日目の昼過ぎ、それは見えた。
城壁だ。
灰色の石壁が、地平線を横切るように伸びている。高さは——十五メートル以上か。壁の上に等間隔で塔が立ち、旗がはためいている。壁の向こうから煙が何本も立ち上っている。煙突の数だけ人がいる。
近づくにつれて、人の流れが増えた。徒歩の旅人。馬車。ロバを引く農夫。行商人の荷車。全員が同じ方向——城門に向かって移動している。
人口密度がやばい。
通勤ラッシュの駅前を思い出した。あれほどではないが、これだけの人間が一つの門に収束する光景は圧倒的だ。声と足音と車輪の音が混じり合って、低い地鳴りのようなノイズになっている。
城門は巨大な石のアーチだった。門番が二人、槍を持って立っている。通行人を一人ひとり確認しているわけではなく、流れに任せて人を通している。ただし荷車は検査を受けていた。商品リストを見せて、何か交渉している。
俺は徒歩だ。背嚢一つ。門番が俺をちらりと見た。外国人——この世界では「辺境から来た余所者」か——と判断したのか、一瞬だけ目が止まったが、何も言わずに通してくれた。身分証明の類は求められなかった。この世界の城門は、思ったより緩い。セキュリティ意識が低いのか、それとも十万人の出入りを一人ひとりチェックする余裕がないのか。おそらく後者だ。リソースが足りないときは、検査の精度を下げて流量を確保する。前の世界のテスト工程と同じだ。
城壁をくぐった瞬間、音と匂いが変わった。
石畳。建物が三階、四階と積み上がっている。狭い路地が入り組んでいて、建物の二階部分が道にせり出している。洗濯物が窓から垂れ下がり、隣の建物の壁にくっつきそうだ。道の両側に屋台が並び、肉を焼く匂い、パンの匂い、香辛料の匂い、汗の匂い、馬糞の匂い——全部が混ざって、一つの「都市の匂い」になっている。
これが王都レグニッツ。
十万人が暮らす街。辺境の十数軒の村しか知らなかった俺には、情報量が多すぎた。視覚、聴覚、嗅覚のすべてが一斉に飽和する。目眩がした。
——落ち着け。タスクを整理しろ。
社畜の脳が自動起動した。
優先度一。冒険者ギルドを探す。 優先度二。登録手続きを行う。 優先度三。ハインツにマルタの手紙を渡す。 優先度四。宿を確保する。
タスクリストが頭に浮かべば、混乱は収まる。やるべきことが見えれば、人は動ける。
通りすがりの若い女性に道を聞いた。「冒険者ギルド」と言うと、にこりともせずに北の方角を指差した。「大通りを真っ直ぐ。突き当たりの大きな建物」。都会の人間は、辺境の村人より素っ気ない。だがそれは冷たさではなく、効率だ。毎日何十人にも道を聞かれれば、回答は最適化される。
大通りを歩いた。両側に商店が並んでいる。武器屋。防具屋。薬屋。酒場。宿屋。冒険者向けの店が目立つ。看板に剣と盾のマークが多い。通りを歩く人の半分以上が腰に武器を帯びている。剣、短剣、槌、弓。日常的に武器を持ち歩く文化。辺境の村とは世界が違う。
道の脇で焼き鳥——いや、串焼きだ。鶏ではない何かの肉が、炭火の上で焼けている。脂が炭に落ちて、ジュウ、と音を立てる。腹が鳴った。三日間、干し肉とパンしか食べていない。匂いだけで唾液が溢れる。だが今は食事より先にやることがある。
突き当たりに、その建物はあった。
石造りの三階建て。正面に木の大扉。扉の上に掲げられた金属の看板——交差した剣の紋章と、「冒険者ギルド・レグニッツ支部」の文字。人の出入りが激しい。扉が開くたびに中から声と酒の匂いが漏れてくる。
扉を押して中に入った。
広い。天井が高い。一階はホール状で、中央にカウンター、左に掲示板、右に酒場が併設されている。冒険者たちがテーブルで酒を飲み、掲示板の前で依頼書を見比べ、カウンターで受付嬢と話している。
掲示板に目が行った。紙がびっしりと貼られている。依頼書。魔獣討伐、護衛、素材採取、清掃、配達——雑多な仕事が混在している。
