第4話
第4話
朝の井戸端に、村人が固まっていた。
いつもなら散り散りに畑へ向かう時間帯だ。それが今日は誰も動かない。低い声が幾重にも重なって、秋の冷えた空気を震わせている。息が白い。吐くたびに、不安の形をした煙が立ち上るようだった。
マルタが村長に伝えたのだろう。俺が森で見た爪痕と焦げ跡のことを。
井戸水を汲みに行く振りをして、輪の端に立った。桶を下ろす手に冷水が跳ねる。指先が痺れるほど冷たい。秋が深まっている。あと半月もすれば、この水は凍る。
言葉はまだ完璧じゃない。だが空気は読める。これは会議だ。結論の出ない、恐怖だけが発酵していく類の。
「——大きい。あの爪は、熊なんかじゃない」
若い男が震えた声で言っている。隣の男が腕を組み、何度も頷く。同意しているのか、自分を落ち着かせているのか。
「森の南は三十年前にも荒れた。あの時は村の端の畑が潰された」
年配の女が唇を引き結んだ。彼女の目は畑の方角——南を向いている。
「だが三十年前は、村の柵まで来なかった」
別の男が言う。つまり今回は違う、と。言外の不安が声を細くしていた。
村長が井戸の縁に腰かけていた。白い髭をしきりに撫でている。目が泳いでいる。発言を求められるのを恐れている顔だ。部下に指示を出せない上司。議題を振られると咳払いで時間を稼ぐタイプ。
——知っている。この空気。
危機が迫っているのに、誰も最初の一手を決められない。全員が「誰かが判断してくれること」を待っている。結果、会議は長引き、決定事項ゼロのまま散会する。何度見たか。何の会議だったかは思い出せないが、この停滞の匂いだけは体が覚えていた。
煙突から上がる朝の煙が、風に流されて南に棚引いている。穏やかな景色だ。畑の紫の葉が朝露を弾いている。だがその南の先には、あの爪痕がある。
マルタが俺を見た。井戸端の輪から少し離れた場所で、杖に体重を預けて立っている。目が「言いな」と言っている。
俺は首を振った。まだ早い。余所者が口を挟めば空気が壊れる。それも知っている。
結局、井戸端会議は昼前まで続いて、何も決まらなかった。
予想通りだ。議題が恐怖に根ざしている場合、人は解決策ではなく共感を求めて話し続ける。結論が出ない会議ほど長い。これも——前の世界で学んだことか。
マルタの小屋に呼ばれた。村長とドルクが先に来ていた。
村長は小柄な男で、白い髭の下の唇が細かく震えている。目の下に濃い隈。昨夜は眠れなかったのだろう。ドルクは壁に背を預けて腕を組んでいる。俺が入ると、眉間の皺がさらに深くなった。
乾いた薬草と樹脂の匂いが鼻を通る。棚に並んだ瓶が窓からの光を受けて琥珀色に光っている。この匂いの中にいると、頭が勝手に整理モードに入る。マルタの小屋は俺にとって会議室だ。
「レン。朝の話、聞いていたね。お前さんの考えを言いな」
マルタが促す。村長が不安そうに俺を見た。ドルクは見もしない。
俺は一呼吸置いて、口を開いた。
「三つ、やるべきことがあります」
指を立てる。社畜の癖だ。いや、この世界では「社畜」という言葉は意味を持たない。ただの——染みついた仕草。
「一つ目。柵の補強。南側を優先。今の柵は家畜を囲うためのもので、大型の獣を想定していない。丸太を二重にして、杭を斜めに打ち込めば突破されにくくなる。材料は森の北端から切り出せます。三人で一日あれば南面は終わる」
村長の目が少し動いた。具体的な話には反応する。当然だ。抽象的な不安より、やることリストの方が人は安心する。工数と人数を添えれば、さらに安心する。
「二つ目。食料と水の備蓄確認。最悪の場合、三日間は外に出られない想定で足りるか。足りなければ今日中に追加で確保する。干し肉と穀物。水は井戸が村の中心にあるから、柵の内側にいる限り確保できる」
村長が頷きかけた。ドルクが鼻で笑った。
「三つ目。避難経路の確認。村の北側から丘陵を越えれば、隣村まで半日。女性と子供を先に逃がす手順を決めておく。誰が先導し、誰が殿を務めるか。自警団の配置を——」
「——余所者が、偉そうに」
低い声が遮った。予想通りの反応。予想通りのタイミング。三つ目の提案、自警団に言及した瞬間。ドルクにとって自警団は聖域だ。そこに余所者が口を出すのは——
「お前はここに来て何日だ。この村のことも、森のことも、何も知らないくせに」
ドルクの声には怒り以上に、屈辱が滲んでいた。自警団を率いる自分ではなく、言葉もろくに話せない余所者が危機管理を語る。そのこと自体が耐えられないのだ。
壁から背を離し、一歩近づいてくる。汗と革の匂い。拳が握られている。
俺は反論しなかった。正しさで殴っても、人は動かない。それは——前の世界で嫌というほど学んだ。正論は凶器だ。振り下ろした瞬間に、協力の可能性を叩き潰す。
「ドルクの言う通りだ。俺は何も知らない。だから判断は村長とドルクがすればいい。俺は手足として動く。使い方を決めるのはそちらだ」
