Novelis
← 目次

封印令嬢、辺境で最強の楽園を創る

第2話 第2話

第2話

第2話

深夜の回廊は、昼間とはまるで別の顔をしている。

魔灯が最低限の輝度に落とされた廊下を、私は足音を殺して進んでいた。絹の室内履きが大理石の上を滑る。呼吸を整え、柱の影に身を潜めるたびに、自分の心臓の音が耳障りなほど大きく聞こえた。

三年前、初めてこの道を歩いた夜は膝が震えていた。今では体が順路を覚えている。巡回の衛兵が東棟を離れる刻限、魔力感知の結界が薄くなる区画の継ぎ目、そして禁書庫の錠前に残された古い欠陥——すべて、三年かけて割り出した。

角を曲がると、薄闇の奥に見慣れた人影があった。

「ルシエラ様、こちらです」

侍女のマリーが、壁龕の陰から小さく手を振っている。栗色の髪を夜勤用の頭巾で覆い、手には遮光布を巻いた小型の魔灯を持っていた。彼女だけが、この深夜の密行に付き合ってくれる。忠誠心というよりも——おそらくは、幼い頃から私の蒼い指先を見てきた彼女だけが、「魔力ゼロ」という診断を信じていないのだと思う。

「今夜の巡回は?」

「予定通り、あと四半刻は東棟に戻りません。ただ、昨夜の夜会で殿下が遅くまでお残りでしたので、近衛の配置が少し乱れています。お早めに」

マリーが錠前に細い金具を差し込む。かちり、と小さな音。重い樫の扉が内側に開き、古い紙と革と、微かな防虫香の匂いが溢れ出した。

禁書庫。宮廷の学者たちですら王家の許可なく立ち入れない、知識の墓場。

私にとっては、唯一の教室だった。

---

遮光布越しの魔灯が、書架の背表紙を淡く照らす。天井まで届く棚が幾列も並び、その隙間に積み上げられた巻物や綴じ本が、埃をかぶって眠っている。ここにあるのは、現在の魔法体系が確立される以前——古代魔法学の時代に書かれた文献だ。五大属性を絶対の前提とする現行理論にとって、それ以前の記述は「不正確な過去の遺物」にすぎない。だからこそ禁書庫に閉じ込められ、だからこそ私にとっては何よりも貴重だった。

書架の奥から一冊を抜き取る。革表紙は乾燥してひび割れ、背の金箔はほとんど剥落している。『属性論以前の魔力構造に関する覚書』——著者名は擦れて読めない。前回の訪問で途中まで書き写した続きだ。

膝の上にノートを広げ、筆写を始める。一字一字、正確に。古代語の語彙は現代と微妙に異なり、文脈を取り違えれば理論の骨格が歪む。だから急がない。深夜に盗み読むという状況にそぐわないほどの丁寧さで、私は頁をめくっていった。

『——魔力とは属性に先立つものであり、属性とは魔力が物質界に干渉する際に生じる表層的な分類にすぎない。根源たる魔力そのものは無色であり、いかなる測定も、器に注がれた後の色を見ているにすぎない』

「無色の魔力」。この概念が、現行の学問からは完全に抹消されている。

五大属性は火・水・風・土・光。すべての魔法使いはこのいずれか、あるいは複数に適性を持ち、魔力量はその属性ごとに数値化される。体系は美しく整然としている。だが「整然としすぎている」と私は感じていた。自然現象をたった五つの箱に収めて、箱に入らないものは存在しないと断じる——それは科学ではなく信仰ではないのか。

ノートの余白に、自分の思考を走り書きする。

『仮説:五属性とは魔力の全体ではなく、既存の測定器が検知可能な帯域にすぎない。帯域外の魔力が存在する場合、それは「ゼロ」と測定される。ちょうど、可聴域の外にある音が「無音」と聞こえるように』

書き終えて、ふと手を止めた。この仮説を誰かに見せたことはない。見せるつもりもない。学術的な裏付けがなければ異端の妄想だと一笑に付されるだけだ。まして、言い出したのが「魔力ゼロの出来損ない」であれば。

それでも、書き続ける意味はある。

化粧台の二重底に隠されたノートは、すでに七冊目に入っていた。禁書庫の古代文献から抽出した記述、それに対する私の注釈、そして独自に組み上げた理論体系の断片。三年分の知識の地層が、あの薄い紙の束の中に圧縮されている。

