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社畜スキルで異世界成り上がり

第6話 第6話

第6話

第6話

見回りを終えて小屋に戻ったのは、夜明け前だった。

山羊が三頭とも起きていた。普段は日の出まで寝ている連中が、耳を立てて南を向いている。眠れなかったのだろう。俺と同じだ。

藁に倒れ込む。体は疲れている。だが目が冴えている。掌の熱が引かない。昨夜見た赤い光が、瞼の裏に焼きついていた。

あの目。あの質量。柵から百歩。

百歩は、走れば十秒もかからない距離だ。

一時間ほど横になったが眠れなかった。諦めて起き上がり、水で顔を洗う。井戸水が冷たい。頬が痺れる。秋の朝の空気が肺を刺す。

朝一番にマルタの小屋に向かった。

扉を叩く前に、中から声がした。

「入りな」

マルタは棚の前に立っていた。いつもの薬草ではなく、奥の棚から古い布袋を引っ張り出している。埃をかぶった布袋。長い間動かされていなかったものだ。

「昨夜、見たんだね」

「目が光っていた。赤い。柵から百歩」

「百歩、か」

マルタが布袋をテーブルに置いた。中身を広げる。古い地図。黄ばんだ紙に手描きの線。村の位置、森の範囲、そして——北東に伸びる細い道筋。

「マルタさん。これは」

「王都までの道だよ。あたしが若い頃に描いたものだ。古いけど、道はそう変わらない」

若い頃。マルタが若い頃にこの道を歩いた。つまり——

「マルタさんは、王都にいたことがあるんですか」

マルタは答えなかった。代わりに地図の隅を指した。

「ここが街道の分岐点。北を選べば峠越えで四日。東を選べば平坦だが五日。お前さんの足なら、東で三日半ってところだろう」

話を逸らされた。だが今は追及するタイミングじゃない。

「万が一の話をするよ」

マルタが椅子に座った。膝が軋む音。老婆の手が地図の上を滑る。節くれだった指が、道筋を丁寧になぞっていく。

「あの獣が来たとき、村がどうなるかはわからない。だが——お前さんは生き延びなきゃいけない」

「俺だけ、ですか」

「お前さんだけだよ。この村の人間は、逃げてもどこかの村に身を寄せられる。土地の言葉を話し、土地の人間を知っている。でもお前さんは余所者だ。身元もない。技能もない——いや、段取りの腕は立つが、それを証明する手段がない。この村がなくなったら、お前さんの居場所もなくなる」

マルタの言葉は冷たくない。冷静なだけだ。感傷を排して、事実を並べている。俺が一番受け取りやすい形で。この老婆は本当に——人の扱い方を知っている。

「冒険者ギルドに行きな。登録すれば、身元の代わりになる。寝床も依頼も手に入る。お前さんの段取り力なら、やっていける」

「……まだ来てもいない獣の話で、ここまで準備するんですか」

マルタが笑った。皺が深く刻まれた笑顔。だが目は笑っていない。

「あたしは長く生きすぎた。勘がいいのさ。あの手の獣は、偵察の次に来る。必ず来る」

地図の横に、マルタが別の紙を置いた。封をした手紙。宛名が書いてある。読める——王都の言葉で「ハインツ」と。

「王都のギルドに、知り合いがいる。この手紙を持っていきな。世話を焼いてくれる人だよ」

布袋の中身は地図と手紙だけではなかった。小さな革袋が一つ。振ると硬い音がする。硬貨だ。

「路銀。たいした額じゃないが、王都に着くまでの宿代と飯代にはなる」

さらに薬の小瓶が三つ。止血薬、解熱薬、そして——

「獣避けの香油。森を抜けるなら必要だ。最後の一本だけど、お前さんに使いな」

最後の一本。マルタの商売道具だ。それを俺に渡すということは——

「マルタさん、これは」

「いいから受け取りな。年寄りの気まぐれに理屈をつけるんじゃないよ」

理屈じゃない。この準備の周到さに、胸が詰まっているだけだ。地図。手紙。路銀。薬。全部が揃っている。旅に必要なものを過不足なく用意している。まるで——誰かを送り出したことがあるように。

手紙を受け取った。紙が厚い。しっかりした封蝋。準備がいい。いや——この手紙は今朝書いたものじゃない。封蝋が完全に固まっている。少なくとも数日前に用意されていた。

俺が森に入る前から、マルタはこの準備をしていた。

「……マルタさん。最初から、俺がこの村を出ることを想定していた?」

マルタは答えず、薬草の束を棚に戻した。背中を向けたまま、小さく言った。

「どこにも行き場のない人間が来たら、行き場を作ってやるのが年寄りの仕事だよ」

それは答えであり、答えでなかった。マルタの本当の理由は、まだ霧の中にある。だが一つだけわかることがある。この老婆は、以前にも誰かを送り出している。この周到さは、初めての人間には出せない。手紙の宛名「ハインツ」が誰なのか。マルタとどういう関係なのか。それもいずれわかるだろう。

