第5話
第5話
翌朝、村人の顔が変わっていた。
昨夜の咆哮を聞いた者は多かったらしい。畑に向かう足取りが重い。すれ違うたびに、目が南の森を向く。誰も口にしないが、全員が同じことを考えている。
来る。
朝飯の干し肉を噛みながら、俺は柵の前に立っていた。昨日補強した南面の丸太。杭の打ち込み角度、丸太の接合部。冷たい朝露が木肌を濡らし、指先で触れると滑る。木の繊維が水を吸って膨らんでいる。強度は乾燥時より落ちる。
——足りない。
あの咆哮の主が突っ込んできたら、この柵は三秒で割れる。頭ではわかっている。だが、やれることをやるしかない。できることを積み上げる以外に、無力な人間にできることはない。それも——どこかで学んだことだ。
ドルクが自警団の三人を連れて近づいてきた。全員が槍を持っている。穂先が朝日を受けて鈍く光る。革のベルトに短剣を差した者もいる。表情は硬い。昨夜の咆哮が、彼らの中にも残っている。
「おい、行き倒れ」
ドルクが俺を呼ぶ。相変わらずの呼び方だが、昨日までと声の温度が違う。怒りではない。焦り。眉間の皺が深いが、目は真っ直ぐ俺を見ている。
「昨夜の声、聞いただろう。自警団で夜の見回りをやる。お前も入れ」
予想外だった。
余所者を自警団に入れる。それはドルクにとって、相当な譲歩のはずだ。面子を捨ててでも人手が必要。状況がそこまで切迫していると、この男なりに判断した。判断できる男だ。感情と実利を天秤にかけて、実利を取れる。
「……わかった」
頷いた俺に、ドルクが槍を一本放った。受け取る。木製の柄に革を巻いた粗末なものだが、ずしりと重い。掌に木と革の匂いが移る。握ると指の節が白くなった。
「使えるのか」
「使えない。だが持っていないよりはましだ」
ドルクが鼻を鳴らした。嘲笑ではない。同意だ。
見回りの段取りを組んだ。これは得意だ。得意——というより、体が勝手に動く。頭の中に図面が浮かぶ。村の外周、人員数、時間帯、リスクの分布。全部が一つのシートの上に配置される。
まず村の外周を四区画に分ける。南面は最も危険だから二人一組。東と西は各一人。北面は丘陵側で脅威が低いから巡回の頻度を下げる。三時間交代で四シフト。日没から夜明けまでの十二時間をカバーする。
「休憩と交代のタイミングをずらす。全員が同時に眠らないようにする。交代時に必ず口頭で状況を引き継ぐ。異常がなくても『異常なし』と伝えること」
報連相。そう言いかけて飲み込んだ。この世界にその言葉はない。だが本質は同じだ。情報の空白が一番危ない。「何もなかった」という報告こそが、安全を裏付ける。
「それと、何か見つけたら声を上げる前に後退する。最初に逃げろ。情報を持って帰る方が、突っ込んで死ぬより価値がある」
自警団の若い男が眉を上げた。「逃げろ」と言われて意外だったのか。村の男たちは勇敢さを美徳とする。逃げることを戦術として語る俺は、たぶん異質に映る。
ドルクの目が変わった。侮蔑でも反発でもない。初めて、まともに俺の話を聞く顔。
「……やけに手慣れてるな。兵士だったのか」
「わからない。体が勝手にこういう段取りを組む」
嘘ではない。自分でも驚いている。シフト表が頭の中に自然と浮かぶ。人員配置。リスクの重み付け。交代要員の確保。ボトルネックの特定。全部、何かの——経験に裏打ちされた手順だ。兵士ではない。もっと地味な。もっと報われない場所で身につけた技術。
午後、柵の補強を続けながら、合間にマルタの小屋に薬草を届けた。
マルタは棚に新しい瓶を並べていた。中身は赤黒い液体。瓶を透かすと沈殿物が底に溜まっている。見慣れないものだ。
「それは?」
「止血薬。手持ちの在庫を倍にしておく」
止血薬を増産している。つまりマルタも、流血を想定している。乳鉢で薬草をすり潰す音が、やけに静かな小屋に響く。
「マルタさん。王都と、冒険者ギルドの話。もう少し教えてもらえますか」
マルタの手が一瞬止まった。乳鉢の縁に棒が当たって、コツン、と硬い音。それからゆっくり、俺に向き直った。
「……早いね。その質問が来るのは、もう少し先だと思っていたよ」
「備えです。最悪の場合を考えておきたい」
最悪の場合。この村がどうにもならなくなったとき、俺はどこに行けばいい。この村以外の世界を、まだ何も知らない。それは——リスク管理の最大の穴だ。単一拠点への依存。バックアップなし。前の世界でも、それは致命傷だった。何の致命傷かは思い出せないが。
マルタが椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。窓から差し込む午後の光が、老婆の白髪を柔らかく縁取っている。