そして俺の目は、掲示板の配置に引っかかった。
並びが——バラバラだ。新しい依頼も古い依頼も、高難度も低難度も、ランダムに貼られている。期限が今日の依頼と来月の依頼が隣り合っている。
タスクボードとして、これは最悪の設計だ。優先度順にも期限順にもなっていない。これでは冒険者が自分に合った依頼を探すのに時間がかかる。非効率。ボトルネック。
——いかん。社畜脳が業務改善を始めている。
カウンターに向かった。受付嬢は二十代半ばの女性。茶髪をきっちりまとめ、事務的な笑顔を浮かべている。
「登録希望です」
「お名前は」
「レン」
「姓は」
「……ない」
受付嬢の目が一瞬だけ動いた。だがすぐに戻る。辺境出身で姓がない冒険者は珍しくないのだろう。
「スキルの有無は」
「ある。ただし、詳細は——まだ把握しきれていない」
「スキル名がわかれば記録します」
「万象剥離」
受付嬢のペンが止まった。一瞬だけ。指先が微かに震えた。すぐに動き出したが、止まった。それは見逃さなかった。彼女が知っているのか、それとも聞いたことがあるだけなのか。どちらにせよ、この名前には何かがある。
「……登録完了です。Fランクからのスタートになります。依頼は掲示板からお選びください。ランクに見合った依頼に丸印がついています」
金属のプレートを渡された。「F」の文字が刻印されている。冷たい金属の感触。これが俺の身分証になる。
「ああ、あと——」
受付嬢がファイルを一枚追加で出した。
「ハインツさんにお伝えしておきます。辺境からの冒険者が来たと」
言っていない。マルタの名前もハインツの名前も、まだ出していない。なのに受付嬢は「ハインツ」の名を口にした。
「マルタさんから、手紙が来ています。先月の定期便で届きました。『そのうち若い男が来るから、よろしく頼む』と」
先月。俺がこの世界に来る前から、マルタは手紙を出していた。
あの老婆は——最初から全部、見えていたのか。
受付嬢が微笑んだ。今度は事務的ではない、本物の笑みだった。
「ようこそ、レグニッツへ。ハインツさんは明日の朝、こちらにいらっしゃいます」
Fランクのプレートを握りしめた。冷たい金属が、掌の温度で少しずつ温まっていく。
これが俺の名刺だ。肩書きは「冒険者」。ランクは最低のF。前の世界なら新入社員。入社初日のあの緊張感を思い出す。違うのは、ここには終電がないことと、失敗したら死ぬことだ。
ギルドに併設された宿の安い部屋を取った。四畳半ほどの狭い個室。木のベッドに藁の敷布団。窓は小さいが、外が見える。通りの喧噪が壁越しに聞こえてくる。山羊小屋よりは数段ましだ。獣の匂いもしない。代わりに、古い木材と埃の匂い。
ベッドに腰を下ろして、マルタの手紙を見た。封蝋はまだ切っていない。受付嬢が言っていた先月の手紙は別便だったのだろう。この手紙は、直接ハインツに渡すためのものだ。
ギルドの奥、薄暗い廊下の壁に古い告知が貼られていた。紙が黄ばんでいる。相当古い。
「王令:大迷宮第四十七層以深、一切の立入を禁ずる」
大迷宮。王令による封鎖。
掌の紋章が、微かに熱を持った。
一瞬だけ。すぐに消えた。だが確かに、反応した。
——この街の地下に、何かがある。
俺の掌が、それを知っている。
宿の部屋に戻った。窓の外で夕暮れが始まっている。王都の屋根が夕日に染まり、煙突の煙が橙色に光っている。辺境の村とは違う夕焼けだ。人工物が多い分、光の反射が複雑で、空気が温かく見える。
明日からFランクの冒険者として、この街で生きる。段取りはある。社畜スキルはある。そして——万象剥離がある。
掌を握った。紋章の線が、掌の皺に紛れている。
使いこなせ、とドルクが言った。自分で決めて使え、とマルタが言った。
明日から、始まる。