午後、柵の最終補強を行った。

南面に加えて、東面と西面にも杭を打ち込む。ドルクが指揮を取り、俺が段取りを組む。奇妙な分業だった。ドルクが声を張り上げて人を動かし、俺がその横で作業順と資材の配分を紙に書く。紙はマルタからもらった薬草の包み紙の裏だ。

ドルクは俺のメモを一瞥して、何も言わずに頷いた。指示通りに人を配置した。昨日の反発が嘘のようだ。恐怖が人の優先順位を変える。面子より生存。それは正しい判断だ。

夕方。

柵の補強は完了した。完全ではない。だがやれることは全てやった。

村長が村の中央で人を集めた。マルタに促されてだろう。声が震えている。避難の手順を説明しているが、要領を得ない。ドルクが隣に立ち、父親の言葉を短く言い直している。

「女と子供は北の丘陵に逃げる。男は柵を守る。もし柵が破られたら、全員北へ走れ。隣村まで半日だ」

ドルクの声は明瞭だった。震えていない。村長の横に立つ息子の顔には、父親にはない覚悟があった。

この男は、嫌がらせをするような器じゃなかった。恐怖と責任の間で、一番拙い方法を選んでしまっただけだ。余所者を排除すれば、村の不安要素が減ると思い込んでいた。自分の手に負えないものを遠ざけようとした。

——そういう上司を、知っている気がする。

思考が途切れた。今はそれどころじゃない。

夕暮れが迫っている。西の空に赤い筋が走り、雲の底が燃えている。秋の夕焼けは美しい。焼けた空の下で、畑の紫の葉が最後の光を受けて鈍く光っている。風が止まっていた。空気が妙に重い。気圧が変わったのか、耳の奥がかすかに詰まる感覚がある。だが今日は、その赤がどこか不吉に見えた。

村の家々から煙が上がっている。夕餉の支度。根菜を煮る匂い。子供の声。犬の吠える声。日常の音。これが最後の日常かもしれない。

柵の外に目を向ける。南の森。夕闇が木々を飲み込んでいく。

鳥が飛んだ。

一羽ではない。十羽、二十羽——森の上から、黒い塊が一斉に空に舞い上がった。けたたましい鳴き声が夕空に広がる。翼の音が重なって、風の唸りのように聞こえる。

大型の鳥が群れで飛び立つ。巣を捨てて。

マルタが小屋から出てきた。空を見上げている。顔から色が失せていた。

「——逃げてるね」

鳥が逃げている。森の奥から何かが来るから。何かが動くから。

村人が足を止めて空を見上げた。子供が指を差して声を上げる。大人たちが顔を見合わせる。

ドルクが柵に走った。槍を掴み、南を睨む。

俺はマルタを見た。マルタが俺を見た。

老婆の目には、昨日までとは違うものが浮かんでいた。覚悟。長い人生の中で、何度も見てきたものを、もう一度見る覚悟。

「今夜かい」

マルタの呟きに、俺は答えなかった。答える代わりに、右の掌を見た。

熱い。

これまでで一番、熱い。

皮膚の下で、何かが形を成そうとしている。脈打っている。膨らんでいる。掌の中心に、かすかに——線が浮かんでいた。肉眼ではほとんど見えない。だが指でなぞると、わずかに凸凹がある。文様のような。紋章のような。

何かが、目覚めようとしている。

俺の中で。

「レン」

マルタの声が、遠くから聞こえた。

「今夜、何が起きても——自分を信じな。体が覚えていることを信じな」

体が覚えていること。社畜の段取り。理不尽への耐性。そして——掌の中の、これ。

「はい」

答えたとき、南の森から地鳴りが響いた。

今度は咆哮ではない。地面を踏みしめる音だ。重い。規則的。こちらに向かっている。

足音。

重い。重い。重い。一歩ごとに地面が僅かに震える。まだ森の中にいる。だが確実に、距離が縮んでいる。

村人が柵の内側に集まり始めた。子供を抱えた母親。鍬を握りしめた老人。誰もが南を見ている。

ドルクが叫んだ。

「女子供は北へ! 男は柵に並べ!」

声に迷いはなかった。

俺は槍を握り直した。掌の熱が、柄越しに伝わっている。槍が微かに振動しているのは——俺の手が震えているのか、それとも掌の中の「何か」が共振しているのか。

あれが来る。

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