「この村から北東に三日歩くと、街道に出る。街道を東に二日で王都レグニッツ。大きな街だよ。城壁に囲まれて、十万を超える人間が暮らしている」
十万。この村が十数軒だから、規模の差が想像を超える。十万人が一つの城壁の中にいる。それはどんな密度だろう。
「王都には冒険者ギルドがある。魔獣の討伐や、素材の採取、護衛——そういう仕事を請け負う組織だ。実力があれば、誰でも登録できる」
「誰でも?」
「身元の保証は要らない。名前とスキルの申告だけだ。余所者でも、流れ者でも構わない。実力がすべて」
実力がすべて。成果主義。それは——馴染みがある。同時に、どこか苦い。成果主義は公平なようでいて、結局は数字を出せる者が正義になる仕組みだ。それが何を壊すか、体が覚えている。
「スキル、とは」
「この世界の人間は、稀に特別な力を持って生まれる。あるいは——目覚める。紋章として体に現れるのが特徴だよ」
マルタの目が鋭くなった。俺の右手に視線が落ちる。
「お前さんの右手のことだよ」
知っていた。この老婆は、俺の掌の異変に気づいていた。
「いつから」
「お前さんが来た日からさ。右手だけ体温が高い。薬師は人の体に触れるのが仕事だからね。隠しているつもりだっただろうが、あたしには筒抜けだったよ」
ぐうの音も出ない。
「まだ何なのかわからないんです。熱いだけで、何も起きていない」
「そうかい。なら——そのうちわかるよ。きっかけがあればね」
マルタの声に含みがあった。「きっかけ」の意味を問う前に、マルタが立ち上がった。会話は終わりだ。
「王都の話はまた今度。今夜の見回りに行きな。体は大事にね」
小屋を出ると、夕暮れが始まっていた。西の空が橙から紫に変わっていく。秋の日は短い。村の煙突から夕餉の煙が立ち上り、風に乗って根菜を煮る甘い匂いが漂ってくる。
普段なら心地いい時間帯だ。
だが南の森に目を向けると、木々の稜線が夕闇に沈み始めている。影が濃い。昨日より濃い。あの森の奥で、赤い目をした何かが動いている。こちらに向かって。
第一シフトの見回りに入った。
ドルクと二人、南面の柵に沿って歩く。足元に霜が降り始めている。靴底が草を踏むたび、パリパリと乾いた音がする。息が白い。槍を握る手が冷たい。指の感覚が薄れてくる。革の巻きが手汗を吸って湿っている。
沈黙。ドルクは話しかけてこない。俺も話さない。ただ、二人とも同じ方向を——南を見ている。
月が高い。雲がない分、視界は悪くない。森の輪郭が月光に浮かんでいる。木々の間に動くものはない。風が止まっている。空気が重い。
ない——はずだった。
「おい」
ドルクが立ち止まった。槍を構える。腰を落とし、穂先を前方に向ける。訓練された動き。この男は実戦を知っている。
俺もそちらを見た。
森の縁。柵から百歩ほどの距離。枯れ枝が散乱する地面の上、二本の太い幹の間に——光。
二つの赤い光が、低い位置で並んでいた。
目だ。
何かがこちらを見ている。動かない。ただ、見ている。値踏みするように。品定めするように。あの光の奥に、巨大な質量がある。月光の下でも輪郭が見えないのは、全身が闇に溶ける色をしているからだ。
掌が焼けた。突然。警告のように。熱が一気に手首まで駆け上がる。
息を殺した。横目でドルクを見る。ドルクの顎が微かに震えている。だが足は動かない。逃げない。
赤い光が、ゆっくりと左に動いた。巨体が枝を折る音。パキ、と乾いた一音。そして光が消えた。木の幹の向こうに溶けるように。
五秒。十秒。三十秒。
「……行ったか」
ドルクの声が掠れていた。槍を握る手が白い。穂先が月光の中で細かく揺れている。
「偵察だ。群れか単体かを確認しに来た。こちらの防御態勢を見定めている」
俺の口が勝手に言った。根拠はない。だが確信がある。あれは獲物を見定める目だった。捕食者の目。次に来るときは、見るだけでは終わらない。
ドルクが俺を見た。暗闘の中で、顔の半分が月光に照らされている。恐怖と——もう一つ。何かを認める顔。
「——お前の言う通り、南面は二人でよかった」
それだけ言って、ドルクは再び歩き出した。槍の穂先が月光を弾く。背中は大きい。震えてはいるが、前を向いている。
俺はもう一度南を見た。赤い光はもう見えない。だが掌の熱は収まらない。むしろ、あの「目」が現れてから、脈動が速くなっている。
呼応している。掌の中の何かと、森の中の何かが。同じ周波数で振動している。
——明日か。明後日か。
猶予が縮んでいく音が、冷えた夜気の中に染み込んでいた。