第25話
第25話
封印の扉の前に立ったのは、迷宮に入って十四時間後だった。
第三十層の隠し通路を抜け、さらに下へ下へ。紋章が道を示してくれた。壁に触れるたびに光が走り、次の通路を照らす。ヴォルフが後世の保有者のために作った道しるべ。三百年前の男が、未来の「器」のために残した地図。
封印の扉は、巨大な石の一枚板だった。高さ三メートル。幅二メートル。表面にびっしりと紋章の模様が刻まれている。俺の掌の紋章と同じパターンが、何百と反復されている。
掌を扉に当てた。石が温かかった。生きている温かさ。三百年間、ここで待っていた。
紋章が輝いた。俺の掌と、扉の模様が同時に光る。共振。周波数が一致していく。高い音が鳴った——いや、音ではない。骨を伝わる振動。頭蓋骨の内側が微かに震える。
扉が開いた。石が音もなく左右に割れ、中から白い光が溢れ出した。
白い空間。
壁も天井も床も、均一な白い光で満たされている。迷宮の地下にあるはずなのに、圧迫感がない。無限に広がっているようにも、手を伸ばせば壁に届くようにも見える。空間の感覚が曖昧になる。
空気が温かい。乾いていて、匂いがない。完全に無臭。これまでの迷宮が湿った石と苔の匂いに満ちていたのとは対照的だ。
そして——男が立っていた。
白い空間の中央に、一人の男。三十代後半に見える。痩せている。頬が削げて、目の下に濃い隈がある。茶色い髪は短く切り揃えられているが手入れはされていない。服装は簡素。農民の服に近い。宮廷魔術師の華やかさは微塵もない。
目だけが生きていた。深い琥珀色の目。疲弊しているが、光がある。
ヴォルフ。
三百年前に大陸を消した男。俺と同じスキルを持ち、俺と同じ弱さで壊れた男。
「——来たか」
ヴォルフの声は静かだった。低い。掠れている。三百年間ここにいたせいか、声の使い方が覚束ない感じがする。
「佐伯蓮です」
「蓮。変わった名だ。東の果ての名前か」
「別の世界の名前です」
「別の世界」
ヴォルフが微かに笑った。笑い方がぎこちない。笑う筋肉を長く使っていない顔。頬の皮膚がぎこちなく引きつれている。三百年間、一度も笑わなかったのかもしれない。一人きりの白い空間で、何を思って過ごしたのか。想像すると胸の奥が軋む。
「紋章が選んだ器が、異世界から来た者とはな。紋章には——趣味がいい」
「趣味?」
「壊れかけた人間を選ぶのが、この紋章の習性だ。私も壊れかけていた。お前も——そうだったのだろう」
図星だ。駅のホームで倒れた瞬間。壊れかけた社畜の体に、紋章が宿った。
「ヴォルフ。聞きたいことがある」
「知っている。制御の方法だろう」
ヴォルフが右手を持ち上げた。掌に紋章がある——はずだったが、今は薄い影しか残っていない。力の大部分が俺に移ったからだ。
「万象剥離の制御は、技術ではない」
ヴォルフが歩き始めた。白い空間の中を、ゆっくりと。俺は隣を歩いた。
「技術ではない?」
「技術は——範囲の限定、深度の制御、対象の選択。お前はすでにやっているだろう。ネズミの毛皮を剥がし、岩の表層を剥がし、短剣の刃を剥がした。それは技術だ。だが制御の本質は、そこにはない」
「では何が」
ヴォルフが立ち止まった。俺に向き直る。琥珀色の目が真っ直ぐこちらを見ている。三百年の孤独が、その目の奥に沈殿していた。
「意志だ」
「意志」
「自分の意志で使うと決めること。命じられて使うのではなく。頼まれて使うのではなく。自分が、自分の判断で、使うと決める。それが制御の鍵だ」
マルタが言った言葉と同じだ。「自分で決めて、使いな」。ハインツも同じことを言った。全員が同じ答えに辿り着いている。
「私は——できなかった」
ヴォルフの声が小さくなった。目が伏せられる。
「皇帝に命じられた。『大陸を剥離せよ』と。私は『はい』と答えた。答える以外の選択肢を知らなかった。いや——知っていた。だが選ぶ勇気がなかった。拒否すれば処刑される。死ぬのが怖かった。だが結局——」
「結局、消えた」
「そうだ。従っても消えた。拒否しても死んだだろう。どちらでも同じだった。だがもし拒否していれば、大陸は残っていた。何万人の命が残っていた」
