第1話
第1話
夜会の大広間に、私の居場所はない。
百を超える魔灯が天井から吊り下がり、貴族たちの礼装を黄金色に照らしている。楽団の旋律が柔らかく広間を満たし、シャンパングラスの触れ合う音が笑い声に混じる。磨き上げられた大理石の床が光を跳ね返し、絹のドレスの裾が滑るたびに微かな衣擦れが波紋のように広がっていく。華やかさの中に身を置きながら、私——ルシエラ・フォン・アルヴェシュタインは、壁際の柱に背を預けていた。
視線の先に、婚約者がいる。
第二王子エドヴァルト殿下。金糸の刺繍が施された紺の礼服に身を包み、取り巻きの令嬢たちと談笑している。その輪の中心で彼が笑うたび、周囲が花が開くように華やぐ。私がそこに近づく権利は、形式上はある。婚約者なのだから。けれど殿下は今夜も一度たりとも、私の方を見なかった。
「——あら、ルシエラ様。お一人でいらっしゃるの?」
声をかけてきたのは、ベルシュタイン伯爵家の令嬢だった。扇の陰から覗く瞳に、同情めいた光と、それを上回る愉悦が滲んでいる。彼女の纏う薔薇の香水が、甘ったるく鼻先を刺した。
「殿下がお忙しそうですもの、仕方ありませんわ。なにしろ……魔力のない方とでは、話題にも困りますものね」
扇が口元を隠す。その奥で唇が歪んでいるのが見えた。
「ご心配なく。私は一人の時間も嫌いではありませんの」
微笑みを返す。完璧な角度で、完璧な温度で。公爵家の嫡女として叩き込まれた所作だけは、誰にも劣らない。けれどそれすらも、この宮廷では嘲りの種だった。魔力のない令嬢が礼儀作法だけ一人前でも、張りぼての人形と変わらないのだと。
伯爵令嬢が去った後、私はグラスの中身を一口だけ含んだ。果実水の甘さが、喉の奥で苦く変わる。
広間の向こうで、殿下が誰かの手を取って舞踏の輪に加わるのが見えた。その相手が誰であるかは、もう確認する必要もなかった。二人の姿がワルツの旋律に溶けていく。殿下の横顔には、私に向けられたことのない柔らかな笑みが浮かんでいた。胸の内側で、何かが小さく軋んだ。
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控えの間を経て、私室の扉を閉めた瞬間、仮面が剥がれた。
背を扉に預け、深く息を吐く。鎖骨の下あたりが、ぎゅうと締めつけられるように痛んだ。悔しいのだ。蔑まれることに慣れたつもりでいても、公衆の前で存在を無視される屈辱には、まだ慣れきれない。
手袋を外す。ドレスの留め金を一つずつ外していく。絹の裏地が肌を離れるたびに、こもった熱が冬の空気に触れて急速に冷えていく。窮屈な衣装が緩むにつれて、別の感覚が指先に兆した。
——来る。
右手の人差し指の先端が、淡い蒼色に灯った。
蝋燭の明かりとは異なる、冷たく澄んだ光。脈動するように明滅し、薄暗い私室を海の底のように染める。幼い頃から幾度となく経験してきた現象だった。魔力がゼロと診断された私の指先が、夜ごと蒼く光る。誰にも説明できない矛盾。
窓辺に置かれた小さな鉢植えに目が留まった。侍女のマリーが世話をしていた白百合だが、ここ数日の冷え込みで花弁が萎れ、茶色く縮んでいる。
指先を近づけた。触れてはいない。ただ、蒼い光を帯びた手を、枯れかけた花の上にかざしただけ。
変化は数秒で起きた。
茶色い花弁が内側から白さを取り戻し、開き始める。茎が背筋を伸ばすようにまっすぐになり、葉の緑が鮮やかさを増していく。やがて、最盛期すら超えたかのような白百合が、月明かりの中で静かに咲き誇った。甘く重い香りが鼻腔を満たし、冬の夜気を押しのける。
「……今日は、早いのね」
呟いて、私は光る指先を見つめた。蒼い燐光がゆっくりと消えていく。
この力が何なのか、宮廷魔法医官には分からなかった。公爵家が雇った高名な魔法学者にも。彼らは口を揃えて「魔力反応なし」と診断書に記し、首を傾げるだけだった。測定器の針は、一度たりとも動かなかったのだと。
けれど、この光は確かに在る。枯れた花を咲かせるこの力は、幻覚ではない。
化粧台の引き出しから、古びた革表紙の手帳を取り出した。母の日記だ。
