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その数字を操作していたのは、あなたでした

第1話 第1話

第1話

第1話

朝六時半の中央線は、思っていたより空いていた。

 つり革に右手をかけて、左手でスマホの画面を確認する。乗り換え案内アプリが示す到着時刻は八時十二分。前の会社なら、この時間はもう一時間も電車に揺られている頃だった。片道九十分の通勤を三年間、よく続けたと思う。よく続けられたと思うべきなのか、よく続けてしまったと悔やむべきなのか、まだ自分でもわからない。

 窓の外で桜が咲いていた。四月の東京は何食わぬ顔で美しい。去年の今頃は、花を見上げる余裕すらなかった。残業月八十時間、有給消化率ゼロ。経理部のデスクで数字の海に溺れながら、窓の外がどんな季節なのか忘れていた。

 新宿で乗り換えると、スーツ姿の人たちが一斉にホームへ流れ出す。その波に乗って歩きながら、私は何度目かの深呼吸をした。

 今日から新しい会社だ。

 都内のIT企業、ネクストブリッジ株式会社。経理部門のスタッフとして採用された。面接は二回、どちらも穏やかな雰囲気で、最後に人事の女性が「うちは残業少ないですよ」と笑った。その一言で涙が出そうになったことは、たぶん一生誰にも言わない。

 目的のビルに着いたのは八時五分。受付のある十二階まではエレベーターで上がる。自動ドアの前に立つと、センサーが反応してガラスの扉が左右に開いた。冷房の効いた空気がふわりと頬に触れる。前の会社の、夏でも節電で蒸し暑かったオフィスとは違う。ただそれだけのことが、なんだか泣きたいくらいありがたかった。

 エレベーターホールに向かって歩き出したところで、首からかけていたストラップが揺れた。受付で渡されたばかりの入館用ICカード。新品の青いカードケースが、まだ手に馴染まない。

 そのICカードが、するりと首から滑り落ちた。

 ストラップの金具が甘かったのだと思う。カシャン、と軽い音を立てて、カードケースが床のタイルの上に落ちる。しゃがんで拾おうとした瞬間、先に別の手が伸びた。

 長い指だった。

 男の人の手が、青いカードケースを拾い上げる。私が顔を上げると、グレーのスーツを着た男性が立っていた。背が高い。百八十はあるだろう。切れ長の目がこちらを見て、視線だけで「どうぞ」と示すように、カードケースを差し出した。

「あ……ありがとうございます」

 男性は小さく頷いただけで、何も言わなかった。表情も変わらない。エレベーターの上ボタンはすでに点灯していて、彼が押して待っていたのだと気づく。

 沈黙が降りる。私は受け取ったカードケースを胸の前で握りしめたまま、エレベーターの階数表示を見上げた。B1、1、2——数字がゆっくり降りてくる。

 気まずい。何か話した方がいいのだろうか。でも何を話せばいいのか分からない。前の会社では、こういう些細な親切自体がなかった。カードを落としても、誰も拾ってはくれなかった。拾ってくれたとしても、「しっかりしろ」と嫌味が飛んできた。

 チン、とエレベーターが到着する。扉が開くと、男性が片手でドアを押さえて、私を先に促した。また、視線だけで。

「……すみません」

 乗り込んで、階数ボタンに手を伸ばす。十四階。押そうとした指が止まった。すでに十四階のボタンが光っていた。

「同じ階ですか?」

 思わず聞いてしまった。男性はこちらを一瞥して、「経営企画です」とだけ答えた。

 声は低く、端的だった。それ以上の会話はなく、エレベーターは静かに上昇する。十四階に着いて扉が開くと、男性は迷いのない足取りで左の廊下へ消えていった。私は右。経理部は右側のフロアだと、案内メールに書いてあった。

 あの人、名前なんて言うんだろう。

 そんなことを考えている自分に少し驚きながら、私は新しい自分のデスクを探した。

 窓際から三番目の席。モニターは二台、引き出しは三段。デスクの上にはウェルカムカードが置いてあった。「佐倉さん、ようこそネクストブリッジへ!」と丸い字で書かれている。前の会社では、入社初日に渡されたのは三センチの厚さがあるマニュアルバインダーだけだった。

 PCの電源を入れ、セットアップの指示書に従ってログインを済ませる。隣の席の女性が「おはようございます、橋本です」と名乗ってくれた。ショートカットで、笑うと八重歯が見える。

