第3話
第3話
御前会議の間は、宮廷の最奥に位置している。
普段その扉が開かれることは稀だ。けれど今朝、廊下にはすでに武官と文官が入り乱れ、伝令の書簡を手にした者たちが足早に行き交っていた。私は令嬢たちの控えの間から、その慌ただしさを眺めている。本来であれば、魔力を持たない公爵令嬢に軍議の空気を吸う資格はない。ただ、戦時においては貴族家の当主代理として情報を受け取る義務がある——父が会議に入っている間は、私がその役目を担う形式になっていた。形式だけの、空っぽの役目。いつもなら。
武力衝突の急報から一夜が明け、事態は悪化の一途を辿っていた。
国境砦の陥落は二つから四つに増え、ラーヴェン帝国の正規軍が王国領内に十里ほど侵入したという。駐留軍は後退を余儀なくされ、北方の街道が寸断された。宮廷の空気には、昨夜までの夜会の残り香など跡形もない。すれ違う貴族たちの顔は一様に強張り、令嬢たちですら扇を持つ手に力がこもっている。
控えの間の扉が開き、父付きの従者が現れた。
「ルシエラ様。公爵閣下より、御前会議の間へお越しいただきたいと」
一瞬、耳を疑った。
御前会議に、私が。参列ではなく、呼び出し。従者の表情から冗談でないことは明らかだった。胸の内に不穏な予感が走ったが、それを顔には出さず、静かに立ち上がった。
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御前会議の間に足を踏み入れた瞬間、十数対の視線が私に突き刺さった。
長い楕円形の卓を囲んで、王国の中枢がずらりと並んでいる。王座に近い席には国王陛下の側近たち、右手には軍部の重鎮、左手には文官の長。そして卓の中ほどに、父——アルヴェシュタイン公爵の厳格な横顔があった。父は私を一瞥したが、そこに娘への感情は読み取れなかった。
卓の上座に座る宰相ヴァイスハウプト侯爵が、書類から顔を上げた。白髪交じりの顎鬚を撫でながら、感情の読めない灰色の瞳で私を見る。
「アルヴェシュタイン公爵令嬢。急な召喚を詫びよう。だが事態が事態でね」
「恐れ入ります、侯爵閣下。お役に立てることがあれば」
定型の返答をしながら、室内を観察した。軍部の将官たちは不快そうに眉を寄せている。なぜ魔力なしの小娘がここにいるのか、と顔に書いてあった。その中で唯一、宮廷魔法師団の長であるグレーフェン卿だけが、妙に落ち着いた目で私を見ていた。
「単刀直入に言う」宰相が切り出した。「帝国との開戦は避けたい。だが外交使節はすでに拘束され、正規の交渉路は断たれた。我々は帝国の内情を探る密偵を送り込む必要がある」
密偵。その言葉で、室内の空気が一段と重くなった。
「帝国の国境防衛は魔法探知の結界で覆われている。通常の魔法使いであれば、結界を越えた瞬間に検知される。魔力を抑制する術もあるが、帝国の探知精度は高く、微弱な魔力でも捕捉されると報告されている」
宰相が書類を卓に置き、私を真っ直ぐに見た。
「だが——魔力がゼロであれば、探知結界には一切反応しない」
呼吸が、一瞬止まった。
理解した。理解してしまった。この場に呼ばれた理由を。私の「欠陥」が、この状況において唯一の「利点」になるということを。
「アルヴェシュタイン公爵令嬢。貴殿は魔力を持たない。それは宮廷魔法医官の正式な診断であり、いかなる測定器にも反応しないと記録されている。この特性を活かし、帝国への密偵任務に就いてもらいたい」
沈黙が落ちた。私は父の方を見た。
公爵は前を向いたまま、微動だにしなかった。反対の意を示す気配はない。唇は一文字に結ばれ、卓上に置かれた手は堅く握られていたが——それだけだった。娘を戦地に送ることへの異議を、父は唱えなかった。
胸の奥で、あの夜会の夜と同じ軋みが走った。けれど今回は、痛みの質が違う。蔑まれることには慣れていた。だが「消耗品として都合がいい」と値踏みされることの残酷さは、無視とは別種のものだった。
グレーフェン卿が口を開いた。
「魔力ゼロの人間が敵地に入れば、自衛の手段がない。護衛をつけようにも、護衛の魔力が探知される。事実上の単独潜入だ。危険は——計り知れない」
それは反対意見のように聞こえた。しかし卿の目は私に向けられていて、そこには問いかけがあった。お前はどうする、と。
宰相が続けた。
