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その数字を操作していたのは、あなたでした

第2話 第2話

第2話

第2話

土曜日の昼過ぎ、私はリビングのテーブルにノートPCを広げたまま、三十分近くも画面を見つめていた。

 正確には、画面ではなくその手前——テーブルの上に置いた銀色のUSBメモリを見つめていた。

 金曜日の夜、帰宅してすぐにバッグの底から取り出した。それから二日間、このUSBは充電器やレシートに紛れてテーブルの隅に転がっていた。何度も手に取っては戻し、取っては戻しを繰り返している。指先に触れるたびに金属の冷たさが走って、そのたびに野村さんの声がよみがえった。野村さんへの返信も、まだ打てていない。

 窓の外では四月の柔らかい日差しが部屋を横切っている。引っ越したばかりのワンルームは段ボールが片付いて、ようやく人が住む場所らしくなってきた。冷蔵庫の低い唸りだけが部屋に響いていて、静かすぎるのが逆に落ち着かない。カーテンの隙間から射す光が、USBの表面に細い線を引いていた。

 黒田部長が、すごい勢いで探している。

 野村さんのメッセージが頭の中で何度も再生される。あのとき野村さんの声は低く、早口だった。周りに人がいるのを気にしているような、息を詰めた話し方。ただのバックアップなら、サーバーから復元すればいい。わざわざ退職した人間の私物を追うのは、サーバーに残せないデータが入っているからだ。あるいは、サーバーからはもう消してしまったデータが。

 深呼吸をひとつ。肺の底まで空気を入れて、ゆっくり吐いた。心臓がうるさいのは変わらなかった。USBメモリを手に取り、ノートPCのポートに差し込んだ。小さな接続音が鳴る。たったそれだけのことなのに、取り返しのつかない一歩を踏み出したような感覚があった。

 ファイルマネージャーが開く。フォルダがいくつか並んでいた。「月次報告」「仕訳データ」「決算準備」——見覚えのある名前ばかりだ。退職前の数ヶ月分、業務で使っていたファイルのバックアップ。ここまでは予想通りだった。

 ただ、一つだけ見慣れないフォルダがある。

 「K_personal」。

 私のフォルダではない。バックアップを取るとき、共有サーバーのフォルダを丸ごとコピーしたから、他の人のフォルダも一緒に入ってしまったのだろう。Kは——黒田のKだろうか。

 指先がトラックパッドの上で止まる。他人のフォルダを開くのは、気が引ける。でも。

 「すごい勢いで探してる」。

 ダブルクリックした。

 中には三つのサブフォルダがあった。「取引先管理」「経費精算_別」「memo」。取引先管理を開くと、エクセルファイルが十数個並んでいる。ファイル名は日付と取引先コードだけの素っ気ないもの。一番新しいファイルを開いた。

 スプレッドシートに数字が並ぶ。取引先名、品目、金額、日付。見慣れた経理書式だった。ただ、取引先名に覚えがなかった。「リバース・パートナーズ合同会社」。三年間経理部にいて、一度も請求書を処理した記憶がない。

 次のファイル、その次。開くたびに、知らない取引先の名前が出てくる。サンライト・エージェンシー。TKコンサルティング。ミナト商事。どれも経理システムの取引先マスタに登録されていた記憶がなかった。少なくとも、私が処理を担当したことはない。

 けれど金額は大きかった。一件あたり百二十万、二百五十万、三百八十万——。

 「経費精算_別」フォルダに切り替える。こちらにはPDFが入っていた。請求書のスキャンデータだ。開いてみると、先ほどの取引先名と同じ名前が並んでいる。品目は「コンサルティング業務委託」「市場調査レポート作成」。請求書のフォーマットはどれもよく似ていて、印影の位置まで揃っている。

 同じ人間が作ったテンプレートだ。

 経理を三年やっていれば分かる。取引先が違うのに請求書のレイアウトが同じなんてことは、普通ありえない。会社ごとにロゴも書式も違うし、印影の角度や滲み方だって一つとして同じにはならない。それなのに、画面に並ぶPDFはまるでコピー機から出てきたように均一だった。

