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その数字を操作していたのは、あなたでした

第3話 第3話

第3話

第3話

月曜日の朝は、思いのほか普通にやってきた。

 目覚ましが六時に鳴って、顔を洗って、トーストを焼いて、コーヒーを淹れた。土曜の夜から日曜にかけてほとんど眠れなかったのに、日曜の夜は不思議と眠れた。身体が限界だったのだと思う。頭の中にはまだ四千二百万という数字がこびりついていたけれど、月曜の朝日はそういうものを一時的に遠ざけてくれる力がある。少なくとも、中央線のつり革につかまっている間は。車窓の向こうを流れるビル群がオレンジ色の朝日を反射していて、その光の中にいる限り、自分もまだ普通の通勤者でいられるような気がした。

 オフィスに着くと、橋本さんがすでに席にいて「おはようございまーす」と手を振ってくれた。先週の金曜日とまったく同じ笑顔。なのに、こちら側だけが別の世界にいるような違和感がある。

 PCを立ち上げ、メールを確認する。新入社員向けの研修スケジュール、総務からの保険手続きの案内、部長からの週次ミーティングの招待。どれも穏やかで、普通で、健全だった。前の会社では、月曜の朝のメールボックスを開くたびに胃が痛くなったことを思い出す。ここにはあの空気がない。それが余計に、自分の中に持ち込んでしまったものの重さを際立たせた。

 午前中の仕訳作業を進めていると、不意に背後から声がかかった。

「佐倉さん」

 振り返ると、藤堂さんが立っていた。グレーのスーツに、先週と同じ端的な表情。経営企画部のフロアからわざわざこちらに来たらしい。手にはA4のクリアファイルを持っている。

「少しいいですか」

 橋本さんがちらりとこちらを見たのが視界の端で分かった。

「はい、なんでしょう」

 藤堂さんは隣の空席の椅子を引いて腰を下ろした。距離は近すぎず遠すぎず、ちょうど書類を見せるのに適切な間合いだった。この人はこういう距離の取り方が自然にできるタイプなのだろう。

「コンプライアンス推進室から、経理経験のある社員をプロジェクトメンバーに加えたいという話が来ています。社内の内部統制強化の一環で、経理実務に詳しい人が必要だと」

 コンプライアンス。内部統制。

 その言葉が鼓膜に触れた瞬間、指先が冷たくなった。USBの中の数字が、頭の奥でぱちぱちと明滅する。キーボードに乗せたままの右手を、気づかれないように膝の上に下ろした。冷えた指先を太ももに押し当てると、自分の体温がやけに頼りなく感じられた。

「佐倉さんは前職で三年間経理をされていたと聞いたので、声をかけました。もちろん強制ではないですし、興味がなければ断っていただいて構いません」

 藤堂さんの声は平坦で、事務的だった。特別な意味を込めているようには見えない。ただの業務連絡。そのはずなのに、こちらの心臓は理不尽なほど速く打っている。

「……ありがとうございます。少し考えさせてください」

「もちろん。来週までに返事をいただければ」

 藤堂さんはクリアファイルから一枚の資料を抜いてデスクに置き、そのまま立ち上がった。去り際に一度だけ振り返り、「無理のない範囲で」と言い添えた。先週、エレベーターでカードを拾ってくれたときと同じ——最小限の言葉で、最大限の配慮を滑り込ませるやり方。

 資料に目を落とす。「コンプライアンス推進室 プロジェクト概要」と印刷されたタイトルの下に、内部統制の見直し項目が箇条書きで並んでいた。経費承認フロー、取引先管理、監査証跡の整備。どれも、黒田部長がやっていたことの裏返しだった。不正を防ぐ仕組みの構築。それに自分が関わるということの意味が、重すぎて飲み込めない。

「藤堂さんと何の話?」

 橋本さんが身を乗り出してきた。興味津々という顔。

「コンプライアンスのプロジェクトで、経理の人を探してるみたいで」

「へえ、佐倉さん抜擢じゃん。入社一週間で。すごい」

 すごくない。ただのタイミングの一致だ。そう思いたかった。思いたかったけれど、USBの中身を知っている今の自分には、偶然という言葉がひどく嘘くさく聞こえた。

 その日の退勤後、コンビニで買った弁当を温めながら、資料をもう一度読んだ。内部統制。取引先の実在確認。経費の二重チェック体制。全部、前の会社にあるべきだったものだ。全部、なかったから黒田部長は四千二百万を抜けた。