「無論、強制ではない。だが王国のために——」
「お受けいたします」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
室内にざわめきが走った。父の手が一瞬強く握られたのが視界の端に映ったが、次の瞬間には元に戻っていた。
「ただし」と私は付け加えた。「密偵として潜入する以上、身分を偽る必要があります。偽装の詳細と、帝国内での連絡手段については、事前に十分な準備をお許しいただきたい」
実務的な要求だった。冷静な声だった。少なくとも、そう聞こえたはずだ。
宰相が頷き、詳細は追って伝えると述べ、退出を促された。御前会議の間を出る私の背に、将官たちのひそひそ声が追いかけてくる。
——捨て駒だ。
その言葉が聞こえたかどうかは、どちらでもよかった。彼らがそう思っていることは、最初から分かっている。
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私室に戻ると、マリーが蒼白な顔で待っていた。
「すべて聞きました。控えの間に噂が——ルシエラ様、お断りになるべきです。帝国に単身で乗り込むなど、生きて帰れる保証がどこにもありません」
「マリー」
侍女の肩に手を置いた。震えている。彼女の心配は本物だ。この宮廷で、私の身を案じてくれる人間がどれほどいるだろう。
「聞いて。これは罰ではなく、好機なの」
「好機、ですか……?」
化粧台の二重底からノートを一冊取り出し、最新の頁を開いて見せた。昨夜書いたばかりの仮説——帯域外の魔力、測定器の限界、そして古代文献が示唆する「無色の魔力」。
「禁書庫の文献だけでは限界だった。この国の魔法体系は五属性を前提にしている以上、その外側を研究した資料がほとんど残っていない。けれどラーヴェン帝国は違う」
ノートの余白に書いた走り書きを指で示す。
「帝国の魔法体系は、この国とは根本的に異なると複数の文献が記している。詳細は分からない。禁書庫にある情報はあくまで断片でしかないから。でも——もし帝国の理論が、私の仮説を裏付けるものだとしたら」
マリーの目が、ゆっくりと見開かれた。
「母が遺した封印の意味。この蒼い力の正体。三年かけても届かなかった答えが、帝国にはあるかもしれない。彼らが私を捨て駒として送り出すなら、私はその駒の立場を利用して、自分の手で真実を掴む」
声に、思いのほか力がこもった。掌を見下ろす。蒼い光はまだ現れない。だが皮膚の下の脈動は、昨夜よりも確かに強くなっていた。封印が薄れている。時間は有限だ。母の日記が警告したとおり、変化は加速している。その意味を知らないまま、ただ待っているわけにはいかなかった。
マリーは長い間黙っていた。やがて、震えていた肩から力が抜けた。
「……ルシエラ様がお決めになったのでしたら、私がお止めしても無駄ですね」
「ええ」
「では、せめて私にできる準備を。帝国の日用品や通貨についての資料を集めます。商家の娘として潜入されるなら、所作も商人寄りに変えなければなりません」
その言葉に、胸が熱くなった。だが感傷に浸っている余裕はない。潜入までの時間は限られている。
「ありがとう、マリー。——それから、ノートを全て書き写して二組にして。一組は此処に残し、一組は持っていく。三年分の研究を、無駄にはしない」
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窓辺に立ち、東の空を見る。
国境の方角だ。あの先にラーヴェン帝国がある。自国とはまったく異なる魔法理論を持つ国。私を「魔力ゼロ」と断じたこの国の常識が、そこでは通用しないかもしれない場所。
宮廷は私を使い捨ての駒として送り出す。父でさえ異を唱えなかった。婚約者は存在すら忘れているだろう。それでいい。彼らの思惑と、私の目的は最初から違う。
指先に、微かな熱が灯った。蒼くはない。けれど昨日までは感じなかった、確かな力の気配。封印の綻びが、少しずつ私の体を変えている。
帝国で、私は何を見ることになるのだろう。
母の封印の秘密か。この力の本当の名前か。それとも——三年間の仮説を根底から覆す、想像もしなかった真実か。
どれであっても、もう引き返す気はなかった。
出発は、三日後と告げられた。