ヴォルフの目が濡れていた。三百年間、この白い空間で、同じ後悔を反芻し続けたのだろう。
「お前にも『剥がせ』と命じる者が現れる。そのとき、お前はどうする?」
核心の問い。三百年前の後悔が、問いの形をとって俺に向けられている。白い空間に声が響いて、壁のない部屋の中でこだまする。ヴォルフの声が何重にも重なって聞こえた。
答えは——もう出ている。大迷宮に来る前から。いや、辺境の村を出たときから。マルタのスープを飲んだときから。ハインツの忠告を聞いたときから。ヴェルナーの契約書を読んだときから。全部が、この一つの答えに向かって収束していた。
「断る」
「理由は」
「俺が決めるからだ。何をいつどう使うか、俺が判断する。命令されたから使うんじゃない。使うべきだと自分が判断したから使う。断るべきだと判断したら断る。それだけだ」
ヴォルフが俺を見つめた。長い沈黙。白い空間に、二人の呼吸だけが響いている。
「……そうか」
ヴォルフの顔が変わった。三百年分の緊張が、一つ息を吐くことで解けていく。肩が下がる。顎の力が抜ける。目の奥の光が、後悔から安堵に変わった。
「お前に伝えることがある。制御の具体的な方法を」
ヴォルフが掌を見せた。薄い紋章の影。
「紋章は保有者の意志に呼応する。『使いたい』と思えば発動する。だが逆に——『使わない』という意志にも呼応する。問題は、恐怖や怒りで意志が揺らいだとき、紋章が暴走することだ」
「辺境で魔獣を追い払ったとき、まさにそれが起きた」
「そうだ。制御の鍵は、感情と意志を分離すること。怖くても、怒っていても、意志を保つ。感情は感じていい。だが意志は別だ。感情と意志を同一視しない。それができれば——紋章は暴走しない」
感情と意志の分離。社畜として六年間、俺はそれに近いことをしていた。疲れていても、嫌でも、辛くても——「仕事をする」という意志だけは揺るがなかった。あれは「従順」という名の意志の固定だった。
だが今は違う。「自分で選ぶ」という意志を固定する。従順ではなく、選択。
「やれるか」
ヴォルフの目が試すように光る。
「やれる。社畜は——意志だけは硬い」
ヴォルフが笑った。今度は自然な笑みだった。三百年ぶりに、心から笑った顔。
「ようやく、休めるな」
ヴォルフの体が薄くなり始めた。光に溶けていく。輪郭がぼやけ、透明になっていく。
「待ってくれ。まだ聞きたいことが——」
「もう時間がない。一つだけ。紋章の欠片を持つ者がいるはずだ。その者と共鳴すれば、力は増幅する。だが増幅した力を制御するのは——お前の意志だ」
ミラのことだ。欠片の保有者。共鳴。増幅。
ヴォルフの体がほぼ消えていた。輪郭が光に溶けて、透明になっていく。服の皺も、頬の削げた線も、疲弊した目の下の隈も、全部が白い光に還っていく。
最後に、声だけが残った。
「蓮。自分で選べ。いつも」
声が消えた後も、空気の振動が残っていた。白い空間が少しだけ温かくなった。三百年分の孤独が解けた温度。
白い光が強くなった。空間が閉じていく。壁が——白い壁が見えるようになった。それまで無限に広がっているように見えた空間が、実は小さな部屋だったと気づく。手を伸ばせば壁に届く。ヴォルフは三百年間、この狭い部屋にいた。
俺は封印の部屋を出た。扉が背後で閉まった。石と石が重なる鈍い音。今度は——二度と開かない気がした。
掌を見た。紋章が変化していた。線がくっきりと浮き上がり、模様が完成形に近づいている。ヴォルフの残留意思から受け取ったもの——制御の鍵。
掌を握り、開いた。紋章が光る。制御して光らせた。消す。また光らせる。消す。光らせる。呼吸のように自然に。スイッチのオンオフではない。もっと有機的な——心臓が鼓動するのと同じ感覚。意志で動かしているが、体の一部として動いている。
——できる。
地上に向かって走り始めた。足が軽い。残り時間は少ない。北の使節団。七十二時間の期限。軍が来る。だが——もう怖くない。
だが俺の掌には、もう制御された力がある。
自分の意志で——自分だけの意志で使える力が。