Novelis
← 目次

社畜スキルで異世界成り上がり

第29話 第29話

第29話

第29話

帝国軍が完全に撤退したのは、翌日の夕方だった。

城壁の上から見送った。冬の夕日が低い。オレンジ色の光が城壁の石を暖かく染めている。三千の軍勢が、来た道を帰っていく。旗は下ろされ、隊列は乱れている。意気揚々と来た時とは別の軍だ。負傷兵を支える兵士。空の荷車。壊れた魔導兵器の残骸を引きずる馬。

砂煙が北東に消えていく。冬の夕日が兵士たちの影を長く伸ばしていた。影だけが、来たときと同じ堂々とした長さを保っている。

王都の街が歓声に包まれた。酒場から歌声が漏れ、広場で人々が抱き合っている。冒険者たちは城壁の上で酒を交わし、互いの武勇を語っている。

俺はギルドの作戦本部にいた。テーブルの上の地図と配置図を片付けている。戦後処理。報告書の作成。被害状況の集計。負傷者の名簿。修繕が必要な城壁の区画リスト。使用した物資の在庫確認。次回への改善点。

一枚一枚、紙を整理していく。インクが乾いた紙の匂い。蝋燭の煤の匂い。二日間、この部屋で指揮を執り続けた。テーブルにこぼれたコーヒーの染みが残っている。椅子の肘掛けが汗で濡れている。戦いの痕跡は、華やかな場所だけにあるのではない。裏方の部屋にも、同じだけの時間と緊張が刻まれている。

社畜は、祝賀の前に後処理をする。打ち上げは仕事が終わってからだ。

ハインツが入ってきた。手に封書を持っている。

「これが——マルタのもう一通の手紙だ。お前には渡すなと言われていた」

「なぜ渡すなと」

「読めばわかる。もう渡してもいいだろうと、俺が判断した」

封を切った。マルタの字。几帳面だが温かみのある筆跡。マルタの小屋で薬草を束ねる手と同じ手が、この文字を書いた。

『ハインツへ。この手紙はレンには見せないでおくれ。あの子が王都に着いて、自分の力と向き合えるようになった頃に、あんたの判断で渡すか決めてくれ。

あの子の右手にある紋章は、クラウスと同じだ。

あたしの息子クラウスが持っていたのと、同じ紋章。あの子が大迷宮の奥で消えたとき、あの紋章も一緒に消えた。それが二十年の時を経て、この村に行き倒れてきた若者の手に宿った。

偶然とは思えない。クラウスの力が、新しい器を見つけたのだ。

あの子の力は三百年前の災厄と同じだ。でも目が違う。クラウスと同じ理不尽に慣れた目をしている。でもクラウスより——生きようとしている。壊れかけているのに、まだ立っている。

だからあたしは構った。スープを持っていき、言葉を教え、薬草の仕事を任せた。クラウスにしてやれなかったことを、全部やった。二十年遅い償いだよ。

あの子は壊れない。クラウスは壊れた。あたしは止められなかった。でもあの子は——自分で止まれる人間だ。体が壊れるまで走り続けた人間だけが持つ、ブレーキを知っている。

ハインツ。あの子を守ってやっておくれ。でも守りすぎるな。あの子は自分で決めることを学ばなきゃいけない。あんたにできるのは、情報を与えて、選択肢を見せてやることだけだ。決めるのはあの子だ。

マルタ』

手紙を読み終えた。

手が震えていた。紙が微かに揺れている。文字が滲んで見えた。目が潤んでいるのか。いや——潤んでいた。認めたくないが、事実だ。

マルタの息子クラウスは——万象剥離の保有者だった。俺の前の「器」。二十年前に大迷宮の奥で消え、紋章が再び次の器を探した。それが俺だった。

マルタは最初から知っていた。俺の紋章が何か。息子と同じ力だと。だから構った。スープを持ってきた。言葉を教えた。薬草の仕事を任せた。

あの日、家畜小屋に最初のスープを持ってきたとき、マルタの手が震えていたのを思い出した。あれは老人の手の震えだと思っていた。違う。息子の紋章を持つ男を目の前にして、二十年分の感情が溢れそうになっていたのだ。

