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社畜スキルで異世界成り上がり

第26話 第26話

第26話

第26話

ギルドに戻ったのは、迷宮に入って三十時間後だった。夜明け前。

地上に出た瞬間、膝が折れかけた。体は疲弊している。三十時間、ほぼ休みなしで動いた。筋肉が震えている。指先が冷たい。地下にいる間は気づかなかったが、体温が下がっている。

三十時間ぶりの地上の空気が、冷たくて甘い。冬の朝の匂い。霜と石畳と、遠くの煙突からの煙。パン屋がもう仕事を始めている。焼きたての小麦の香りが風に乗ってくる。肺いっぱいに吸い込んだ。冷たい空気が喉を焼いて、肺の奥まで届いた。生きている。地上に戻ってきた。

ハインツが入口で待っていた。壁にもたれて腕を組んでいる。外套の襟を立てている。冬の夜明け前、外で立ち続けていたのだろう。一晩中。目の下に隈がある。頬が冷気で赤い。だが俺を見て、微かに笑った。

「帰ってきたな」

「約束通りです」

「マルタに手紙を書ける」

それだけ言って、ハインツはコーヒーを差し出した。陶器のカップが温かい。両手で包んだ。手のひらに熱が染みる。凍えた指が溶けていく。

一口飲んだ。苦い液体が舌と喉を焼いた。この世界にもコーヒーに似た飲料があるのか。豆ではなく木の実を焙煎したものらしいが、苦味と温度は前の世界と変わらない。残業明けのコーヒーの味だ。自販機の缶コーヒー。百三十円。その味が、こんなに遠い場所で再現されている。

二口目を飲んだ。胃に温かいものが落ちた。体の芯から温まる。三十時間ぶりの温かい飲み物。涙が出そうになった。出なかったが、鼻の奥がツンとした。

仮眠を二時間とった。硬いベッドが天国に感じる。毛布を被った瞬間、体の全ての緊張が一気に解けた。目を閉じた瞬間に意識が落ちて、二時間後に正確に起きた。社畜の体内時計は正確だ。どんな状況でも設定した時間に起きる。残業中でも仮眠の時間管理だけは完璧だった。生存のためのスキル。

起きて顔を洗った。冷たい水が目を覚ましてくれる。ヴェルナーに報告した。

「ヴォルフの残留意思と対話しました。制御法を得ました」

ヴェルナーが身を乗り出した。

「制御できるのか」

掌を開いた。紋章が光った。白い光。だが村で暴走したときとは全く違う。光が穏やかだ。範囲が限定されている。掌の周囲五センチだけが光り、それ以外には一切影響しない。

「対象、範囲、深度。全て意志で制御できます」

ヴェルナーのデスクの上にあったペンを指した。

「見ていてください」

紋章を少しだけ発動させた。ペンの塗装——表面の漆だけが、薄い膜のように剥がれた。ペンの木地が露出する。だがペンは折れていない。形も変わっていない。表面の一層だけ。精密。正確。

ヴェルナーがペンを手に取って確認した。目が鋭くなる。

「これを——魔導兵器に使えるか」

「動力核を覆う外殻を剥がせば、無力化できます。兵器の構造次第ですが」

「偵察情報では、帝国の大型魔導兵器は外殻に魔力遮断金属を使っている。通常の魔法では破れない。だが物理的に剥がすなら——」

「剥がせます。金属の層構造なら、俺のスキルが最も得意とする対象です」

ヴェルナーが地図を広げた。王都の防衛線。城壁の配置。魔導兵器の予想進軍ルート。

「作戦を立てる。お前の能力を前提にして」

社畜の本能が反応した。作戦立案。プロジェクト計画。リソース配分。タイムライン。全部、得意分野だ。

だが今回は——俺が一方的に使われるのではない。俺自身が作戦の策定に参加する。意志を持って。

三人で作戦を練った。テーブルの上に地図を広げた。王都周辺の地形。城壁の配置。主要な門の位置。紙の上に指で線を引きながら、頭の中でプロジェクト計画が組み上がっていく。ヴェルナーが全体統括。ハインツが情報分析。俺が——。

「俺は作戦本部にいるべきです。前線ではなく」

ヴェルナーが意外そうな顔をした。

「お前の能力は前線で最も活きるだろう」

「スキルの使用は限定的にします。前線に出れば暗殺者に狙われる。それよりも、全体の工程管理とリソース配分を俺に任せてほしい。冒険者の配置、防衛ラインの設計、撤退ルートの確保——社畜スキルの方が、万象剥離より戦局に貢献できます」

