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社畜スキルで異世界成り上がり

第30話 第30話

第30話

第30話

戦後三日目の朝。

目覚めて最初にしたのは、掌を見ることだった。毎朝の儀式になっている。紋章の線がそこにある。薄く、静かに。光っていない。熱くもない。ただ、ある。

起き上がって窓を開けた。冬の朝の空気が部屋に流れ込む。冷たいが不快ではない。屋根に積もった薄い雪が朝日に光っている。煙突から煙が上がっている。パン屋の煙だ。焼きたてのパンの匂いが、遠くからかすかに届く。

服を着替えて、宿を出た。今日からは元の宿に戻っている。ギルドの仮眠室ではなく、四畳半の個室。窓が小さいが、外が見える。壁に染みがある。天井が低い。だがここは俺の部屋だ。社畜時代のワンルームより狭いが、あの部屋には「帰りたい」と思ったことがなかった。この部屋には帰りたいと思う。

大通りを歩いた。石畳に残った血の跡が、冬の雨で薄く流されている。完全には消えない。復興が始まっている。城壁の修繕に石工が動員され、鶴嘴が石を叩く硬い音が朝の空気に響いている。ギルドの冒険者が瓦礫の撤去を手伝っている。戦場だった北門の周辺は、まだ焦げ跡が残っている。魔導兵器の光球が当たった場所は、石が黒く変色している。魔獣の甲殻の破片が転がっていた。冒険者の子供が破片を拾って、友達に見せびらかしている。黒い甲殻の欠片が、朝日を受けて鈍く光っている。

日常が戻りつつある。三日前の戦場が、もう日常に飲み込まれ始めている。人は忘れる。忘れることで、前に進む。

ギルドに入った。掲示板の前に立つ。依頼書がびっしりと貼られている。復興関連の依頼が増えていた。城壁修繕の資材運搬。瓦礫撤去。郊外の警戒巡回。地味な仕事。だが必要な仕事。

一枚を手に取った。

郊外の薬草採取依頼。報酬は標準。危険度は低。パーティ不要。

なぜこの依頼を選んだのか、自分でもわかっていた。マルタを思い出したのだ。薬草を採る仕事。丘陵の朝露に濡れた草。茎の三節目から上を切る。根は残す。使用頻度順に束ねる手順。マルタの皺だらけの手が草を束ねる動き。あの記憶が、無意識に手を伸ばさせた。

三日前まで戦場にいた男が、今日は薬草摘みの依頼を選んでいる。落差がすごい。だがその落差が心地よかった。戦場の緊張から、日常の静けさに戻る。このギャップこそが「生きている」という実感だ。

受付嬢にプレートを見せて依頼を受けた。

「レンさん、昨日ヴェルナーさんから伝言がありました。『特別功労による昇格を提案するが、受けるかどうかはお前が決めろ』と」

昇格。DからCへ。あるいは、もっと上か。戦場での功績を考えれば、飛び級もありうる。

「……断ります」

受付嬢が目を丸くした。

「Dのままでいい。実力が追いついていない昇格は、次の依頼で足元を掬われる。地道に上げてください」

社畜の教訓。実力以上の肩書きは、プレッシャーにしかならない。かつて入社三年目で「主任」を押し付けられた同期が、半年で潰れた。肩書きは実力の証明であるべきで、先行投資にしてはいけない。

受付嬢が微笑んだ。「わかりました。Dランクのまま記録します」

ギルドを出て、郊外に向かった。

冬の街道を歩く。石畳が霜に白くなっている。吐く息が白い。マルタの手袋をはめた手が温かい。革の中に、二十年前の温もりがまだ宿っている。

丘陵地帯に出た。辺境の村の周辺とは植生が違うが、空気の感じは似ている。広い空。冷たい風。土の匂い。草の匂い。

薬草を見つけた。ラウフ草に似た種類だが、こちらの方が茎が太い。三節目から上を切る。根を残す。マルタが教えてくれた採取法。同じ手順が体に染みついている。

効率的なルートを組んだ。三箇所の群生地を回る順番。採取時間と移動時間の最適化。社畜スキル。どこにいても発動する。

だが今日は——急がなかった。

最適ルートを組んでおいて、そのルートを外れた。小高い丘の上に登った。理由はない。ただ、景色が見たかった。

丘の上から王都が見える。城壁が冬の陽光に灰色に光っている。北門のあたりに足場が組まれている。修繕中だ。あそこに俺は立っていた。掌を開いて、魔導兵器を剥がした。

煙突から煙が無数に立ち上っている。パン屋。鍛冶屋。酒場。生活の煙。あの壁の中に十万人が暮らしている。三日前、俺はあの壁の上に立って、帝国軍と対峙していた。十万人の日常を守るために。