二十年遅い償い。

息子を助けられなかった母親が、同じ力を持つ余所者に、息子にしてやれなかったことを全てやった。あのスープの味は——母親の後悔と愛情を煮込んだ味だった。

涙は出なかった。出そうになったが、胸の奥で止まった。喉が締まって、呼吸が浅くなった。拳を握った。爪が掌に食い込む。紋章の線をなぞるように。

代わりに、手紙を丁寧に折りたたんで、胸のポケットにしまった。マルタの息子の革の手袋の隣に。クラウスの手袋と、マルタの手紙が、同じポケットに収まった。親子の遺品が、俺の胸の上で重なっている。

ハインツが窓際に立っていた。外を見ている。

「クラウスは——俺の師匠だった。強くて、賢くて、段取りがうまくて。報告書が丁寧で。お前に似ていた」

ハインツの声が掠れた。窓の外を見ている。夕日が顔の半分を照らし、半分が影に沈んでいる。この男にとって、クラウスの話をするのは二十年分の傷口を開くことなのだろう。

「知っていたんですか。俺の紋章がクラウスさんのものだと」

「マルタの手紙で知った。お前が王都に来る前から。だから——俺はお前を観察した。クラウスと同じ道を歩くのか。それとも、違う道を選ぶのか」

「クラウスさんは——大迷宮で何を見たんですか」

「わからない。帰ってこなかったから。ヴォルフの真実を知ろうとして、深層に潜って——戻ってこなかった。力に飲まれたのか、封印に拒まれたのか」

俺は帰ってきた。クラウスにはできなかったことを、俺はやった。ヴォルフに会い、制御法を得て、戻ってきた。

マルタの手紙の言葉が蘇る。「あの子は壊れない」。

壊れなかった。壊れかけたが——止まれた。ブレーキを踏めた。社畜が身につけた最後の技術。限界を知ること。

「ハインツさん。マルタさんに手紙を書きます」

「書け。あの婆さんも待っているだろう」

ギルドの机で、紙とペンを借りた。何を書けばいいか、考えた。

『マルタさんへ。

レンです。生きています。王都で冒険者をやっています。Dランクです。

あなたのスープの味は忘れていません。フェイルという果物を知りましたか。甘いです。あなたに食べさせたい。

右手の力について、全部知りました。クラウスさんのことも。あなたがなぜ俺に構ってくれたのかも。

壊れませんでした。壊れかけたけど、止まれました。あなたが教えてくれたからです。「自分で決めて、使いな」。その言葉が、全部を救いました。

もう社畜じゃありません。自分で決めて、自分で動いています。まだ下手くそですが、毎日練習しています。

手袋は大事に使っています。クラウスさんの革の匂いがまだ残っています。

ダンケシェーン。

レン』

封をした。蝋で封印する。ギルドの蝋燭から溶かした赤い蝋が紙の上に落ちて、固まった。指で押すと温かい。まだ柔らかい蝋の中に、指紋が残った。

ハインツに渡した。定期便で届くだろう。辺境の村まで、二週間。マルタが手紙を開く頃には、もう冬の真ん中だ。

ミラがギルドの中庭にいた。冬の陽光の中で、枯れた草を踏みしめている。銀髪が光を受けて白く輝いていた。

「北に戻るのか」

「はい。でも——帝国に戻るのではなく、自分の意志で帰ります。やるべきことがあるから」

「何をする」

「帝国の中で、変えるべきことを探します。命令に従うだけの人間をやめて——自分で考える人間になります」

ミラが微笑んだ。初めて見る笑顔だった。硬さがない、自然な笑み。十五歳の少女の顔。頬が赤い。冬の冷気のせいか、感情のせいか。

「あなたのおかげです」

「俺はなにもしていない。お前が自分で選んだんだ」

「そうですね。でも——選ぶということを、教えてくれたのはあなたです」

マルタが俺に「自分で決めろ」と教えてくれた。俺がミラに「お前も選べる」と言った。バトンが渡されていく。壊れかけた人間が、次の壊れかけた人間に、選ぶことを教える。不格好な連鎖だ。だが——それが、俺たちにできることだ。

ミラが背を向けた。北門を出て、街道に向かう。背嚢を背負った小さな背中が冬の光の中を歩いていく。大きすぎた軍服はもう着ていない。平民の旅装束に着替えている。自分の体に合った服を、自分で選んだのだろう。

振り返らなかった。

俺も振り返らなかった。マルタの村を出たときと同じだ。振り返れば、足が止まる。前を向いて歩くしかない。

中庭で一人、掌を見た。冬の陽光が紋章の線を照らしている。紋章が穏やかに光っている。もう熱くない。もう痛くない。もう暴走しない。

自分の一部になった。ようやく、本当に。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