母——先代公爵夫人セレスティーヌは、私が七つの時に亡くなった。病弱だったと聞かされている。父は母のことを語りたがらない。母の名を口にするだけで、あの厳格な顔がわずかに歪むのを私は知っている。残されたのは、この日記だけ。だが書かれた内容の大半は日常の記録で、魔法に関する記述はごくわずかしかない。そのわずかな箇所に、ある言葉が繰り返し現れる。
『封印は保っている。この子が目覚める前に、私がすべてを整えなければ』
『封印の維持に魔力を割きすぎている。体が保たない。けれどまだ——』
『もしこの封印が解ける日が来たら、どうか、この子を守れる者がそばにいますように』
封印。何を、何のために、誰が施したのか。母は答えを書き残す前に逝ってしまった。
「……お母様」
日記の頁をそっと撫でる。インクの褪せた文字が、月明かりの下でかろうじて読める。紙の端はすでに黄ばみ、頁をめくるたびに微かな古紙の匂いが立ち上る。それがどこか、幼い日に母の書斎で嗅いだ空気に似ていて、胸の奥がじんと熱くなった。
私の体には何かが眠っている。それだけは確信している。宮廷の誰も信じなくとも、この蒼い光が証拠だ。そして母は、それを知っていた。知っていて、封じた。理由があったはずだ。
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日記を仕舞い、化粧台の裏板を外す。二重底の奥から取り出したのは、数冊のノートだった。表紙には何の記載もない。ただ中を開けば、びっしりと書き込まれた魔法理論の記述で埋め尽くされている。
禁書庫から書き写したものだ。
宮廷の禁書庫には、一般に公開されていない古代の魔法理論書が収蔵されている。通常は王家の許可なく閲覧できない。けれど「魔力ゼロの令嬢」には、便利な一面もあった。魔力感知の警報が反応しないのだ。深夜の禁書庫に侍女マリーの助けを借りて忍び込み、一冊また一冊と理論書を読み解いてきた。三年の歳月をかけて。
ノートを開く。最新の頁には、自分なりの仮説が書かれていた。
『現行の魔力測定体系は、五大属性——火・水・風・土・光——を前提としている。しかし古代文献には「属性の外」に位置する力の記述がある。もし測定器が五属性の反応しか検知できない構造であれば、それ以外の属性を持つ者は「魔力ゼロ」と誤診される可能性がある』
仮説にすぎない。証明する手段は、今の私にはない。この国の魔法体系は五属性を絶対の前提としており、その外側を想定すること自体が異端とされる。禁書庫の古代文献にわずかな手がかりがあるだけで、体系的な理論は見つかっていない。
だが、諦めるつもりはなかった。
指先を見る。もう蒼い光は消えている。けれどこの奥に、確かに何かがある。母が命を削ってまで封じたもの。それは呪いではなく、力だと信じたい。
窓の外では、宮廷の魔灯がまだ煌々と夜会の余韻を照らしていた。あの光の下で、殿下は今も私のいない世界を楽しんでいるのだろう。伯爵令嬢たちは扇の陰で私を嗤い、父は書斎で沈黙を守っている。
それでいい。
今は、まだ。
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日記を化粧台の引き出しに戻し、ノートを二重底に隠し直す。窓辺に歩み寄り、白百合に視線を落とした。先ほど蘇った花は、何事もなかったように凛と咲いている。
「いつか、必ず」
声にしたのは、誓いだった。
母の封印の意味を解き明かす。この蒼い力の正体を突き止める。そして——「出来損ない」と蔑まれた公爵令嬢が、本当は何者であるのかを、この手で証明してみせる。
窓の向こう、宮廷の尖塔の先に星が一つ瞬いた。冬の星は冷たく鋭い。まるで、遠くからこちらを値踏みしているように。
その星を見上げたまま、私は化粧台の鏡に映る自分の瞳に気づいた。
——蒼い。
一瞬だけ、虹彩の奥で蒼い光が揺らめいた。指先ではなく、瞳の中で。それは今までになかった変化だった。
封印が、揺らぎ始めている。
母が遺した日記の最後の一文が、脳裏を掠めた。
『もし瞳にまで光が及んだなら——もう、時間がない』
その意味を理解する前に、光は消えた。鏡の中の私は、いつも通りの黒い瞳をしている。
白百合の香りだけが、静かな部屋に漂っていた。