 手が震え始めていることに気づいた。エクセルファイルに戻り、金額をざっと拾い始める。ノートPCの横にメモ帳を引き寄せて、電卓アプリを起動した。月ごとに三百万から五百万。それが一年以上、定期的に計上されている。

 合計は——四千二百万円。

 数字を書き終えた瞬間、ペンを持つ手が止まった。メモ帳の上で、自分の字がかすかに歪んでいるのが見えた。

 架空取引だ。

 存在しない取引先に、存在しない業務を発注し、実体のない請求書で経費を計上する。経理部長の権限があれば、承認も支払いも自分で回せる。部下が疑問を持っても、「お前の能力不足だ」と言えば黙る。実際に黙った。私が、三年間。

 ノートPCを閉じて、椅子の背もたれに深く沈み込んだ。

 天井を見上げる。なにも考えたくなかった。でも数字は、一度見てしまったら消えない。四千二百万という数字が、視界の裏側に焼き付いて離れなかった。

 あの人は、最初から分かっていたのだ。

 数字が合わないのは当然だった。帳簿の数字は最初から嘘だったのだから。合うはずがない。合わないことを指摘されるたびに、黒田部長は私を怒鳴った。会議室で、フロアの真ん中で、電話越しに。声を荒らげるときの癖も思い出す。机を手のひらで叩く、鈍い音。周囲が一斉に目をそらす空気。あの瞬間、私は自分が部署の中で一番できない人間なのだと、本気で信じていた。

 「数字が合わないのはお前の能力不足だ」。

 あの言葉の本当の意味が、今になって分かった。合わない数字の原因を私が探り当てないよう、怒鳴って萎縮させていた。能力不足だと繰り返し刷り込むことで、自分の頭で考えることをやめさせていた。

 涙が出ると思った。でも出なかった。代わりに、腹の底から熱い塊がこみ上げてきた。怒りだった。三年間ずっと抱えていた、形を持たなかった重さに、ようやく名前がついた。喉の奥が焼けるように熱い。こめかみの血管が脈打つのが、自分でも分かった。

 あの人は、私を利用していた。

 能力不足だと思い込まされた三年間は、黒田部長が四千二百万円を着服するための、煙幕だった。

 時計を見ると夜の八時を回っていた。いつの間にか部屋は暗くなっていて、ノートPCの画面だけが白く光っている。食事もしていない。空腹は感じなかった。キッチンのシンクには朝洗ったコップがひとつ、伏せたまま乾いている。冷蔵庫には昨日買ったコンビニ弁当が手つかずで残っているはずだったが、立ち上がる気力がなかった。

 ベッドに入ったのは十一時過ぎだった。目を閉じても、スプレッドシートの数字が瞼の裏に浮かぶ。四千二百万。百二十万。二百五十万。三百八十万。数字は嘘をつかない。帳簿は嘘をつくけれど、正しく読めば数字そのものは真実を示す。

 寝返りを打つ。枕が温まって気持ち悪い。裏返しても同じだった。シーツの皺が肌に食い込んで、どの姿勢でも身体が収まらない。

 怒りの隣に、怖さがあった。このデータを私が持っていることを、黒田部長は知っている。だから「すごい勢いで探してる」。見られたら困るものが入っていることを、あの人自身が一番よく分かっているから。

 もし開いたことがバレたら。

 もし、黒田部長が直接連絡してきたら。

 布団を顔まで引き上げた。四月の夜はまだ冷える。でも寒いのは気温のせいだけではなかった。背中の真ん中あたりに、じっとりとした冷たさが張り付いている。知ってしまった。知ってしまった、ということを、なかったことにはできない。

 スマホの画面が暗いまま、枕元に伏せてある。野村さんへの返信は、まだ打てていなかった。「USBは見つからなかった」と嘘をつくべきか。「あった」と正直に答えるべきか。どちらを選んでも、もう金曜日の朝には戻れない。

 結局、眠れたのは明け方の四時過ぎだった。薄明の中でようやく意識が途切れる直前、最後に頭をよぎったのは数字ではなく、声だった。

 ——数字が合わないのはお前の能力不足だ。

 違う、と思った。合わなかったのは、あなたが嘘をついていたからだ。

 目が覚めたら、野村さんに返信しよう。なんと書くかはまだ決まっていない。けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。このUSBを、黒田部長に返すつもりはない。

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