提案ではなく提供。主導権は渡す。やることだけを示して、決定権は相手に握らせる。
ドルクの顔が一瞬、読めない表情になった。拍子抜けしたのか、余計に腹が立ったのか。唇が動きかけて、止まった。
村長が口を開きかけて、また閉じた。髭を撫でる手が震えている。この人は決められない。決められないまま、事態は進む。
沈黙が重い。
マルタが立ち上がった。椅子の軋む音が小屋に響く。
「柵の補強は今日から始めるよ。レン、段取りを組みな。ドルク、人手を出しな。村長——あんたは村の衆に説明しておくれ」
三つの指示。過不足なく、明確。マルタが動けば村は動く。薬師の言葉は、この村では村長より重い。長い年月をかけて、命を預かり続けた人間の信用。それは肩書きでは買えない。
ドルクが舌打ちして出て行った。背中が何かを堪えている。村長がおずおずと後に続く。
二人が去った後、マルタが俺を見た。皺の奥の目が、薄く笑っている。
「上手いね。あの言い方なら、ドルクの面子も潰れない」
「……慣れてるだけです」
「慣れ、ね」
マルタが窓の外に目を向けた。南の森の稜線が、午後の陽光に照らされている。穏やかな景色。だがその下に、何かが潜んでいる。
「レン。この村にはもう、長くいられないかもしれないよ」
「……え?」
「お前さんの話じゃない。いや——お前さんの話でもあるか」
マルタはそれ以上言わなかった。棚から瓶を取り出し、調合を始める。いつもの動作。だが指先の力加減が、ほんの少しだけ強い気がした。乳鉢を擦る音が、やけに大きく小屋に響いた。
夜。
藁の上に横になる。山羊が三頭、寄り添うように丸まっている。一頭が俺の脇腹に顔を押しつけてきた。獣の体温が布越しに伝わる。鼻の奥には藁と獣の匂い。もう慣れた。最初の夜に咳き込んだのが嘘のようだ。
昼間の柵補強は予定通り進んだ。南面の丸太を二重に組み、杭を四十本打ち込んだ。ドルクは一言も俺に話しかけなかったが、作業の手は抜かなかった。言葉より行動。この男は口が悪いだけで、村を守る気は本物だ。
右の掌が、またじんわりと熱い。
今日は特にひどい。脈拍に合わせて、何かが皮膚の下で膨らんだり縮んだりしている。触ると表面は普通の肌なのに、内側だけが別の温度を持っている。火傷のような痛みではない。もっと深い。骨の内側から温泉が湧いているような、じわじわとした圧力。
何だ、これは。
体の中に、俺のものじゃない何かが棲んでいる。記憶の霧の向こうにある「前の世界」と同じくらい、掌の中身が見えない。ただ、一つだけ違いがある。
記憶は過去だ。取り戻すかどうかの話でしかない。
だが掌の熱は、未来だ。これから何かが起きる。その予感だけが、鳥肌が立つほどはっきりしている。
壁の隙間から夜空が見える。星が密に散っている。この世界の星は、前の世界——いや、まだ思い出せない。ただ、これほど多くの星を見たことはなかった気がする。空気が澄んでいるのか。それとも前の世界では、星が見えない場所にいたのか。
——遠くで、音がした。
低い。地鳴りのような。だが地面は揺れていない。
森だ。南の森の方角から、何かの咆哮が闇を伝ってくる。空気を震わせて、村を越え、丘陵の向こうまで広がっていく。
山羊が三頭とも首を上げた。耳がぴくぴくと動いている。目が大きく見開かれ、黒い瞳に恐怖が浮かんでいる。
二拍。三拍。沈黙。虫の音すら消えた。
そして、もう一度。
今度ははっきり聞こえた。咆哮というより——嗤い声に似ていた。何かが楽しそうに、森の奥で暴れている。
木が折れる音が連続した。バキ、バキ、バキ。遠いが確実に、昨日より近い。音の間隔が短くなっている。移動しながら壊している。
掌の熱が跳ねた。
心臓と同じリズムで、掌の奥の「何か」が脈打っている。呼応している。あの咆哮に。あの力に。引き寄せられている——のか、それとも、警告しているのか。
——これは、まずい。
村の柵では足りない。丸太を二重にしたところで、あの爪痕をつけた何かを止められるとは思えない。今日打ち込んだ四十本の杭が、子供の積み木のように感じる。
だが今夜じゃない。まだ距離がある。あと——二日。いや三日か。正確にはわからないが、森の奥から村までの距離と、木が折れる音の移動速度から逆算すると、猶予はせいぜいそのくらいだ。
三日。
デスマーチの納期と同じだ。足りないが、やるしかない。
掌を握り締めた。熱が指の骨を伝って、腕の内側を昇っていく。肘の裏まで到達する。初めての感覚。恐怖と、それに似て非なる何か。
昂揚——ではない。
覚悟の、手前。
山羊が一頭、俺の腕に顔を押しつけてきた。温かい息が手の甲にかかる。震えている。山羊のほうが正直だ。本能で、何かが来ると感じている。
その瞬間、森の方角から、今までで一番大きな咆哮が夜を引き裂いた。
小屋の壁が僅かに振動した。
藁が数本、天井から落ちてくる。