第13話
第13話
Dランク昇格試験は、大迷宮の第五層到達だった。
EランクからDランクへの昇格条件は二つ。一つはEランク依頼の完了数が二十件以上。もう一つが大迷宮の浅層踏破。俺は登録から三週間でEランク依頼を二十二件こなしていた。報告書の精度はギルド内で評判になっていたらしく、受付嬢が「管理部門からお手本にしたいと言われています」と教えてくれた。
社畜スキルが評価される世界。悪くない。悪くないが、評価への中毒に気をつけろ。前の世界ではそれで壊れた。「佐伯は報告書が丁寧だ」と褒められるたびに、もう少しだけ残業しよう、もう一件だけこなそう、と自分を追い込んだ。褒められることは麻薬だ。適量なら薬になるが、依存すると壊れる。
大迷宮の入口は王都の中心部にあった。広場の地下へ続く巨大な石の階段。入口には常時ギルドの門番が立っていて、ランクに応じた入場制限がかかっている。Dランク試験の受験者は、一パーティ四人で挑むことになっていた。
パーティ編成を任された。ハインツの指示だ。
「試験官は俺だが、パーティを組むのはお前自身だ。四人集めて来い。お前の判断力を見たい」
判断力。つまり、誰を選ぶかで俺の能力を評価する。適材適所。プロジェクトのアサイン。社畜なら毎月やっていた作業だ。
ギルドの酒場で候補を探した。今回の試験に必要なロールは三つ。前衛の盾役。後方支援の回復役。そして索敵と罠解除ができる斥候。俺は指揮と戦略を担当する。
酒場のテーブルを回り、三人を選んだ。前衛はガルド。大柄な男で、鎧の手入れが行き届いている。装備を大事にする人間は仕事も丁寧だ。回復役はリーナ。薬草師の資格を持つ若い女性。マルタと同業だが、性格は正反対で饒舌だった。斥候はクルツ。痩せた中年男で、目立たない風貌だが、周囲への観察力が鋭い。
三人を集めて、迷宮に入る前に俺は三十分のブリーフィングを行った。全員の得意分野、装備の確認、体調の確認、緊急時の合図。ガルドが「ここまでやるのか」と呆れた顔をしたが、リーナは真剣にメモを取っていた。クルツは腕を組んで黙って聞いていた。彼の目だけが「わかっている奴だ」と言っていた。
迷宮に入った。
第一層は広い石造りの通路。天井が高く、壁にランタンの灯りが等間隔で設置されている。ギルドが管理している浅層だから、基本的な照明と安全確保はされている。空気が地上より冷たい。湿度が高い。石の匂いと、かすかに土の匂い。地下特有の閉塞感が肌にまとわりつく。
俺はパーティの行動基準を最初に共有した。
「進行速度は斥候のクルツに合わせる。前衛のガルドは常にクルツの三歩後ろ。リーナは最後尾。俺はガルドとリーナの間。交戦時はガルドが盾、俺が側面、リーナが後方。退却ルートは常に確保。迷ったら引き返す。無理はしない」
ガルドが目を丸くした。
「ここまで明確な指示を出すFランク上がりは初めてだ」
「EランクからDランク試験ですよ。Fランクはもう卒業しました」
「いや、Eでもこんなに段取りがいい奴は——まあいい。任せる」
第三層あたりから魔獣が出始めた。地下棲みの小型魔獣。蜥蜴に似た体に硬い鱗。群れで動く。ネズミ魔獣より格段に手強いが、パーティの連携で処理できるレベルだ。
俺はスキルを使わなかった。ハインツの忠告を守っている。掌が疼いた。使えば一瞬で終わる。鱗を剥がせば、素手で殴っても倒せるだろう。だが使わない。切り札は最後まで隠す。社畜は「できること」と「やること」を分ける。全力投球は評価されるが、全力しか出せない人間は使い潰される。代わりに、前衛と後衛の動きを見て、戦況を判断して指示を出した。
「ガルド、左に二匹回り込んでいる。クルツ、右の壁際に罠があった。リーナ、ガルドの背中が空いている」
声が通路に反響する。指示を出すたびに、パーティの動きが滑らかになっていく。個々の能力は高くない。だが連携が噛み合えば、個人の能力以上の成果が出る。チームマネジメントの基本だ。
第五層に到達した。所要時間は三時間十七分。俺は頭の中で記録した。フロアごとの所要時間、魔獣の出現数、消耗した物資。全部を数字で把握する。数字にしておけば、次回の判断材料になる。
試験はクリアだ。ガルドが「楽だった」と肩を回し、リーナが「こんなにスムーズな迷宮探索は初めてです」と笑った。クルツだけが無表情のまま「次も組むか」と短く言った。最高の褒め言葉だ。
だがそこで、俺は足を止めた。
第五層の奥の壁に、大きな壁画があった。