社畜スキルで戦う。段取り力で勝つ。チート能力は最後の切り札として温存する。

ハインツが笑った。「この男は本当に面白い。チートスキルより段取りで戦おうとしている」

ヴェルナーが腕を組んだ。考えている。

「——いい。作戦本部の指揮を任せる。ただし、魔導兵器が城壁に達した場合は前線に出ろ。それが最後の防衛ラインだ」

「了解です」

作戦が決まった。防衛計画を紙に書き出す。冒険者の配置図。シフト表。補給ルート。通信手段。撤退手順。非常時のエスカレーションフロー。すべてを書き出すと、テーブルいっぱいの紙になった。

インクが乾く前に次の紙を引き寄せる。ペンの穂先が紙を引っかく音が、会議室に響いた。六年間、プロジェクト計画書を何百枚も書いてきた。ExcelからPowerPointへ、メールからSlackへ——媒体は変わっても、やることは同じだ。Who、What、When、Where、How。五つのWHを埋めれば、計画は動く。

ハインツが紙を見て言った。「これは——完璧な工程表だな」

「社畜の六年間が、ここで役に立つとは思いませんでした」

あの六年間は無駄ではなかった。壊れかけた代償に得たスキルが、今この瞬間に意味を持つ。皮肉だが——感謝はしない。あの会社には。だがスキルには感謝する。

夕方、ミラが来た。ギルドの中庭で、前と同じ場所。

「使節団は明日帰国します。カール副官は怒っています。あなたが正式に断ったことを」

「断った。正式に。はっきりと」

「知っています。紋章が教えてくれました。あなたの意志が、前より——硬くなっています」

意志が硬い。ヴォルフから受け取った制御法。感情と意志の分離。それが紋章を通じてミラにも伝わっている。

「ミラ。北に戻るのか」

「はい。命令ですから」

その言葉を聞くたびに、胸の奥がきしむ。「命令ですから」。前の世界の俺の口癖と同じだ。「上の指示なんで」「会社の方針なんで」——全部、自分の意志を放棄するための呪文。楽だった。楽だったから、六年間使い続けた。

「命令に従うしかないのか」

ミラが沈黙した。冬の風が中庭を吹き抜ける。枯れた草が地面に張りついて、風に揺れもしない。銀髪が顔にかかる。ミラはそれを払わなかった。前髪の隙間から見える淡い紫の目が、何かを必死に考えている。

「私は——考えます。あなたが選んだように、私も——考えます」

考える。選ぶの手前にある行為。まず考える。「考える」と口に出すこと自体が、命令に従うだけの人間にとっては大きな一歩だ。俺もそうだった。「辞めることを考えてもいいんだ」と思えるまでに、何年もかかった。

「軍が来る。わかっているな」

「はい」

「そのとき——お前は、どちら側にいる」

ミラが俺を見た。淡い紫の目に、迷いと、微かな決意が混在していた。

「わかりません。でも——考えます。自分で」

自分で。

それだけで十分だ。今は。

ミラが去った。背中が冬の薄暗がりに消えていく。小さな背中。大きすぎる軍服の裾が風になびいている。だが、来たときより少しだけ——真っ直ぐに見えた。猫背が伸びている。顎が上がっている。些細な変化だが、俺の目には見えた。

仮眠室に戻った。窓の外は暗い。冬の夕暮れは早い。もう日が落ちている。

掌を開く。紋章が静かに光る。制御された光。自分の意志で灯した光。部屋の壁に紋章の模様が投影された。幾何学的な線が壁一面に広がって、まるでプラネタリウムのように見える。

明日、使節団が帰る。十日後、軍が来る。

その十日間で、社畜は戦場を設計する。段取りを組む。人を配置する。退路を確保する。

そして最後の最後に——自分の意志で、掌を開く。

それが俺の戦い方だ。

社畜は前線に出ない。社畜は裏方で全体を回す。だがいざとなれば——切り札を切る。自分の判断で。自分の意志で。

ベッドに横になった。硬いマットレスが背中に当たる。体が疲れている。三十時間の迷宮探索と、数時間の作戦会議。普通なら倒れている。だが社畜の体は、無理な工程に慣れている。デスマーチの後の疲弊感。これくらいなら、まだ動ける。

目を閉じた。すぐに眠りが来た。深く、重い眠り。夢は見なかった。それだけでも救いだった。

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