 弁当を半分食べたところで、スマホが鳴った。

 着信。番号は登録されていない。〇三から始まる市外局番。都内の固定電話。

 一瞬、野村さんかと思った。でも野村さんの番号は登録してある。知らない番号からの着信を取るのは抵抗がある。ましてこのタイミングで。

 四コール目で通話ボタンを押した。

「——佐倉か」

 声を聞いた瞬間、背筋の温度が二度は下がった。低く、短く、語尾を切り詰める話し方。三年間、何百回と聞いた声だった。忘れられるはずがなかった。

「黒田、です、か」

「単刀直入に言う。USBを返せ」

 弁当の容器を持つ左手が震えた。テーブルに置く。箸が容器の縁に当たって、かちゃりと鳴った。

「退職時に持ち出したバックアップだ。会社の資産だから返してもらう。中身は見るな」

 見るな。その一言が、すべてを裏付けていた。見られたら困るものが入っている。本人がそう言っている。

「……なんのことか、分かりません」

「とぼけるな。野村に聞いた。お前のUSBに経理フォルダのコピーが残ってるだろう」

 野村さん。あの人は悪気なく答えてしまったのだろう。「美咲ちゃんに聞いてみます」と。そこから黒田部長が私の連絡先を——いや、辞めた社員の連絡先なんて、元上司なら人事ファイルからいくらでも引ける。

「中身に個人のデータが入っていてな。プライバシーの問題がある。見ないまま返してくれれば、それで済む話だ」

 プライバシー。架空取引と改竄帳簿を「プライバシー」と呼ぶこの人の厚顔さに、かえって頭が冷えた。恐怖の上に怒りが薄く被さって、声が震えるのを抑えてくれた。

「申し訳ありません。確認して折り返します」

 それだけ言って、通話を切った。

 スマホを持つ手がまだ震えていた。画面に映る通話時間は一分十八秒。たったそれだけの時間で、部屋の空気がまるごと入れ替わったような気がした。弁当はもう食べる気になれなかった。蓋を閉じて冷蔵庫に戻す。冷蔵庫のドアを閉める音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。

 黒田部長は、知っている。USBが私の手にあることを。中身を見られることを恐れている。そして、見る前に返させようとしている。

 リビングの椅子に座り直し、ノートPCを開いた。USBメモリはバッグの底のポーチに入ったまま。それを取り出して、ポートに差し込む。土曜日と同じ接続音が鳴った。

 Googleドライブを開く。新しいフォルダを作成し、「K_personal」の中身をすべてアップロードした。エクセルファイル、PDFの請求書スキャン、memoフォルダの中の走り書き。進捗バーがゆっくり伸びていく間、私は画面から目を離さなかった。八十三個のファイル。一つ一つが、黒田部長の三年間の嘘の断面だった。

 アップロード完了。私のGoogleアカウントのクラウドに、四千二百万円の証拠がコピーされた。USBを物理的に奪われても、もうデータは消えない。

 USBを抜き、ポーチに戻す。それからスマホを手に取り、さっきの着信番号を長押しした。ブロックするか、一瞬だけ迷った。でもブロックすれば、向こうの動きが見えなくなる。着信履歴のスクリーンショットだけ撮って、そのまま残した。

 窓の外は真っ暗だった。月曜の夜の住宅街は静かで、遠くで電車の走る音だけが微かに聞こえる。

 テーブルの上に、藤堂さんが置いていったコンプライアンスの資料がある。その隣に、銀色のUSBメモリ。どちらも薄い紙一枚と小さな金属の塊にすぎないのに、私の日常をまったく別の方向へ引っ張ろうとしている。

 野村さんへの返信を、ようやく打った。

 『ごめんね、USBは見つからなかった。引っ越しのときに捨てちゃったかも』

 送信ボタンを押す指は、もう震えていなかった。

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