今は薬草を摘んでいる。膝をついて、土の匂いを嗅ぎながら。

落差がおかしい。笑いが込み上げた。

「戦場で英雄をやった翌週に薬草摘み。前の会社でも、大型案件の翌月に雑用に戻されたな」

大型案件で徹夜して、翌月のアサインがマニュアル整備だった。あのときは虚しかった。今は——虚しくない。薬草摘みも、大型案件も、俺が選んだ仕事だ。価値に上下はない。

声に出して笑った。丘の上には誰もいない。風が笑い声を運んでいく。冬の澄んだ空に溶けて消える。

ポケットからマルタの手紙を取り出した。何度も読んだ。もう暗記している。だが紙に触れると、マルタの指の感触が伝わる気がした。

「壊れませんでしたよ、マルタさん」

声に出した。遠い辺境の村に届くはずはない。だが風に乗せた。

薬草を束ねて背嚢に入れた。使用頻度順に並べるのは、もう反射だ。

丘を下りて、王都に戻る。途中で串焼き屋に寄った。あの屋台。鶏じゃない何かの肉を炭火で焼いている。一本買って、歩きながら齧った。塩と香辛料。脂がじゅわりと口に広がる。旨い。

ギルドに戻って報告書を出した。薬草の種類、採取量、場所、状態。A4一枚にびっしりと。受付嬢がもう驚かなくなっている。「いつも通り完璧ですね」。

掲示板の前を通りかかったとき、目が止まった。

新しい告知が貼られている。紙が真新しい。墨の匂いがまだ残っている。

「大迷宮第四十八層以深——調査隊募集。王令により封鎖解除。ヴォルフの封印消滅に伴い、深層の調査を開始する。参加資格:Cランク以上」

第四十八層以深。ヴォルフの封印が消えたということは——あの白い空間はもうない。ヴォルフの残留意思は成仏した。安らかに。

そして封印の先にあった深層が、初めて人類に開放される。三百年間、誰も足を踏み入れたことのない領域。何があるかわからない。

参加資格はCランク以上。俺はD。足りない。

——ちょうどいい。目標ができた。Cランクに上がって、調査隊に参加する。地道に依頼をこなし、実力をつけて、自分の力で昇格する。

掌を見た。紋章の線に触れた。凸凹がある。刻まれた模様。自分の一部。

「……面白そうだ」

声に出した。

面白そう。その言葉が、口から自然に出た。前の世界では一度も使わなかった言葉だ。仕事に「面白そう」と感じたことがない。すべてが義務で、すべてがノルマで、すべてが「やらなければならないこと」だった。

ここでは違う。やりたいからやる。面白そうだから選ぶ。

社畜は死んだ。いや——社畜のスキルは生きている。段取り力。報連相。優先順位付け。工程管理。全部使える。六年間で体に叩き込まれたスキルは消えない。消えないが、使い方が変わった。動機が変わった。命令ではなく、選択。義務ではなく、意志。同じ道具でも、握る理由が違えば、出力が変わる。

ギルドを出た。冬の夕暮れ。空が橙色に染まっている。城壁の向こうに沈む太陽が、王都を金色に照らしている。

大通りを歩く。冒険者が行き交う。酒場から歌声が漏れる。子供が走る。犬が吠える。

日常だ。俺が選んだ日常。

掌を開いた。紋章は光っていない。光らせる必要がない。ただそこにある。俺の一部として。

マルタの手袋が温かい。胸のポケットに手紙がある。背嚢に薬草が入っている。腰にDランクのプレートがぶら下がっている。

全部、俺のものだ。誰かに与えられたのではなく、自分の手で掴んだもの。

次の朝も掌を見るだろう。紋章の線を指でなぞるだろう。ヴォルフの顔を思い出すだろう。マルタのスープの味を思い出すだろう。ハインツの鷹の目を。ミラの銀髪を。ガルドの「任せる」を。リーナの笑顔を。クルツの「次も組むか」を。

全部が俺の一部だ。この世界で出会った全ての人が、俺を作っている。前の世界で俺を作ったものは——疲労と義務と諦めだった。ここで俺を作っているものは——選択と意志と、人の温かさだ。

「今日は何をするか」と自分に問いかけるだろう。そして——自分で答えるだろう。

それが、社畜をやめた男の——蓮の、新しい朝の始め方だ。

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