第27話
第27話
北の軍が見えたのは、使節団帰国から九日目の朝だった。
城壁の上に立った。冬の朝風が頬を叩く。鼻の奥が痛い。息が厚い白になる。手すりの石が凍りついていて、触れた指先が張りついた。
北東の丘陵の向こうに、砂煙が上がっていた。冬の乾いた大地を、数千の足が叩いている。旗が見える。青地に銀の鷲。エルドヴァイン帝国軍。砂煙の幅から推測する。行軍列の長さは——二キロ以上。壮観だが、壮観と言っている場合ではない。
予想より一日早い。急いだのだろう。俺の返答が「拒否」だったことで、行軍を繰り上げた。クライアントの怒りの速度を甘く見ていた。反省。
作戦本部はギルドの三階に設置した。テーブルの上に王都周辺の地図を広げ、城壁の防衛配置図、冒険者の配置表、補給ルートの図面を並べている。九日間で作り上げた防衛計画のすべてがここにある。
「レン、状況を」
ヴェルナーが入ってきた。
「北東から主力。推定三千。大型魔導兵器が三基確認されています。護衛付き。先行隊が城壁の射程外で展開中。本隊は半日後に到達見込み」
「冒険者の配置は」
「南門と西門の守備隊に、Dランク以上の冒険者を各二十名。東門にBランク十名。北門——最前線——にAランク全員とBランク上位を集中。合計約百五十名が防衛に参加。城壁の守備隊三百名と合わせて四百五十名」
「相手は三千。六対一以上の数的不利だな」
「数では勝てません。だが城壁がある。籠城戦なら守り側が有利。問題は——」
「魔導兵器だ」
「はい。あれが城壁を破ったら終わりです」
ヴェルナーが俺を見た。
「お前の出番だ」
「まだです。兵器が城壁に近づくまで温存します。俺が前線に出れば暗殺者に狙われる。城壁の中にいる限り、俺は安全で、作戦指揮を続けられる」
社畜は現場に出ない。現場はチームに任せる。俺の仕事は全体を回すことだ。ボトルネックを見つけ、リソースを再配分し、情報を集約して判断する。前線で暴れる駒ではなく、全体を見るマネージャー。
午後、帝国軍が城壁の射程に入った。矢が放たれる。魔法の光弾が飛ぶ。帝国軍が盾を構えて前進する。訓練された動き。一糸乱れぬ隊形。個々の兵士の質も高い。
冒険者たちが城壁の上から応戦した。矢とスキルの雨。帝国の先行隊が城壁に取りつこうとして、撃退される。だが主力はまだ動いていない。
「陽動です。先行隊で防衛の手を読んでいる」
ハインツが情報を整理する。
「魔導兵器はまだ動かない。本隊の到着を待っている」
夕方。本隊が到着した。丘陵の上に、軍旗が林立する。三千の兵が整列している光景は、城壁の上から見ても圧倒的だった。
ここで俺は——指揮に専念した。
「北門のBランク三名を東門に転換。東門の突破リスクが上がっています。補給の荷車を内門の裏手に移動。前線に近すぎる。通信要員を各門に一名追加。情報の遅延を減らします」
声を出し続けた。判断し続けた。社畜の六年間で培った、終わりのないタスク管理。次の一手。その次の一手。優先度の判断。リソースの再配分。喉が渇く。水を一口飲んで、すぐに声を出す。止まれない。止まった瞬間に、現場が混乱する。指揮官が黙れば、部下は動けなくなる。プロジェクトリーダーの沈黙は、チームの停止を意味する。
夜になった。帝国軍は攻撃を止めた。夜間は視界が悪い。城壁の守備側が有利になる。
だが——。
夜半。城壁が震えた。
轟音。北門の城壁に、光の球が激突した。石が砕け、破片が飛散する。城壁にひびが走った。
魔導兵器。夜間に稼働させてきた。
「被害状況!」
「北門の城壁、第三区画に亀裂。崩落はまだ。だが次の一撃で——」
もう一発来る。
二発目の光球が夜空を切り裂いた。今度は北門の中央を狙っている。この一撃が当たれば、城壁が崩壊する。崩壊すれば帝国軍がなだれ込む。
「——俺が出る」
椅子を蹴って立ち上がった。テーブルの上の地図が風で飛びそうになる。手で押さえた。この地図はまだ使う。まだ戦いは終わっていない。
ヴェルナーが俺を見た。青灰色の目に、問いかけがある。
「準備はいいか」
「社畜は常に準備ができている。それが唯一の取り柄です」