マリーが書架の端から小声で告げた。

「ルシエラ様、あと半刻です」

頷いて、筆写の速度を上げる。今夜のうちに、この章だけは書き写しておきたかった。著者不明の覚書は、ここから先で「封印」という語を用いている。古代において、帯域外の魔力を持つ者に対して何らかの処置が施されていたことを示唆する記述。母の日記に繰り返し現れた、あの言葉と同じ——。

指先が、微かに熱を帯びた。

蒼い光ではない。けれど皮膚の下で何かが脈打っている感覚がある。昨夜、瞳に光が及んだあの瞬間から、体の内側の気配が一段階近くなった。以前は指先だけだった兆候が、今は手のひら全体に広がっている。

——封印が、薄くなっている。

母の日記の最後の警告が脳裏をよぎったが、振り払った。恐れている暇はない。封印の正体を突き止めることが先だ。恐怖からではなく理解から行動したい。それが、三年間この暗い書庫に通い続けて培った、私の唯一の矜持だった。

最後の一文を書き写し、ノートを閉じる。古代の覚書を元の位置に戻し、書架に指の跡が残っていないか確認する。マリーが遮光布の隙間から廊下を窺い、安全を確認して頷いた。

禁書庫を出る。錠前が音もなく元に戻る。

帰路の回廊で、マリーが隣を歩きながら呟いた。

「七冊目ですね」

「ええ。でもまだ足りない。この国の文献だけでは、どうしても理論の欠片しか手に入らないの」

「……他に、手がかりがある場所を?」

答えなかった。禁書庫の文献が示唆する「帯域外の魔力」——それを体系的に研究しているかもしれない場所を、私は一つだけ知っている。この国ではなく、国境の向こう。だがそれは今、口にすべきことではなかった。

---

私室に戻り、ノートを二重底に仕舞い終えた頃には、東の空が白み始めていた。窓辺の白百合は昨夜蘇らせたまま凛と咲いている。その花弁に朝露が光るのを眺めていると、扉が控えめに叩かれた。

マリーだった。しかし先ほど別れた時とは表情が違う。唇が薄く引き結ばれ、頬から血の気が引いていた。

「どうしたの」

「宮廷に急報が入りました。——ラーヴェン帝国との国境で、武力衝突が発生したと」

空気が変わった。

ラーヴェン帝国。東の大国。十年前の休戦協定以来、表面上は静穏を保っていたはずの隣国。国境の小競り合いは散発的にあったと聞くが、「武力衝突」という言葉の重さは、それとは次元が異なる。

「規模は」

「まだ詳細は不明ですが、帝国側から正規軍が越境したとの報告です。国境砦が二つ陥落したと。陛下が緊急の御前会議を召集されました。公爵様もすでにお発ちです」

父が動いた。つまり事態は深刻だ。公爵家は王国の北方守護を担う筆頭貴族であり、軍事に関わる御前会議で父が席を外すことはありえない。

「宮廷中が騒然としています。文官たちが書類の束を抱えて走り回っていて——」

マリーの声を聞きながら、私の頭は別のことを考えていた。

戦が起これば、宮廷の空気が変わる。社交の季節は終わり、軍事と外交が前面に出る。そしてその渦中では、平時なら見えない力学が露わになる。誰が実権を握り、誰が切り捨てられるか。

——「魔力ゼロの令嬢」は、その力学の中でどこに置かれるのだろう。

窓の外で、伝令騎士の馬蹄が石畳を叩く音が響いた。一頭ではない。次々と、途切れなく。宮廷全体が目覚め、戦時の鼓動を刻み始めている。

ノートの中に閉じ込めた三年分の知識が、脳裏で静かに組み替わるのを感じた。帯域外の魔力。古代の封印技術。そして——ラーヴェン帝国の魔法体系は、この国とは根本的に異なると、禁書庫の文献は記していた。

もし、あの国の理論が、私の仮説を補完するものだとしたら。

手のひらを握り、開く。蒼い光はまだ現れない。けれど皮膚の下で脈打つ何かが、確かにそこにある。

戦の足音が近づいている。それは恐怖であると同時に、三年間壁に阻まれてきた私の研究に、思いもよらない道が開かれる予感でもあった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 封印令嬢、辺境で最強の楽園を創る | Novelis