「同じ経理の橋本加奈です。なんでも聞いてくださいね」

「佐倉美咲です。よろしくお願いします」

 橋本さんはにこにこしながら、ゴミ箱の場所、給湯室の使い方、お昼のおすすめの店を矢継ぎ早に教えてくれた。この人は話しやすい、と直感的に思った。前の職場では、同僚と昼食をとる余裕すらなかった。

「あ、さっきエレベーターのところにいた人、見ました?」

 橋本さんが声をひそめた。

「グレーのスーツの、背の高い人ですか」

「藤堂蓮さん。経営企画部。今日から同期入社なんですよ、佐倉さんと同じ」

 同期。あの無表情で無言でカードを拾ってくれた人が、同期入社。

「社内では『冷たいエリート』って呼ばれてます。前職は外資のコンサルで、うちに来たのは自分でプロジェクト動かしたいからだって噂」

「冷たい、ですか」

「愛想はないけど仕事はめちゃくちゃできるらしいです。ま、あんまり関わることもないかもしれないけど」

 橋本さんはそう言って笑ったが、私はさっきの長い指と、何も言わずにカードを差し出した視線を思い出していた。冷たいとは少し違う気がした。ただ、言葉を省いているだけのような。

 午前中はオリエンテーションと書類記入で終わった。昼食は橋本さんに連れられて、ビルの地下にあるカフェに行った。サンドイッチを頬張りながら、「前のところはどんな会社だったんですか?」と聞かれたとき、口の中のパンが急に味を失った。

「……普通の、中小企業です」

 そう答えるのが精一杯だった。三年間の残業と、詰められ続けた日々と、数字が合わないと怒鳴られた朝のことは、まだ言葉にできない。言葉にしたら、壊れてしまいそうだから。

「そっか。まあ、うちはゆるいんで、ゆっくり慣れてくださいね」

 橋本さんはそれ以上聞かなかった。こういう距離感が、前の会社にはなかった。詰問か無関心か、そのどちらかしかなかった場所で、私はずっと息を止めていた。

 午後のシステム研修を終え、自分のデスクに戻ったのは十六時過ぎだった。今日はここまでで上がっていいと言われている。定時は十七時半。前の会社なら、ここから四時間が本番だった。

 帰り支度を始めようとバッグに手を伸ばしたとき、スマホが震えた。

 LINEの通知。表示された名前を見て、指が止まった。

 野村由香里——前の会社の経理部で、唯一まともに話せた同僚だった。私が辞めたあとも時々連絡をくれる。

 メッセージを開く。

『美咲ちゃん、ごめんね突然。ちょっと聞きたいことがあって。退職のとき、経理サーバーのバックアップデータ、美咲ちゃんの私物USBに残ってたりしない? 黒田部長がすごい勢いで探してるんだけど……』

 心臓が、一拍だけ止まった気がした。

 黒田部長。その名前を目にしただけで、胃の奥がきゅっと縮む。三年間、数字が合わないたびに私を詰め続けた人。「お前の能力不足だ」と、会議室で、フロアの真ん中で、時には電話越しに、何度も何度も言った人。

 USBメモリ。たしか、ある。

 退職日のバタバタの中で、自分の私物と一緒に持ち帰ってしまったUSBが一本。データの整理もしないまま、引き出しの奥に放り込んだはずだった。

 私はゆっくりとデスクの引き出しを開けた。通勤用のバッグの底、ポーチの中に、銀色のUSBメモリが入っている。先月の引っ越しのとき、とりあえずバッグに入れたまま忘れていた。

 指先でそれに触れる。ひんやりと冷たい金属の感触。

 黒田部長が「すごい勢いで探してる」。

 経理サーバーのバックアップ。

 なぜ、そんなに必死に探すのだろう。ただのバックアップデータなら、サーバーから取り直せばいい。IT部門に頼めば済む話だ。なのに、退職した社員の私物USBをわざわざ追うのは——。

 嫌な予感が、背筋をすうっと這い上がった。

 私はUSBメモリをポーチの中に戻し、引き出しをそっと閉じた。野村さんへの返信は、まだ打てなかった。

 窓の外では、四月の夕日がビルの谷間に沈もうとしていた。新しい職場の初日は、思っていたよりずっと穏やかだった。なのに、指先だけがまだ冷たい。あの銀色の小さな塊が、引き出しの中で静かに何かを主張しているような気がして、私はもう一度だけ、閉じた引き出しに目を落とした。

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