石壁に彫り込まれた図像。古い。表面が風化して細部は潰れているが、大まかな形はわかる。大陸の地図だ。だが俺が知っている地図——マルタからもらった地図——とは形が違う。
この壁画の大陸は、今の大陸より明らかに大きい。西側に、大きな陸地がもう一つ続いている。今は存在しない陸地。海になっている場所に、かつて大陸があった。
「これは——」
「古い壁画だな。迷宮の建設時期に作られたものだろう」
ガルドが興味なさそうに言った。だが俺の目は壁画から離せなかった。
大陸が、欠けている。
指先で壁画の表面に触れた。石が冷たい。指の腹に、彫り込まれた線の凹凸が伝わる。何百年もの時間が、この石に刻まれている。壁画を照らすランタンの炎が揺れて、影が壁の上を動いた。消えた大陸の輪郭が、影の中で揺らいでいる。
石の匂いが変わった気がした。それまでの地下特有の湿った岩の匂いに、微かに甘い——香のような匂いが混じっている。壁画の顔料か。三百年前に塗られた何かが、まだ匂いを残している。
今の世界地図と比べると、西方の陸地がまるごと存在しない。自然の地形変化にしては規模が大きすぎる。大陸が一つ、まるごと消えている。
掌の紋章が、微かに熱を持った。壁画に手を近づけると、熱が強くなる。壁画の一角——消えた大陸の位置に描かれた紋様に反応している。
紋様をよく見た。幾何学的な線。放射状のパターン。
俺の掌の紋章と、同じだ。
心臓が跳ねた。この壁画は——万象剥離に関係がある。この大陸は——万象剥離で消されたのか。
「レン、どうした。顔色が悪いぞ」
リーナが心配そうに覗き込んでくる。
「……何でもない。行こう」
声が震えていなかっただろうか。自分ではわからない。背中に冷たい汗が流れている。地下の冷気のせいだと思いたかったが、違う。恐怖だ。自分の掌にある力が、大陸を消し得るという可能性への、原初的な恐怖。
壁画の前を離れた。だが目に焼きついた図像は消えない。大陸がまるごと消えた地図。俺と同じ紋章。三百年前の歴史。ハインツが言った「今は話さない」という言葉。
全部が繋がりかけている。だがまだピースが足りない。
地上に出た。試験官のハインツが入口で待っていた。俺のパーティ編成と指揮を一部始終観察していたらしい。
「合格だ。Dランク昇格を承認する」
金属のプレートが新しくなった。Fの刻印がDに変わる。三週間でFからD。異例の速度だとハインツが言った。
「パーティ指揮が良かった。個人の戦闘力ではなく、全体の最適化で突破した。普通のDランク昇格試験は、大抵が力技で第五層に辿り着く。お前のは——違った」
「社畜の技です」
「シャチク?」
「なんでもありません」
Dランクのプレートを握った。冷たい金属が掌の紋章に触れる。
ギルドの廊下を歩いて帰る途中、奥の壁に貼られた古い告知がまた目に入った。「大迷宮第四十七層以深、一切の立入を禁ずる」。
第五層で見た壁画。消えた大陸。俺と同じ紋章。
答えは——もっと深い場所にある。
第四十七層の、その先に。
宿に戻った。Dランクのプレートをテーブルに置いた。金属の表面にランタンの光が反射する。指で「D」の刻印をなぞった。冷たい金属。三週間前はFだった。今はD。
入社一年目で、初めて自分の名刺を受け取った日を思い出した。社名と肩書きが印刷された紙。ただの紙なのに、存在を証明してもらった気がした。このプレートも同じだ。金属の板一枚が、俺の価値を定義する。数字は上がっている。成果は出ている。
だが壁画が頭から離れない。消えた大陸。俺と同じ紋章。
前の世界で、俺は何も壊さなかった。壊されるだけだった。自分の体を、自分の時間を、自分の意志を、少しずつ削り取られた。
この世界では——俺が壊す側になりうる。大陸を。世界を。
その重さが、ベッドに座った体をさらに沈み込ませた。
窓の外で、夜の街が動いている。酒場の歌声。馬車の車輪の音。犬の遠吠え。平和な夜だ。
窓の隙間から冷たい空気が入り込んで、裸足の足先が冷える。毛布を引き寄せた。粗い織りの布が肌にざらつく。だが温かい。マルタの家畜小屋にいた頃は毛布すらなかった。山羊の体温だけが暖房だった。
あの頃と今では、持っているものが違いすぎる。屋根のある個室。毛布。食事。報酬。プレート。——そして、大陸を消せる力。
この夜を壊す力が、俺の掌に眠っている。
握りしめた。爪が掌に食い込む。紋章の線をなぞるように。
壊すために使うのか。守るために使うのか。
まだ、わからない。