マルタの手袋をはめ直した。革の中で掌が温まる。紋章が反応して、微かに熱を持つ。
城壁に駆け上がった。石段を二段飛ばしで。息が上がる。北門の上。冬の夜風が体を叩く。頬が一瞬で冷えた。暗闇の中に、帝国軍の松明が無数に光っている。地上の星座。だが星は殺しには来ない。この光の一つ一つが、武器を持った人間だ。
魔導兵器が見えた。城壁から五百メートル。巨大な金属の塔のような構造物。先端に魔力を集中させる水晶が嵌め込まれている。三基のうち一基が既に発射体勢に入っている。
掌を開いた。紋章が光る。白い光が冬の闘を照らした。
深呼吸。冬の空気が肺の底まで入る。冷たい。だが頭が冴える。
感情と意志を分離する。ヴォルフが教えてくれた制御の鍵。怖い。三千の軍勢が目の前にいる。松明の光が地平線に並んでいる。暗殺者が潜んでいるかもしれない。心臓が速い。手が震えている。恐怖はある。だが意志は揺るがない。感情は感じていい。怖がっていい。だが意志は動かさない。
「今から、自分の意志で、このスキルを使う」
声に出して宣言した。誰に聞かせるためでもない。自分の意志を固定するためだ。
紋章の光が増した。だが暴走しない。制御されている。範囲を魔導兵器の外殻に限定。深度を表面一層に設定。
五百メートル。遠い。だが構造が見える。万象剥離の目で見れば、物質の構成が透けて見える。魔導兵器の外殻——魔力遮断金属の層構造。三重。
「剥離」
光が走った。掌から放たれた白い線が、五百メートルの闇を貫いて魔導兵器に到達した。
金属の外殻が剥がれた。三重の層が、一枚ずつ花弁のように開いていく。金属の薄片が夜空に舞い上がった。月明かりを受けてキラキラと光りながら、地面に落ちていく。鉄の花吹雪。中の動力核が露出する。水晶が裸になって、力を失った光が弱々しく瞬いた。裸になった兵器は——ただの鉄の塊だ。
掌の反動が来た。右手が痺れる。だが許容範囲内。鉱山の岩を剥がしたときと同じ消耗度。無機物の剥離は軽い。
帝国軍がざわめいた。兵器の外殻が五百メートル離れた城壁の上から自壊したように見えただろう。何が起きたかわからない混乱が広がっている。指揮官の怒声が響く。だが対処法がない。目に見えない攻撃。防ぎようがない。
残り二基。
息を整えた。集中。二基目に掌を向ける。構造を読む。同じ三重構造。同じ手順。外殻を剥がす。動力核を露出させる。花弁のように開いた金属が、また夜空に散った。
三基目。
疲労が来ている。連続使用の消耗。だがまだいける。範囲を絞る。深度を調整する。
三基目に手を伸ばした瞬間、横から衝撃が来た。
暗殺者だ。城壁の上に——いつの間にか潜んでいた。黒い装束。前回と同じ男か。短剣が肩を掠めた。布を裂く音。皮膚を切る感触。熱い。血が出た。
だが止まらない。三基目に集中。
「剥離!」
三基目の外殻が剥がれた。全ての魔導兵器が無力化された。
暗殺者に向き直る。だがそこにいたのは——ミラだった。
銀髪が夜風に舞っている。手に短剣を持っている。だが——刃が俺に向いていない。暗殺者の方に向いている。ミラが暗殺者を押さえつけていた。
「私は——自分で選びました」
ミラの目が光っていた。命令ではない意志が、淡い紫の虹彩に灯っていた。
肩が痛い。熱い。血が服を濡らしている。布に染み込む血の温かさが、冬の空気の中で鮮明だ。だが——立っている。膝が折れない。社畜の膝は、六年間の通勤ラッシュで鍛えられている。満員電車で立ち続けた膝だ。
ミラが暗殺者を取り押さえたまま、こちらを見ている。淡い紫の目に——涙はない。だが光がある。命令ではない光。自分で灯した光。
城壁の下で、帝国軍の混乱が広がっていく。三基の魔導兵器が全て無力化された。城壁に取りつく手段を失った軍は、梯子だけで攻城するしかない。だが城壁の上には冒険者が待ち構えている。
朝が近い。東の空が白み始めている。冬の夜明けの色。薄い橙色が灰色の雲を縁取っている。
戦いはまだ終わっていない。だが——潮目が変わった。社畜のプロジェクト管理で言えば、リスクの最大要因が除去された状態だ。あとは手順通りに、確実に処理するだけ。